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コラム
第104回 教育で貧しい人ほど豊かになった――1980~2019年
Education is disproportionately more important for the poor
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001772
2026年3月
(2,255字)
今回紹介する研究
Amory Gethin. 2025. "Distributional growth accounting: Education and the reduction of global poverty, 1980–2019," Quarterly Journal of Economics, 140 (4): 2571–2618.
教育はどれだけ世界の貧困を減らしたのか
教育は貧困から脱却するのに最も重要な要素のひとつです。健康で紛争・犯罪などに巻き込まれず、就労に制限や不当な差別がなければ、学歴に応じた所得を得ることができます。SDGs(持続可能な開発目標)やその前身のMDGs(ミレニアム開発目標)においても就学率が達成目標となり、とくに1980年代以降に世界各国の初等就学率は100%近くまで到達しました。
では、こうした教育への努力は世界各国の所得や貧困指標にどのくらい影響を与えたでしょうか。こうした問いは成長会計研究で検討されてきました。所得の変化を資本、労働、人的資本(教育)などの変化に分解し、それぞれが貢献した程度を示すという作業です。今までの成長会計の手法を使うと、1980年代以降の成長のうち、33%が教育の貢献と示されています。
しかし、今までの成長会計の手法は、いくつかの点で課題が指摘されてきました。第一に、途上国のなかでも低所得の人たちに対する教育の効果という、開発経済学で最も大事な知識を得ることが叶いませんでした。これは1人あたりGDPという低所得の人と高所得の人をひとつにまとめた平均の指標を取り上げていたためです。階層別の平均所得を利用しなかったというデータ制約に起因する弱点です。第二に、企業の技術変化が労働需要と賃金に与える影響を考慮していませんでした。特定の教育に対して常に一定の所得が支払われると想定してきましたが、現実は違います。たとえば、高等教育修了者への労働需要を増やす技能偏向的技術変化skill biased technological changeがあれば、高技能所得は高まります。先進国で指摘されているこの傾向が途上国にもあるかもしれません。残念ながら、成長会計分析は技能偏向的技術変化を扱えない比較的単純なコブ・ダグラス型生産関数を用いるので、労働需要の変化を検証できません。これは分析枠組みに起因する弱点です。
世界下位20%層の所得成長率:0.8%(就学年数=1980年のまま)、1.9%(就学年数=実際)
今回紹介する研究は、教育が所得の伸びにどのくらい貢献したかを所得階層別に示しています。世界の所得下位85%はすべての階層でほぼ同じ程度の効果で、教育は所得成長を年率約1%ポイント底上げしました。下位20%は所得の年率成長率が1.9%なので、所得増加の半分以上を教育がもたらしたことになります。逆に言うと、もし下位20%の就学年数が1980年のままだったら、所得の年率成長率は0.8%にとどまっていたことになります。上位15%では教育の貢献は減り、上位1%では教育以外の要因でのみ所得が増えていました。これを著者流に表現すると、下位60%で所得の伸びの40-70%を教育が説明している、です。同時期に1日2.15ドル以下で暮らす世界の貧困層は47%から14%に急減しましたが、教育普及はその減少の35%を説明できます。これらは公共政策における教育の重要性を改めて示す証拠といえます。全世界を対象に教育の重要性、とくに低所得階層における重要性を示したのは画期的な貢献です。
教育は1980~2019年の世界の所得成長の25%を説明していますが、企業の高技能労働需要増加の貢献はその30%(7.5%ポイント)を占め、就学年数の延伸という教育の純粋な効果はその70%(17.5%ポイント)でした。高技能労働供給が増えるとその価格(教育投資の収益率)は下がりますが、それに対応して企業が高技能労働需要を増やすことで、価格の減少を押し戻したと解釈できます1。
データ
本研究が所得階層別に教育の貢献を示すことができたのは、用いたデータの種類と量が多いためです。ILOが収集し多国間で比較可能にしたデータを154か国(2019年前後)、世界銀行が収集し多国間で比較可能にした所得分配データを109か国(2000年前後)、そして成長会計研究で今まで使われてきたその他データを多数組み合わせています。各国の家計調査から所得を計算し、国ごとに所得分布を描きます。所得として算入できる範囲を各国で揃え、多国間で比較可能にする作業は膨大です。教育水準も各国で異なる学校制度を考えて比較可能にする必要があります。こうした作業を時系列に40年間にわたって実施しました。種類も異なる膨大な数のデータを使った作業量は相当なものです。こうした作業をたった一人の研究助手とともにやり遂げた著者は凄いの一言です。
実現メカニズム解明の必要性
本研究は成長への教育の貢献を数値で示しましたが、実現までのメカニズムには触れていません。メカニズム解明には各国の教育政策、家計の就学・就労意思決定などの教育に関する伝統的な研究蓄積が参考になります。本研究では、教育の貢献の3割を占める企業の雇用対応を研究する必要性も示されました。途上国企業研究は多数ありますが、技能労働需要に焦点を当てた研究は比較的少数で近年になって始まったばかりです。今後は途上国企業の技術選択行動、技能労働雇用を促す公的政策なども研究する必要がありそうです。
著者プロフィール
伊藤成朗(いとうせいろう) アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に”Seasonality, academic calendar, and school dropouts in South Asia.”(Abu S. Shonchoyと共著、Journal of Development Economics, Vol.179, Februrary 2026, 103549)、主な著作に「南アフリカにおける最低賃金規制と農業生産」(『アジア経済』2021年6月号)など。
注
- ただし、中国とインドは例外で、企業が高技能よりも低技能雇用を多く増やしたために、高等教育の収益率が下がりました。2010年代以降の中国は高技能雇用が増えたものの、それ以前の成長を支えた低賃金雇用の影響が大きく出たのでしょう。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
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- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
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- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩
- 第87回 途上国の医療・健康の改善のカギは「量」か「質」か
- 第88回 人種扇動的レトリックの使用と国家の安定性──ドナルド・トランプの政治集会が黒人差別に与えた影響
- 第89回 都合が良ければ「民主的」、そうでなければ「非民主的」──政治的行動に対する知覚バイアスを探る
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- 第92回 ルールにはルールを──シナリオ実験が示す社会規範を形成する法律の力
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- 第96回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(3)――途上国で労働法制の実効性を高めるには?
- 第97回 目に見える汚職は氷山の一角――コンゴ民主共和国、交通警察内部の汚職システム
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- 第99回 生成AI ―― 労働生産性への効果
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- 第101回 貿易アクセスへの断絶は社会を不安定化させるか?――清朝・大運河の閉鎖と騒乱
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- 第104回 教育で貧しい人ほど豊かになった――1980~2019年


