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コラム
第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051459
2019年9月
(3,065字)
今回紹介する研究
Doruk Cengiz, Arindrajit Dube, Attila Lindner, and Ben Zipperer. "The effect of minimum wages on low wage jobs," Quarterly Journal of Economics, Vol.134, Issue 3, Aug. 2019: 1405-1454.
最低賃金は所得の低い労働者を助ける政策として多くの国で採用されている。貧困をなくすという目的に反対する人は少ないだろう。でも、企業の経営者ならば安易な最低賃金引き上げに疑問を呈するのではないか。スキルの低い人を雇う費用が高くなれば、経営が苦しくなり、そうした人たちを雇う意欲も失せてしまうからである。1990年代半ばまでの実証研究では、最低賃金引き上げは雇用を減らすという理解が大勢であった1。しかし、カードとクルーガー2が1995年に雇用は減らないという推計結果を示すと論争が起こる。今回紹介するCDLZ論文は雇用減らない派への強力な援護射撃である。
この論文が掲載される2年ほど前に、ワシントン州ワシントン大学のグループ(以下、UW)3 とミーアとウェスト(同M&W)4が最低賃金は雇用を大きく減らすという研究を発表した。とくに、UWの研究はワシントン州在住者全員の時給という質の高いデータを使っていたため、結論は覆りそうもないように思われた。しかし、CDLZ論文は、先行研究(上記注1)に倣ったM&WとUWの推計値が最低賃金引き上げと関係の薄いノイズによって歪められており、著者たちの推奨する方法を使えば雇用に与える影響はゼロと推計されることを分厚い確認作業とともに示したのだ。
CDLZ論文は、138件の州別最低賃金引き上げを取り上げており、少数事例のみの研究ではないので、代表性に強みがある。さらに、以下の点で方法論が優れている。
第一に、全体の平均値ではなく、賃金水準ごとに雇用への影響を取り出した。各賃金水準で増減が打ち消し合う場合、全体の平均値は起こったことを覆い隠してしまう。最低賃金が引き上げられ、その履行が完全であれば、最低賃金未満の雇用はゼロに減る。最低賃金未満の労働をそのまま最低賃金水準で雇用すれば、最低賃金以上の雇用が同じだけ増える。この場合、雇用への影響は平均すると差し引きゼロ。実際に、推計では最低賃金未満は雇用減、最低賃金以上は雇用増が確認され、雇用への影響は差し引き僅かにプラス(統計学的にはゼロ)であった。
より特徴的なのは、第二の点である。最低賃金引き上げが雇用に与える範囲を限定し、その範囲外に発生する無関係の雇用変動が推計値を歪める可能性を減らした。著者たちが限定したのは期間と賃金の範囲で、観察対象期間は引き上げ前3年から引き上げ後4年までの合計7年間、観察対象賃金は最低賃金マイナス4ドルからプラス17ドルの合計21ドルの範囲である。この範囲外まで観察対象を広げると関係のないノイズを多く拾うようになる、というのが直感的な動機だ。
具体的には、期間や賃金水準の範囲を限定しないと、1991年景気後退時の高賃金雇用減少と1990年代後半以降の最低賃金引き上げを結びつけ、負の推計値を得る。つまり、雇用減少が最低賃金引き上げに先立っている(=雇用が低い水準になったのは最低賃金引き上げがきっかけではない)のに加え、雇用減少は最低賃金引き上げの影響を受けにくい高賃金帯に多かったので、推計値が捉えたのは見かけ上の相関に過ぎない。最低賃金引き上げがほとんどない1991年までのデータを落とすと、固定効果推計値でも雇用への影響は統計学的にゼロとなる。
ノイズを拾う経路は2つある。第一は、最低賃金が引き上げられると暫く固定されるという性質に由来する。たとえば、最低賃金が5年に1度引き上げられるならば、1期過去の最低賃金値(ラグ値)とは実際には最長で5年前の引き上げ値である。このため、ラグ値を説明変数に含めると、ラグ以前の引き上げと現在の雇用を結びつけてしまう。第二は、固定効果推計値が全期間を観察範囲にするためである。最低賃金に変化はないが水準が高めの時期に最低賃金の低い他州と比べて雇用が偶発的に減少すると、最低賃金に原因を帰してしまう5。UWやM&Wはラグ値やリード値を加えた固定効果推計値を全期間で用いている。応用研究者がデフォルトで使う固定効果推計値の危うさを示した点は見事というほかない。
本論文には他にも知見がある6。雇用への効果が差し引きゼロなのはレストランなどの非貿易財産業に限られ、貿易財産業では最低賃金水準での雇用増は見られない。非貿易財産業は雇用量を変えなかったので、利潤マージンを削ったか、国内消費者に価格転嫁したか、その両方の対応をしたはずである。一方、貿易財産業は最低賃金未満の労働の機械化を進めながら生産量を減らし、利潤も減らした可能性がある。国際市場では国内市場に比べて企業の市場支配力が弱いため、労働費用が上昇すると価格競争力が削られて国内生産を減らさざるを得ない。これらの知見は生産者行動という最低賃金の影響を決めるメカニズムに触れるために貴重である7。また、推計対象になった最低賃金は賃金中央値の60%未満であり、この水準の最低賃金は「アメリカでは」雇用を減らさなかったことも分かった。
総合すると、観察対象期間のアメリカ非貿易財産業において、最低賃金引き上げは4年間雇用を減らさず、最低賃金未満の労働者の賃金が増えたため、貧困削減に奏功した。この知見は最低賃金研究を格段に前進させたといえる。ただし、留保も必要である。上昇した労働費用を誰が負担したのか不明だからである。価格への転嫁を通じて低所得者が大半を負担していたら元も子もない。労働費用が増加して長期的に雇用が保たれるのかも分からない。長期的に低所得者の技能が伸びることで自然と賃金が上がることが教科書的には望ましいが、低所得者の雇用、購買力、技能が最低賃金引き上げによって長期的に伸びる道筋は明らかではない。
にもかかわらず、著者たちが推す適用範囲を超えた結論や数字の一人歩きも始まっている。本論文を言及して、日本の最低賃金は中央値の60%未満なのでまだ低く、本論文では吟味していない消費喚起の材料として見なす報道もある8。労働市場の様相や規制の異なるアメリカを留保なしに参照してよいはずがない。匿名化した賃金データや企業データを公開し、研究蓄積と知見の普及を図ることで、政策課題の理解を広める地道な努力が政府と研究者に求められる。
著者プロフィール
伊藤 成朗(いとうせいろう)。アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に"The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal." (Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018, 27(11): 1627-1652)、主な著作に「開発ミクロ経済学」(『進化する経済学の実証分析』 経済セミナー増刊、日本評論社、2016年)など。
注
- Neumark, David, and William L. Wascher, "Minimum wages and employment," Foundations and Trends in Microeconomics, 2007, および、"The effects of minimum wages on employment," Economic Letter, FRB San Francisco, 2015.
- Card, David, and Alan B. Krueger, "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania," The American Economic Review, 84.4 (1994): 772-793.
- Jardim, E., Long, M. C., Plotnick, R., Van Inwegen, E., Vigdor, J., & Wething, H., "Minimum wage increases, wages, and low-wage employment: Evidence from Seattle," Working Paper No. w23532. National Bureau of Economic Research, 2018.
- Meer, Jonathan, and Jeremy West. "Effects of the minimum wage on employment dynamics." Journal of Human Resources, 51.2 (2016): 500-522.
- 変化する時期だけを用いる一階差分(FD)推計量にこの短所はない。
- 著者たちは別の論考でUWの研究に対しても疑義を呈している。その根拠は、高賃金雇用の拡大、最低賃金引き上げ前から賃金が急上昇して最低賃金未満の雇用が減る傾向にあったこと、著者たちの使ったワシントン州データでは雇用への効果はゼロであること、などである。Dube, Arindrajit, "Minimum Wage and Job Loss: One Alarming Seattle Study Is Not the Last Word," The Upshot, NY Times, July 20, 2017.
- その一方で、企業データを用いない本論文が生産者行動を描くことは難しい。メカニズムの詳細は別論文(Harasztosi, Peter, and Attila Lindner. "Who Pays for the Minimum Wage?" American Economic Review, 109.8[2019]: 2693-2727)を紹介する次の機会に譲りたい。
- 西村博之「最低賃金、世界で論争」、(真相深層『日本経済新聞』2019年6月20日、朝刊2面)。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
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- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
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- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
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- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
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- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
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