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コラム
第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050714
2019年2月
(2,941字)
今回紹介する研究
Laurens Cherchye, Thomas Demuynck, Bram De Rock, and Frederic Vermeulen, "Household Consumption When the Marriage Is Stable," American Economic Review, 2017, 107(6): 1507-1534.
貧困とは突き詰めれば個人ごとの現象だが、消費を個人ごとに調べることは稀である。昨日の食事を誰がどれだけ食べたか、家計で共通の光熱費などをどうやって個人に割り振るか、質問されても明確に答えられないからだ。でも、諦める必要はない。個人消費を正しく当てることはできないにしても、個人消費額が取り得る「範囲」を計算する方法がある。
誰も覚えていないことを計算するとは手品のような話だが、多くの実証テストに耐えてきた経済理論と整合的な行動を想定すれば、家計内の消費配分の範囲を計算できる。本論文が用いる理論とは、家計内資源配分の理論と婚姻市場のマッチング理論である。
従来、経済学で家計は、単一の個人であるかのように振る舞うと仮定されてきた。家計内資源配分研究はこの単一家計仮説に疑義を呈し、家計とは利害の対立する個人の集まりであり、相互に交渉して意志決定するという集合家計仮説を提唱した。その発端となったキアポリらの研究は、家計は資源を無駄にしない、つまり、家計内資源配分はパレート最適という仮定を使って、データから家計内の個人消費配分(「分割ルール」sharing rule)の特徴を明らかにする方法を導いた。そこでは婚姻関係を解消して単身者に戻ることを視野に入れ、個人消費額は単身者が直面する市場や制度の特徴(「分配要素」distribution factors)に依存すると仮定されている。しかし、消費と分配要素が関係を持つに至る具体的な仕組みは明らかにされていなかった。
本論文は、個人消費額が分配要素に依存する仕組みとして「婚姻市場の安定マッチング」という構造を想定し、安定マッチングと家計内の交渉を仮定すれば個人消費額の取り得る範囲を計算できることを示した。「安定マッチング」とは、全ての人について、(1)婚姻下の効用は単身下の効用を上回ること(個人合理性)、(2)現在の相手以外の人と再婚すると自らと再婚相手の効用が上がるペア――ブロッキングペア――はいないこと(ブロッキングペアなし)の2つが成り立つ状態である。再婚しても効用が上がらないとは、現在の相手が最高であることを意味する。
パレート最適と併せたこれら3つを仮定すると、現在の婚姻下で成立すべき個人消費の範囲が定まる。なぜなら、自らの消費があまりに少ないと、単身に戻ったり他の人と結婚する方が良いので、個人消費には下限があるし(個人合理性)、自らの消費を多くしすぎると相手は拒絶したり他の人を選ぶので、上限もあるからだ(ブロッキングペアなし)。そして、少しでも自分と相手の消費を増やすため、二人だけで男女合計所得を使い切るべきである(パレート最適)。
著者たちは2012年のオランダ家計データを使い、婚姻下の男女の一人一人について3制約を同時に満たす個人消費の範囲を計算した。すると、個人合理性は男性94%、女性99%で満たされることが判明した。これは、共同生活には規模の経済があるからと解釈される。一方で、ブロッキングペアなしという制約は全ての男女で満たされなかった。つまり、大多数の人は単身者に戻ると消費が減るものの、現在の相手よりも消費を増やしてくれて再婚にも同意してくれる異性が全員にとって存在する。
それでも現在の結婚相手を選んでいるのは「愛」があるから、という解釈も可能だが、他の相手を探す費用が高い、リスクが高すぎて踏み出せない、離婚すると慰謝料等で自分の所得が目減りする等の解釈も可能である。著者たちは離婚による個人所得目減りという寒い解釈を選んで、どの程度目減りすれば現在の結婚がブロッキングペアなしの仮定を満たすか計算した。すると、目減り率は中央値で0.63%と小さく、現在の配偶者は各人が探せる相手のうちで最上ランクの消費を可能にしてくれていた。「愛」に解釈し直すと、現在の相手を正当化するために求められる「愛」の強さは消費のわずか0.63%であった。オランダはマテリアルなのか。
また、女性の稼ぐ力(=女性賃金率/男性賃金率)が中央値近辺の家計では、女性消費比率(=女性消費/男女消費合計)はおおよそ40%(最小値)から50%(最大値)だった。さらに女性消費比率は女性の稼ぐ力と正の相関があるものの、家計の豊かさ(=男女消費合計)とは相関がないことも突きとめた。つまり、男女の稼ぎの合計ではなく、その比率こそが女性消費比率と関係があった。玉の輿に乗った妻は夫と同じような消費はできないのだ。この関係は相関関係でしかないが、安定マッチングという構造を組み込んだ計算から導かれている。従って、稼ぐ力→個人消費額、という因果関係を強く示唆すると解釈できるのが本論文の強みだ。
著者たちは別論文(2018)*でこの手法をマラウィに適用し、既婚女性は所得目減り幅(=「愛」)が小さいほど離婚しやすいことを示している。婚姻下の消費、離婚後の消費、離婚可能性を計算できるだけではない。子どもの消費決定プロセスや女性受領の現金移転政策を構造として加えれば、現在と離婚後の子どもの消費や移転政策との関係も計算できる。従って、男女の所得と婚姻市場の決定プロセスが分かっていれば、個人消費の範囲と離婚再婚の可能性を計算できるので、貧困削減政策立案者にとって有用な情報を提供する便利な手法といえる。
* Laurens Cherchye, Bram de Rock, Selma Walther and Frederic Vermeulen. "Where did it go wrong? Marriage and divorce in Malawi," August, 2018. 論文では再婚後の所得上昇余地(=夫の「甲斐性の無さぶり」)が大きい(所得目減り幅が小さいと同義)ほど離婚しやすいことを示している。
著者プロフィール
伊藤 成朗(いとうせいろう)。アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に"The effects of becoming a legal sex worker in Senegal on health and wellbeing"(Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018)、主な著作に「開発ミクロ経済学」(『進化する経済学の実証分析』 経済セミナー増刊、日本評論社、2016年)など。
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