IDEスクエア
コラム
第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051560
川中 豪
2020年2月
(2,899字)
今回紹介する研究
Beatriz Magaloni, Alberto Díaz-Cayeros, and Alexander Ruiz Euler. 2019. "Public Good Provision and Traditional Governance in Indigenous Communities in Oaxaca, Mexico." Comparative Political Studies 52 (12):1841-1880. doi: 10.1177/0010414019857094.
地方政府(自治体)の役割は何かと聞かれれば、それは住民に利益を与えることだという答えが返されるだろう。具体的な利益としては、上下水道の整備や教育などの公共財・公共サービスの提供が頭に浮かぶ。これは、住民と地方政府の間にいわゆるプリンシパル・エージェントの関係、すなわち、依頼人と代理人の関係が存在しているとも言い換えられる。代理人である地方政府には、依頼人である住民の利益をできるだけ大きくすることが求められるということだ。
しかし、実際には、地方政府、特にその首長は、自分の個人的な利益を優先し、住民の利益を後回しにしてしまうかもしれない。これを防ぐには、首長が常に住民の意向に沿うような仕掛けを設定しておく必要がある。選挙はそのためにある。住民の意向に沿わない政治家は再選が難しくなり、それを考えれば住民に利益をもたらすよう必死にならざるを得ないはずだからである。
ところが、多くの人がすでに知っているとおり、現実はそれほど単純ではない。選挙があったとしても、首長はさらに上位のポストを狙って所属する政党の幹部の方ばかり見ていたり、自分の支持者たちの利益にだけ配慮したりすることも珍しくない。住民の側も、町全体の状況に関する情報や技術的な知識など、公共財・公共サービスの提供の前提となる様々な情報がないため、首長にはぐらかされることも多い。
必要な公共財・公共サービスをより適切に住民に提供するにはどうしたらよいか。ここで本研究が注目したのは伝統的な統治の制度だった。これまで伝統的な統治は、近代的な政治制度によって乗り越えられるべきものと考えられてきた。選挙による選抜を経験しない伝統的リーダーは住民に対し責任を負わず、人々の福祉は低く抑えられると見られているからである。しかし、場合によっては、伝統的な統治の方が、近代的な民主主義制度よりも首長が住民の利益を尊重する状況を生み出し、より多くの公共財・サービスを提供することがある。本研究は、これをメキシコのオアハカ州のユニークな地方統治の制度的特徴を利用して実証したのである。
1995年のメキシコ憲法改正は、オアハカ州に町レベルで伝統的な統治を復活させることを可能にした。住民たちが直接参加する住民集会を重視したウソス・イ・コストンブレス(以下、ウソス)と呼ばれる統治である。この伝統的統治の復活によって、住民集会によって選ばれるリーダーは、政党を主体とした選挙によって選出される首長と同じ権限を持ち、上下水道設備など公共事業を計画し実施していくことになった。ただし、オアハカ州全土でこのウソスが導入されたわけではなく、これまでどおり政党間の競争を前提とした選挙によって首長を決める町も同時に存在し続けた。このウソスを導入した町と、旧来の政党中心の政治に統治を委ねる町の区分けは、住民の意思とは関係なく州政府によって外生的に導入されることになった。本研究は、この線引きを自然実験としてとらえ、ウソスによる統治の効果を地理的回帰不連続(GRD)デザインによって検証したのである。
町のリーダーに大きな裁量が認められている上水道設備と下水道設備の普及に対する統治のタイプの違いがもたらす効果を検証した結果、下水道の整備状況には統計的に有意な違いが認められなかったものの、上水道についてはウソスによる統治の方がより多く設備を普及させていることが明らかになった。それだけではなく、町の中心部と周辺部の設備の普及のバランスを見ても、政党政治に基づく町では中心部への設備普及の偏りが有意なレベルであるのに対し、ウソスの町ではそうした偏りが認められなかった。これは、ウソスのもとで貧しい地域に対しても分け隔てなく公共財の提供が行われているということである。
さらに、こうした伝統的な統治の効果を示すだけでなく、本研究では100件を超えるインタビューなど定性的な調査も合わせて行い、ウソスがそうした公共財に対する効果を生み出すメカニズムにも分析の射程が広げられている。そこでは、観察やインタビューに基づいてウソスが公共財の提供で良い効果をもたらす三つの要因があげられている。一つは、リーダーが共同体の共同活動で実績のある者のなかから選ばれ、その地位から外れた後は以前のように一人の構成員として再び共同活動に参加しながら生活するため、事後的な共同体の制裁を恐れて権力の濫用が制限されること。もう一つは、住民にはウソスでの意思決定に住民集会の場を通じて参加する義務があり、政策に関わる情報が共有されていること。情報の共有は住民集会での熟議を通じ住民の真の選好を明らかにすることを可能にし、さらに、リーダーが住民集会の意思を尊重する慣習があるため、それが実際の配分に反映される。対照的に、政党中心の統治の町では、実質的に首長の独断で資源配分の仕方が決定されている。そして最後に、清掃や宗教的行事など共同体の活動への参加が住民に義務づけられているため、共同体の福祉向上への協力が慣習化していること。これによって集合行為問題が解消され、共同体の集団としての利益が尊重される。また、共同体の活動への参加は慣習的な税の一種とみなされるため、それ相応の住民への公共財の提供が期待される。
伝統的な統治には様々な形態があり、そのすべてが民主主義制度に勝っているというわけではない。また、集合行為問題の統制と社会の閉鎖性は同じコインの裏表にある。しかし、リーダーの裏切りの抑制、人々の政策決定参加による情報の共有と住民の政策選好の顕在化、集合行為問題の解決と集団的な利益の向上など、住民の利益を拡大するために必要な条件についての多くの示唆を、伝統的な統治は与えてくれる。そして、それは近代的な民主主義制度がその期待される機能を発揮するためのカギのありかを示しているとも言える。
著者プロフィール
川中豪(かわなかたけし) アジア経済研究所地域研究センター長。博士(政治学)。専門分野は比較政治学。著作として『後退する民主主義、強化される権威主義――最良の政治制度とは何か』ミネルヴァ書房、2018年(編著)、Political Determinants of Income Inequality in Emerging Democracies, Singapore: Springer, 2016 (with Yasushi Hazama)など。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩
- 第87回 途上国の医療・健康の改善のカギは「量」か「質」か
- 第88回 人種扇動的レトリックの使用と国家の安定性──ドナルド・トランプの政治集会が黒人差別に与えた影響
- 第89回 都合が良ければ「民主的」、そうでなければ「非民主的」──政治的行動に対する知覚バイアスを探る
- 第90回 融資金を夫から遠ざけることができたらマイクロファイナンスの効果が大きくなるかもしれない
- 第91回 インドのグラム・パンチャーヤトから学ぶ地方自治体の規模が公共財供給に与える影響
- 第92回 ルールにはルールを──シナリオ実験が示す社会規範を形成する法律の力
- 第93回 産まれたらすぐ現金給付を
- 第94回 売買春市場から人身売買をなくすことのできる規制とは?