IDEスクエア
コラム
第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
Are Girls Bad at Math?: Influence of Teachers’ Unconscious Bias
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052880
2021年12月
(2,896字)
今回紹介する研究
Michela Carlana. 2019. “Implicit Stereotypes: Evidence from Teachers’ Gender Bias,” Quarterly Journal of Economics 134(3): 1163–1224.
OECD(経済協力開発機構)諸国では、いまや男女の教育格差はなくなりつつあるどころか、男子より女子の教育水準が高いという逆転現象が起きている。経済学で教育にお金をかけることを教育投資というのは、子どもがよい教育や高い教育を受けると、将来の所得水準がより高くなるという収益が期待されるからである。にもかかわらず、男女の所得格差はいまだに大きい。日本ではそれほど顕著でないが、欧米ではSTEM分野(サイエンスS、テクノロジーT、エンジニアリングE、数学Mの頭文字をとったもの)が高所得業種につながりやすいことから、STEM分野を専攻する女子の割合が低いままであることが、男女の所得格差の一因であるとみられている。女子はなぜSTEM分野の専攻を避けるのか。生物学的に女子は数学が苦手だからだろうか、それとも社会や文化によってかたちづくられた、女子は数学が苦手だという意識的なもしくは無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)があるからだろうか。本研究は、イタリアの中学校を対象に、担任教師にそのようなバイアスが強いと、女子の数学の点数が低くなり、いわゆるよい学校に行く可能性が下がることを示した。
アンコンシャス・バイアスの測り方
本研究では、女子は数学やサイエンスが苦手だというアンコンシャス・バイアスを測ることに力を入れている。無意識だけに、いったいどうやって測るのか、疑問に思う人も多いと思うが、社会心理学の分野では、無意識の思い込みを測る工夫がなされてきた。アンコンシャス・バイアスを測る代表的な方法として、潜在連合テスト(Implicit Association Test:IAT)1がある。
ジェンダーとサイエンスに関するIATでは、回答者は、図1の左側のような画面が出てくる場合と、右側のような画面が出てくる場合の両者に対応する。回答者は、左側では、画面にJohnといった男性の名前か文学(Literature)のような人文科学分野が出てきたらEキーを、Maryといった女性の名前か宇宙工学(Astronautics)のような自然科学分野が出てきたらIキーをできるだけ素早く押す。右側ではこの組み合わせが逆となり、画面に男性の名前か自然科学分野が出てきたらEキーを、女性の名前か人文科学分野が出てきたらIキーをできる限り素早く押す。もし回答者に、女性は数学が苦手というアンコンシャス・バイアスが強ければ、右側の操作はスムーズにできそうだが、女性とサイエンスを結びつける左側の操作には時間がかかりそうである。両者にかかる時間や正確性の違いを通じて、無意識の思い込みを測ろうというのがIATの基本的な考え方である。本研究は、このようなIATをイタリアの中学校の教師を対象に実施し、各教員のもつアンコンシャス・バイアスを測った。
図1 ジェンダー=サイエンスの潜在連合テストのスクリーンショット
ちなみに調査では、アンコンシャス・バイアスだけでなく、男女で生まれつき数学の能力に違いがあると思うか、意識的な思い込みも聞いている。このような意識的なアンケートを受けると、回答者にはこのように答えておいた方がよいのではないかといった、社会的に好ましいと思われる回答(この場合は、男女の差がないという回答)をする傾向があるため、回答者の本音や偏見を測れない恐れがある。もちろん、IATにも、ある意味曖昧な指標であるために正確性に欠けるといった批判があり、いずれにも一長一短があるのだろう。ただ、本研究では、アンコンシャス・バイアスと違い、意識的な思い込みには、以下のような女子のテストの成績や進路にもたらす影響がなかった。
女子は数学が苦手だと思っている教師が担任になると?
実証結果によると、女子は数学が苦手だと思い込んでいる教師に教わると、中学生の女子について、数学の成績が下がり、高校の進路選択にいわゆるよい学校を選ばなくなり、数学に関する自己肯定感が下がることが分かった。イタリアでは、高校側からのセレクションがなく、自分の選択で行きたいところに行けるので、女子とその家族が、よい学校に挑戦することをやめた、と解釈できよう。
男子は数学教師のアンコンシャス・バイアスには影響を受けず、国語教師のアンコンシャス・バイアスについては、男子も女子も影響を受けなかった。また、数学教師のアンコンシャス・バイアスにネガティブな影響を受けたのは、もともと成績が上位の女子ではなく、下位3分の1の女子のみであった。
文化や社会における思い込みの影響
女子は文系、男子は理系といった思い込みは多くの人がもっているように思える。しかし、それが生物学的にではなく、社会的に決定づけられたものであることはあまり知られていない。OECDが実施している学習到達度調査(Programme for International Student Assessment:PISA)によると、中学生(15歳)の数学テストスコアの男女差は本研究の舞台であるイタリアで大きく、ジェンダー格差が低いといわれる北欧地域や女性の社会進出が比較的進んでいる東南アジアでは、逆に女子のスコアの方が高い(図2)。地域によって違いがあることは、数学の得手不得手が生物学的には説明ができないことを物語っている。
図2 中学生(15歳)の数学テストスコア(PISA)の男女格差
(出所)2015年PISAデータをもとに筆者作成。
日本も、内閣府男女共同参画局が「令和3年度 性別による無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)に関する調査研究」結果を発表しており、男女格差と思い込みの関係に注目が集まっているようである。ただ、この調査はアンケートを実施して、例えば「女性は論理的に考えられない」といった記述に回答者がどれほど同意できるか、意識していることを聞いているため、「無意識の思い込み」と表現するのは正確ではない。いずれにしても、意識していようがいまいが、思い込みが男女格差と密接な関係があることは違いがないようだ。
本研究は、思い込みが、将来の男女の所得格差に、無視できない影響を及ぼしていることを示唆している。教師や親など周りの大人たちや社会の思い込みにジェンダー格差を再生産する仕組みがあることは、もっと知られてよいと思う。
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ) アジア経済研究所開発研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、家族の経済学。著作に‟Dowry in the Absence of the Legal Protection of Women’s Inheritance Rights” (Review of Economics of the Household, 2019) ‟Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan” (Journal of Population Economics, 2019)”Female Labour Force Participation and Dowries in Pakistan” (Journal of International Development, 2021)等。
注
- IATは、ハーバード大学のウェブサイト上で、誰でも受けることが可能。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩
- 第87回 途上国の医療・健康の改善のカギは「量」か「質」か
- 第88回 人種扇動的レトリックの使用と国家の安定性──ドナルド・トランプの政治集会が黒人差別に与えた影響
- 第89回 都合が良ければ「民主的」、そうでなければ「非民主的」──政治的行動に対する知覚バイアスを探る
- 第90回 融資金を夫から遠ざけることができたらマイクロファイナンスの効果が大きくなるかもしれない
- 第91回 インドのグラム・パンチャーヤトから学ぶ地方自治体の規模が公共財供給に与える影響