IDEスクエア

コラム

途上国研究の最先端

第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか

The role of education: Do textbooks contribute to creation of national identities?

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001076

2024年8月

(3,519字)

今回紹介する研究

W. L. Chen, M. J. Lin, and T. T. Yang. 2023. “Curriculum and national identity: Evidence from the 1997 curriculum reform in Taiwan.” Journal of Development Economics 163: 103078.

2024年1月13日に投開票が行われた台湾総統選挙において、与党・民主進歩党の頼清徳が勝利した。筆者は、今回の選挙期間中に「天然独(台湾が既に独立した存在であると自然に考えている人たち)」と呼ばれる若者が増えているという報道を耳にした。このような「天然独」と呼ばれる考え方は、自らのアイデンティティを中国人かつ台湾人(Chinese and Taiwanese)ではなく台湾人(Taiwanese)とみなすことに関連するとも考えられる。事実、図1が示すように、自らを台湾人とみなす20歳以上の人の割合も増加傾向で、中国人かつ台湾人であると考える人の割合は減少傾向である。

天然独」や国籍アイデンティティを形作るものの一つに教育が挙げられる。若年期に台湾人としてのアイデンティティを形成する内容を一斉に教室で学んだ場合、自らのなかに台湾人としてのアイデンティティを持つことは想像に難くない。今回紹介するChen et al. (2023)は、台湾政府が中学校教育に「認識台湾(Knowing Taiwan)」という教科書を導入した新教育カリキュラムが若者世代の台湾人としてのアイデンティティを強めたのかどうか、台湾独立志向の傾向が強まったのかという因果効果を厳密に実証した研究である。

図1 1992年から2023年までの台湾における国籍アイデンティティに関するトレンド

図1 1992年から2023年までの台湾における国籍アイデンティティに関するトレンド

(注) 調査の対象者は20歳以上である。
(出所)国立政治大学選挙研究センター(2024)より筆者作成

台湾政府の教育改革

1997年に台湾政府は「認識台湾」という歴史、地理、社会からなる3篇の教科書を作成し、中学校のカリキュラムに新しく組み込んだ。なお、「認識台湾」は2001年から導入された9年一貫課程政策により終了した。それまでの歴史教育では中国本土の歴史に内容が多く割かれていたのに対して、「認識台湾」の歴史篇は台湾の歴史についてより深く掘り下げている。さらに、「認識台湾」は中国と台湾が別の国であると明確に区別している。たとえば、中国の歴史と台湾の歴史は別のものとして教えられるし、「我が国」というときは中国ではなく台湾のことを指している。対照的に旧カリキュラムの教科書では「我が国」は必ずしも台湾を指していなかったし、中国の歴史が教科書内で25章も割かれていたのに対して台湾に関する歴史は1章しか割かれていなかった。台湾政府は「認識台湾」を導入するにあたり先生に対して教え方の指導はしていないが、高校入試では教科書の内容を問われるため、中学教諭は教科書に沿った内容を教えている。そのため、「認識台湾」が導入されるということはほぼすべての中学校で「認識台湾」の内容が教えられていると考えて差し支えないだろう。

この新カリキュラムは1997年に始まったが、台湾の学年歴は9月始まりなので、1997年9月から中学校で新カリキュラムを享受するのは1984年9月生まれ以降の生徒である。つまり、1984年8月に偶然生まれてしまった生徒は「認識台湾」を利用しない旧カリキュラムのもとで中学校を卒業することになる。偶然 8 月生まれか 9 月生まれかによって受ける教育カリキュラムが異なる実験的な状況を、Chenらは「認識台湾」を用いる新カリキュラムの影響の解明に利用している。

利用データと分析手法

Chenらが利用しているデータは、Taiwan Social Change Survey(TSCS)という回答者の国籍アイデンティティ、生年月、教育水準や民族などの人口統計学データを含む台湾全体の18歳以上を代表するサンプルデータである。TSCSは複数回実施されているが、本研究では2003、2004、2005、2010、2012、2013、2014、2015年が用いられている。2003年からのデータを利用する理由は、TSCSは18歳以上のみを含むため、1997年の教育改革に13歳で中学校に入学した子どもがサンプルに含まれ始めるのが2003年以降だからである。また、2015年までのデータを利用することで、教育改革の影響が長期的に持続しているのか明らかにすることができる。なお、分析対象の都合上、利用するデータは1982年9月から1986年8月に生まれた人のみに絞っている。

「認識台湾」を採用した新カリキュラムが台湾に住む人の国籍アイデンティティや政治志向に与える影響の解明にあたっては、回帰不連続デザイン(Regression Discontinuity Design, RDD)が使われている。RDDのコンセプトは、ある特定の閾値を境にして扱いが変わる事象が発生したときに、その閾値付近の対象を比較することで、その事象の因果効果を推計できるというものだ。本研究の場合、1997年9月に中学校に入学した中学生、すなわち1984年9月以降に生まれた子どもは新カリキュラム下で中学時代を過ごすが、1984年8月以前に生まれた子は旧カリキュラム下で中学時代を過ごすことになる。この9月以前/以降というわずかな差のみによって、偶然受ける教育内容が変わり、その他の条件はほとんど一緒であると仮定することで、「認識台湾」を導入した新カリキュラムの効果を推計できる。

教育改革がもたらしたこと

分析の結果、「認識台湾」を盛り込んだ新カリキュラム下で中学校教育を受けた中学生は、大人になった時に自らを中国人かつ台湾人ではなく台湾人だけであるとみなす割合が旧カリキュラムを受けた人よりも18%増えたことが明らかになった。特に高卒や大卒の人が中卒や専門学校卒の人と比べて新カリキュラムの影響をよく受けていることが分かった。これは一般的に高卒や大卒の人が中卒や専門学校卒の人よりも中学時代に教科書を多く読み込み、よく勉強していることから、「認識台湾」の影響をより多く受けていることを示唆している。

また、この教育効果は地域にどのような民族が住んでいるかでも変わってくる。台湾人としてのアイデンティティが元々強い閩南(ビンナン)系台湾人(Hoklo Taiwanese)が多い地域で教育を受けた人は既に台湾人としてのアイデンティティに触れる機会が多いため新カリキュラムの影響は受けず、逆に閩南系台湾人が少ない地域の人は新カリキュラムの影響を受けることが明らかになった。このように全国で教育改革を実施しても必ずしも全員が一律に自らのアイデンティティに影響を及ぼすわけではないということは重要な発見である。

Chenらは教育改革が台湾独立を支持する考えに影響を及ぼすかどうかも調べた。分析結果は新カリキュラムを受けた人は無条件に独立を支持するようにはならないが、戦争をせずに平和的に独立できるのであれば独立を支持すると示している。

最後にこの新カリキュラムの教育効果が長期間持続するのかを検証している。分析の結果、中学校で教科書を読んでから11~20年経つと、旧カリキュラムと新カリキュラムで教育を受けた人の国籍アイデンティティには統計的に有意な差がないことが分かった。これは、新カリキュラムの施行から10年以上が経ち、学校内だけでなくメディアなどを通じて台湾人としてのアイデンティティに関する情報に旧カリキュラムを受けた人も接している可能性があるからだとChenらは考えている。

この研究をもとに教科書がアイデンティティを形成すると決めつけるのは早計だろう。1997年の教育改革で導入された教科書のどういった内容がこの結果を導き出しているのかまでは明らかになっていない。さらに、1996年以降は台湾初の総統直接選挙に勝利した李登輝が引き続き政権を握り、2000年には初の政権交代が起きるなど、台湾全体として教育カリキュラムにかかわらずアイデンティティへの自意識が高まっていたことが推測される。

しかしながら、教育政策が人々の政治行動やアイデンティティに与える因果効果を厳密に分析した研究は少なく、台湾の事例を利用して教育改革が国民の信条に大きく寄与しうることを示唆している点において、本研究は非常に価値がある。学術研究としての重要性だけなく、中国と台湾という複雑な両岸関係において教育改革が成す役割や意味を発信している点からも興味深い。教育政策は得てして政府の意向を強く受けるものであるが、この研究成果を両国政府がエビデンスとしてどのように活用していくのか、教育改革がどのように進展していくのか、今後の動向に注目したい。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
参考文献
著者プロフィール

松浦(神成)正典(まつうらまさのり) アジア経済研究所地域研究センター南アジア研究グループ研究員。国立台湾大学修士課程修了。専門は開発経済学、農業経済学、応用ミクロ計量経済学。主な著作にWeather shocks, livelihood diversification, and household food security: Empirical evidence from rural Bangladesh(Yir-Hueih Luh, Abu Hayat Md. Saiful Islamと共著, Agricultural Economics, 2023), Mobile phones, income diversification, and poverty reduction in rural Bangladesh(Abu Hayat Md. Saiful Islam, Salauddin Tauseefと共著, Review of Development Economics, 2024)など。

書籍:Agricultural Economics

書籍:Review of Development Economics

【特集目次】

途上国研究の最先端