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コラム
第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
PDF版ダウンロードページ: http://hdl.handle.net/2344/00050687
2019年2月
(1,655字)
今回紹介する研究
Melanie Morten. "Temporary Migration and Endogenous Risk Sharing in Village India," Journal of Political Economy, forthcoming
途上国の農村に住む人々の消費平準化の手段として、都市への出稼ぎ(短期的な労働移住)は有効な方法と考えられてきた。また、消費の変動を小さくするというリスク回避のためだけでなく、消費水準を底上げする目的でも、出稼ぎは大変有効だと考えられている。例えばインド農村では、全世帯の20%が少なくとも一人以上の出稼ぎ者を都市へ送り出し、その収入は世帯収入の半分以上を占めるという。都市への労働移住が貧困削減、リスク削減に役立つことは明らかに思えるのに、実際に農村から都市へ長期的に移住する者は稀であるし、短期的な出稼ぎ者ですら期待されるほど多くない。開発経済学者はこの現象を謎とみなし、解明すべく関心を寄せてきた。
本研究はこれに対する一つの答として、出稼ぎと村人同士のネットワークを利用したインフォーマルなリスク分担(助け合い)の2つが同時に決定されることに着目する。また、政府による貧困者向け雇用政策はフォーマルな消費平準化の一手段とみなすことができるが、それによってインフォーマルなリスク分担機能が追い出される(クラウドアウトされる)のではないかという点に焦点を当てる。
出稼ぎとリスク分担は同時に決まる
本研究では出稼ぎとリスク分担の2つが同時に決まる理論モデルを提示する。村人同士のリスク分担はインフォーマルなので必ずしも頼りにできるわけではなく、出稼ぎという消費平準化のための他の手段によって影響を受ける点が特徴である。リスク分担機能は消費と所得の共分散(相関)によって測定し、共分散がゼロであればリスク分担が完全に機能していると考える。このモデルは、(1)出稼ぎによって村人同士のインフォーマルなリスク分担機能が衰えること、(2)リスク分担機能が村内で出稼ぎ者を出す家計の割合と出稼ぎによる収益率の両方に影響を与えることを説明する。
インドのICRISAT(国際半乾燥熱帯作物研究所)による家計のパネルデータを使った構造推定の結果によると、リスク分担機能が向上すると村内で出稼ぎ者を出す家計の割合は25ポイント下がる。逆に、出稼ぎによりリスク分担機能(上記の共分散)が13ポイント低下する。また、リスクのない資金の貸借が可能であり、それによって消費平準化がなされる場合に比べ、出稼ぎがリスク分担と同時に決定されて消費平準化がなされる場合には、出稼ぎの効果は消費に換算して32ポイント低くなる。
貧困者向け雇用政策(Mahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act: MNREGA)の再評価
MNREGAは2005年以来これまでに5,500万家計を受益者としてきたインドの農村雇用政策であり、同種の政策では世界最大規模である。MNREGAは最低賃金を保障することで、貧困者のみが受益者となるセルフターゲットを可能にしている。仮に出稼ぎとリスク分担が同時に決定されることを考慮すると、MNREGAの効果はいかに再評価されるだろうか。まず、移動費用が高いために出稼ぎができない状況では、MNREGAによって村人同士のインフォーマルなリスク分担機能が低下し、消費で換算した厚生水準がかえって悪化することが示される。
次に出稼ぎが可能な状況では、MNREGAによって、出稼ぎ率はMNREGAがない場合に比べて25%下がる結果となった。出稼ぎとインフォーマルなリスク分担が同時に決定されることを考慮すると、MNREGAの効果は消費で換算して50~90%ほど下がるという。政策を導入するうえでは、インフォーマルな村人同士のネットワークが果たしているリスク分担の役割や機能を無視してはならないという既存研究のメッセージを本研究は強力に裏付けるものだろう。
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ)。アジア経済研究所地域研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は家族経済学、人口経済学。著作に"Dowry in the Absence of the Legal Protection of Women's Inheritance Rights"(Review of Economics of the Household, 2017)、"Marriage, Dowry, and Women's Status in Rural Punjab, Pakistan"(Journal of Population Economics, 2018)等。
【連載目次】
途上国研究の最先端
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合