IDEスクエア
コラム
第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
I personally support my wife working outside the home, but I won’t let her do so because I believe other husbands are against women working outside the home
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052820
2021年9月
(2,405字)
今回紹介する研究
Leonardo Bursztyn, Alessandra L. Gonzalez, David Yanagizawa-Drott. 2020. "Misperceived Social Norms: Women Working Outside the Home in Saudi Arabia," American Economic Review 110(10): 2997–3029.
周りの仲間たちは女性が外で働くことをよく思っていないのでは?
サウジアラビアの女性の労働参加率は15%(ちなみに国際平均は47%)、本研究のデータで、結婚している女性のうち外で働く率はたったの4%という低さである。家父長制の根強いサウジアラビアでは、妻が外で働くことの最終的な決定権は夫がもっていることが多いため、この数字だけをみると、ほとんどの男性は妻が外で働くことに強く反対しているようにみえる。しかし、本研究のデータでも、より一般的なArab Barometerデータ1においても、女性が外で働くことに賛成の男性は8~9割である。
では、なぜ外で働く女性がこれほどまでに少ないのだろうか。本研究の仮説は、多くの男性は個人的には妻が外で働くことに賛成しているものの、自分の周りの仲間たちは反対しているだろうと間違って認識しており、したがって自分も妻を外で働かせない、という意思決定にいたっているというものである。個人的には8~9割の男性が賛成しているため、正しい認識は、自分の周りの仲間たちも8~9割は賛成している、ということである。しかし、4分の3の男性は、その割合を過小評価している。このような現象は、社会心理学で「多元的無知」とよばれる。
介入実験と結果
メインの介入実験はとてもシンプルだ。予め募った35歳までの既婚男性500人を、30人ずつのグループセッションに招待し、女性が外で働くことに対して賛成しているかどうかをほかの労働市場に関する質問と合わせて、他人には答えが分からないようなかたちで聞く。このとき、同じセッションに参加している自分以外の29人うち、どのくらいの割合の男性が、女性が外で働くことに賛成と答えたと思うかも聞く。もともと、雪だるま式サンプリング、すなわち、知り合いを紹介してもらうようなかたちで、参加男性を募っているため、同じセッションに参加している男性のうち、15~29人は知り合いであり、仲間の意見を想像して答えているような感じだろう。
そして、彼らを半分は処置群、半分は対照群にランダムに分け、処置群の男性には、同じセッションに参加していた自分以外の29人のうち何割が、女性が外で働くことに賛成と答えたか、正しい数値を教える。500人のうち、87%が匿名かつ個人的には賛成だったため、正しい数値は、セッションによって多少は異なるだろうが、87%前後になるはずである。前述のとおり、4分の3の男性がその数値を過小評価していたので、処置群の男性のうち、およそ4分の3は、正しい情報を与えられたことで自分の認識の誤りを正すチャンスが与えられたことになる。
最後に、参加男性すべてに、(i)5ドルのアマゾンギフトカードか、(ii)実際の会社のオンライン求人情報サービスに妻を登録するか、のどちらかを選ばせて、実験は終了である。
結果は、対照群の男性のうち(ii)を選んだのは23%だったのに対し、情報を与えられた処置群の男性は32%と、実験によって36%も妻を外で働かせる登録の上昇効果が得られた。
ライトタッチ介入実験が大きな効果をもたらす可能性
本研究で実施されたランダム化比較試験(RCT)は、何らかの思い込みや間違った認識に対し、正しい情報を与えるだけ、という非常にシンプルなものでライトタッチRCTともよばれる。外的妥当性を主張しにくいという欠点はあるが、費用が安価で済み、RCTとして実施しやすいこともあり、同様の手法を用いる研究は増えつつある。
ライトタッチRCTと言えるほど簡易ではないが、情報を与えるという介入や、新しい情報が普及することで、根強い社会規範に大きな変化を与えうるという研究はいくつかある。たとえば、インドのRCTでは、データ入力やコールセンターなど若い女性向けの新しい就業機会ができたという情報を与えられた農村で、女性の労働参加率や教育水準、初婚年齢が上がった、という効果がみられた(Jensen 2012)。
本研究の結果は、ちょっとした情報が、何百年、場合によっては何千年と続いてきた根強い社会規範や通念に影響を与える可能性を示唆しており、ある意味ロマンがある。しかし、このようなライトタッチRCTが、本当にそのような大きな影響をもたらしうるかについては、今後も実証研究の積み重ねが必要だろう。
参考文献
- Goldin, Claudia, 2006. "The Quiet Revolution That Transformed Women’s Employment, Education and Family." American Economic Review, 96(2):1-21.
- Jensen, Robert. 2012. "Do Labor Market Opportunities Affect Young Women’s Work and Family Decisions? Experimental Evidence from India." The Quarterly Journal of Economics, 127(2): 753-92.
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ) アジア経済研究所開発研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、家族の経済学。著作に"Dowry in the Absence of the Legal Protection of Women’s Inheritance Rights" (Review of Economics of the Household, 2019) "Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan" (Journal of Population Economics, 2019) "Female Labour Force Participation and Dowries in Pakistan" (Journal of International Development, 2021)等。
注
- https://www.arabbarometer.org/ Arab Barometerは、中立的な機関として、MENA諸国の世論調査データを公開している。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩