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コラム
第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
Minimum wage impacts: In Brazil, wage inequality reduced, employment did not suffer, but…
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000793
2024年1月
(3,203字)
今回紹介する研究
Niklas Engbom and Christian Moser, “Earnings Inequality and the Minimum Wage: Evidence from Brazil,” American Economic Review, Volume 112, No.12, 2022: 3803-3847.
最低賃金は何のために実施するか
最低賃金規制は第一義的に低所得者支援を目的に実施される。2023年8月発表の厚生労働省資料によると、2023年度最低賃金の全国平均値は1004円となった。下図で見るように前年度比で43円増である。この引き上げ幅は例外的に大きい。2003年度以降10年間の引き上げ幅は実質値で約100円である。最低賃金を23年度並みに引き上げてこなかった理由は、中小企業や地方企業の倒産を招くと政策担当者が考えているからである。企業倒産は費用が大きいので、政策担当者は避けたいであろう。
図 最低賃金(全国平均、2003年度~2023年度)
しかし……最低賃金を50円引き上げたことで倒産する企業は生産的なのか。そういう企業に勤めているからこそ、労働者は低所得なのではないか。もっと生産性の高い企業に転職すれば、労働者はもちろん、経済全体でも所得が増えるのではないか。
最低賃金が上がると低生産性企業は破綻し失職者が出る。もしも、失職者の多くが高生産性企業により高い賃金で再雇用されれば、雇用所得格差を縮小しながら、企業の平均的な生産性が上昇する1。つまり、分配と効率の両面を改善する可能性がある。そんなうまい話があるかと思うかもしれないが、本コラム第62回でも紹介したドイツに関する研究ではそうしたことが起きたと議論されている。つまり、最低賃金規制には、低所得者支援だけでなく、第二義的に効率改善という産業政策目的を備えていると考えられなくもない。
ブラジルの場合
格差縮小と効率改善という二兎を仕留めたドイツの経験は、労働市場の機能が優れていて再雇用が可能だった先進国ならではの結果と考える読者もおられるかもしれない。しかし、今回紹介する Engbom and Moser(2022)は、ブラジルにおいて同様の結果を示している。しかも、格差の縮小度合いは驚くほどの大きさである。
1996年~2018年のあいだブラジル政府は実質最低賃金を2.3倍に引き上げ、下位の雇用所得格差を40%も縮小しつつも、失業者を増やすことはなかった2。格差縮小は低所得者層支援が成功した証左であるため、最低賃金規制の第一目標は達成された。もちろん、ブラジルは新興国BRICSのオリジナル・メンバーであり、フォーマル部門での雇用比率が76%(2012年)と高いため、途上国と呼ぶに相応しいかは議論が残る。しかし、非先進国で大幅な最低賃金引き上げによって分配と効率の両者を改善した経験から学ぶことはある。
データ
ドイツの事例を紹介した本コラムでも指摘したが、政府がデータを提供しないので日本を対象にこうした研究を行うことはできない。労働者が雇用、失職、再雇用と変遷する状態を捉えるには、同じ労働者を追尾してどの企業に雇用されたかをデータで捉える必要がある。企業の生産性、つまり、どのような雇用を選んでどれだけ生産して利潤を上げているかを知るためには、企業も追尾する必要がある。これを同時に満たすデータを雇用者被雇用者マッチデータ(matched employer-employee data、MEEデータ)という。MEEデータは政府が行政データ(税務データ、社会保障データ)として保有している。ブラジル政府はMEEデータを研究用に提供しているため、著者たちは分配と効率の両者が改善したことを突き止めることができた。日本政府はMEEデータを研究用に提供していないため、全国平均最低賃金が1000円を超えることの効果を国民が知ることはない。
格差への効果
ブラジルの最低賃金引き上げは、上昇率が高い、波及範囲が高賃金まで及ぶ、という特色があった。1996年~2018年の最低賃金引き上げは、下位10%分位賃金と50%(中央値)分位賃金の差を40%減らし、下位10%分位賃金と90%(上位10%)分位賃金の差を15%減らした。このように、賃金格差縮小は主に賃金分布の下半分で起こったが、その影響は75%(上位25%)分位にも及ぶ広範囲で認められた。
分散分解という手法で賃金格差縮小との相関を探ると、(同じ能力の労働者なのにどの企業に勤めるかによって発生する)就業先の違いによる賃金格差の縮小と最も強く関係していた。就業先の違いによる賃金格差の縮小は、低生産性・中小企業の雇用が減り、賃金の高い高生産性・大企業の雇用が増えたことで実現している。このメカニズムはドイツの事例と同じと考えられる。
生産や雇用への効果
推計結果によれば、低生産性企業が倒産したり縮小したりしていても、経済全体の失業率は影響を受けていない。2倍以上の最低賃金上昇と中高賃金にも及ぶ波及効果にもかかわらず失業が増えなかったことは、多くの人にとって予想外かもしれない。
これらの点をより詳しく検討するために、著者たちは(ジョブ・ポスティング)理論モデルを組み込んだ構造推計を行っている。その結果、採用活動を低生産性企業が控える一方で高生産性企業が増やしたこと、高生産性企業が最低賃金以上の労働者を引き留るために賃金を引き上げたことで波及範囲が拡がったこと、高生産性企業の生産シェア拡大が低生産性企業のシェア低下を補ったことなどを示している。このように、生産を減らさずに最低賃金規制の第二義的目的──低生産性企業のシェア縮小──を達成したことが失業を抑えたと考えられる。
なお、(労働者を雇用して得られる)収益から労働者に賃金で還元する割合は、生産性の高い企業ほど低くて済む。労働者は一定以上の賃金を得られれば働くことに同意するため、残りの収益を企業が確保でき、その割合は高生産性企業ほど大きいからである。このため、高生産性企業では労働分配率が低く、経済で高生産性企業のシェアが増えると経済の労働分配率も下がる。
このように興味深い知見が得られる一方で、本研究は最底辺のタイミングから計測していることに留意すべきである。データ初期時点の1996年は、実質最低賃金が最低となった翌年である。最低賃金が下がりすぎていたこと、資源価格高騰等で2011年まで1人あたりGDPが概ねプラスの成長をしていることなど、失業が増えにくい環境が雇用を維持させたかもしれない。
ブラジルの事例をどう解釈するか
ブラジルは先進国ではないが、フォーマル部門就業率が高いために、労働市場機能が比較的優れていると考えてよい。また、企業による賃金支払いの違いが1996年当初大きく、転職などを通じて賃金格差を縮める裁定余地が大きかった特徴もある。賃金格差が減り、失業も増やさなかったという良好な結果は、フォーマル化が進んでいる環境では、最低賃金引き上げによる労働移動が労働市場の非効率性を減らすことを示唆している。機能が効率的な労働市場ならば、同じ能力の労働者間の賃金格差は自然になくなると期待できるが、ブラジルでは最低賃金引き上げという政策介入によってその作用が促された。その結果が分配公平化と効率性の改善であった。
良好な結果と書いたが、費用が見えにくいために、実際よりも良好に見えているのかもしれない。最低賃金引き上げによる失業という短期的費用を抑えたメカニズムは、高生産性企業による独寡占傾向の強化、労働分配率の低下など、分配と効率に関する長期的費用を増やした可能性がある。さらに、退出した低生産性企業は雇用機会や生産物を地域で提供することで、価格に反映されない社会的便益をもたらしていたかもしれない。今後は高生産性企業の市場集中の影響を長期間にわたって観察する必要があるだろう。
参考文献
- Berg, Janine. 2011. “Laws or Luck? Understanding Rising Formality in Brazil in the 2000s.” In Regulating for Decent Work: New Directions in Labour Market Regulation, edited by Sangheon Lee and Deirdre McCann, 123–50. London: Palgrave Macmillan UK.
- Card, David, Jesse Rothstein, and Moises Yi. 2023. “Industry Wage Differentials: A Firm-Based Approach.” NBER Working Paper 31588.
著者プロフィール
伊藤成朗(いとうせいろう) アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に“The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal.”(Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018, 27(11): 1627-1652)、主な著作に「南アフリカにおける最低賃金規制と農業生産」(『アジア経済』2021年6月号)など。
注
- 企業間に生産性格差が相当あることは知られている。アメリカのデータを使った研究では、似たような能力の人の賃金に勤め先によって相当(能力差によるばらつきの6分の1程度)のばらつきがあると指摘されている(Card, Rothstein, and Yi 2023)。大企業の場合、その背景には生産性格差だけでなく独寡占なども考えられるが、中小企業の場合は生産性格差や移動や移住の費用などを主に反映していると考えて差し支えないだろう。市場が万能であれば、学歴や経験を考慮した後に同じ能力の人の賃金は同じになるはずなのに、現実には転職などで裁定し尽くされない差が残る。つまり、アメリカにおいては、低生産性企業が相当生き残っている。企業の新陳代謝がより不活発な日本では、アメリカ以上に低生産性企業がいる可能性がある。
- 1996年以前はハイパーインフレーション期に実質最低賃金が低下していたため、2.3倍という数字は割り引いて考える必要がある。Berg(2011)によれば、1990年以降の実質最低賃金は1995年に最低となり、1990年水準を回復するのは2007年になってからである。2010年水準は1990年水準の1.52倍であった。
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