IDEスクエア
コラム
第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
Gender Wage Gap Part 1: Women Do Not Like Negotiation
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053595
2023年2月
(3,006字)
今回紹介する研究
Barbara Biasi and Heather Sarsons. 2022. “Flexible Wages, Bargaining, and the Gender Gap,” Quarterly Journal of Economics, 137 (1): 215–266.
先進国では、すでに日本をのぞいて、女性の大卒割合は男性のそれを超えている(図1)。にもかかわらず、男女賃金格差は根強いままである。OECD諸国に限ってフルタイムの賃金を比較すると(図2)、男性に比べて女性の賃金は12%ほど低い。ここで男女賃金格差を問題視するのは、教育投資というのは、教育をした分だけ将来労働市場でより稼ぐことができ、投資コストに見合う分を回収できるという期待を前提としているからである。女性の方が教育投資は大きいにもかかわらず、賃金が低いままなのはなぜなのか。その理由として、女性は欧米諸国では高所得業種であるSTEM分野の専攻が少ないこと(筆者の過去のコラム「第54回 女の子は数学が苦手?──教師のアンコンシャス・バイアスの影響」を参照)、女性は賃金以外の働きやすさといったことを重視すること、などが挙げられてきた。今回紹介する研究は、たとえ能力が同じであっても、女性の方が男性より賃金を交渉したがらないこと、を一つの理由として実証した。
図1 OECD諸国の25-34歳人口(男女別)における四大卒以上の割合(2019, 2020年)
(出所)OECD. Statをもとに筆者作成。
図2 OECD諸国のフルタイム男女賃金格差(2018年)
(出所)図1に同じ。
ウイスコンシン州の法改正を利用した自然実験
アメリカのウイスコンシン州では、2011年に「ウイスコンシン予算再生法(第10号法)」が制定された。これにより、公立校教員の賃金の決まり方が柔軟になった。それまでは、教職員組合と学区との交渉により、賃金表が合意され、個々の教員の学歴を基準に年功序列で賃金が決まる仕組みであった。組合の団体交渉以外に賃金を交渉する余地はなく、賃金に教員の能力や業績が反映されるすべがなかった。2011年以降、学区ごとの教員ハンドブックを参照すると、2015年には半数の学区で賃金表が廃止されていた。また、賃金表を用い続けていた学区でも、賃金表のどこに自分が位置づけられるかは交渉次第となった。それぞれの学区によって賃金の決まり方は多様となり、要するに、交渉によって賃金が決まる仕組みとなった。
ただ、賃金交渉の自由化は、2011年にすべての学区で一斉にスタートしたわけではない。同法以前に組合と学区で合意された賃金表には期限が設けられており、その期限が2011年に無効になった学区もあれば、2012年や2013年まで有効だった学区もある。さらに、期限が延長された学区もある。この期限の延長については、ランダムに決定したというには批判があるかもしれないが、少なくとも2011年以前の合意により決定していた期限については、ランダムに決定していたとみなしてもよさそうである。本研究はこの賃金表の期限が学区によって異なることを自然実験として、賃金交渉が自由化された学区と、まだされていない学区とを比べ、教員の男女賃金格差にもたらした影響をみようとしたものである。
実証結果
まずは、男女教員の年収格差について、ウイスコンシン州公立校教員に関する行政データを中心に実証した。結果によると、賃金交渉の自由化の2年後には、女性の教員の年収は、同じ職歴と学歴の男性に比べて0.4%低くなった。この差は5年後には0.8%に開いた。これは、金額に換算すると、年間で440ドルの差である。男女の年収格差は、働いてから6年以内と経験が浅く、また若い教員ほど大きかった。分析では、フルタイムの年収を使用したので、産休や育児休業、時短勤務の取得といったことは格差の理由にはならない。さらにこれらの格差は、校長や学区長が男性であるほど開いた。アメリカでは、学区長が教職員の雇用や給与に最終的な決定権をもち、校長は各学校で教員の担任配置や評価など日本でもおなじみの権限だけでなく、自校への教員の異動についても権限をもつ。
著者たちは、この格差を、女性は交渉を好まないからではないか、と仮定した。この問いに答えるために、公立校の教員を対象として調査を行った。調査票を用いて、これまでに賃金交渉を行ったことがあるか、あるとすればそれは成功したか、ないならばなぜ交渉しなかったのか、今後賃金交渉をするつもりがあるか、といった質問をした。交渉に関する知識、たとえば、同僚の年収や、交渉した同僚を知っているか、といったことも聞いた。また、社会心理学の知見に基づいて、交渉能力を測るような質問も盛り込んだ。
調査データを分析した結果、交渉したことがない女性の教員は男性より多く、その差は22%であった。同様に、今後も交渉する気がないと答えた割合も女性教員の方が高かった。交渉しない理由で男女差が大きかったのは、賃金に関する交渉が好きではない、との回答で、83%差であった。興味深いことに、賃金以外の教職外活動や担任配置などに関する交渉では、それほど男女の差はみられなかった。また、女性の方が、同僚の年収や交渉した同僚に関して知らないと答えた割合が高かったが、交渉能力については、男女の差はみられなかった。さらに、これらの違いは、学区や教員の特徴をコントロールしたうえでもみられた。また、交渉を避けることについて、学区長が男性である場合にのみ男女の差が開き、学区長が女性である場合は男女の差はみられなかった。これは、上記の行政データを用いた年収格差に関する分析結果と整合的である。
論文では、男女の賃金格差をもたらす、ほかの可能性についても丁寧に検討している。たとえば、男女の教員で、能力が違う可能性である。行政データでは、生徒の成績も分かるので、これをもとに不完全ながら教員の能力についても測ることができる。平均すると、女性教員の方が能力は高いので、それによって賃金差が出るとは考えにくい。さらに詳しく分析すると、能力が高い男性教員は、自由化後に交渉して賃金を上げることに成功したが、能力が高い女性教員にはこのような効果がみられなかったことが分かった。
交渉を嫌う背景にあるものは?
交渉も能力のうち、それも含めた賃金格差という考え方もできるだろう。ただ、本研究が示すのは、その交渉が能力を反映したものではない、という点である。実際に、社会心理学の知見を活用して交渉能力を測り、男女の違いを調べたうえで能力差を否定していることは直接的なエビデンスといえそうである。加えて、女性教員が交渉を嫌う傾向や男女の収入格差が、男性の学区長や校長の場合にのみみられる点、交渉に男女差がみられるのは賃金に関する交渉のみ、という点を総合すると、交渉力そのものに男女の差がない間接的なエビデンスといえないだろうか。
交渉が好きかどうかが、社会規範によって知らず知らずのうちに植え付けられたものと考えることはできないだろうか。ジェンダーに関する社会規範の影響は、私たちが思ってもみなかったところに表れている。筆者が過去のコラムで、「女性は家」という社会規範が先進国における少子化を悪化させている可能性についてふれたとおりである(「第56回 女性の学歴と結婚──大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉」を参照)。交渉についても、女性が、男性の上司に対して賃金を交渉することは慎むべきといった社会規範が働き、それが賃金や収入の格差につながっているといえないだろうか。
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ) アジア経済研究所開発研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、家族の経済学。著作に“Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan”(Journal of Population Economics, 2019),“Female Labour Force Participation and Dowries in Pakistan”(Journal of International Development, 2021),“Labor Market Information and Parental Attitudes toward Women Working Outside the Home: Experimental Evidence from Rural Pakistan”(Economic Development and Cultural Change, forthcoming)等。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩