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コラム
第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050629
2018年12月
今回紹介する研究
Siwan Anderson. 2018. "Legal Origins and Female HIV," American Economic Review 108 (6) : 1407–1439.
法体系→妻の財産権の保障→避妊方法に関する家庭内交渉力→HIV感染率というチャネル
家族経済学の交渉モデルによると、婚外オプションに恵まれているほど、家庭内交渉力が強い。本研究の家庭内交渉力は、夫の協力が必要な避妊方法(コンドームの使用など)をとっているか否かに着目する。これらの方法は、ピルなど夫の協力がいらない避妊方法に比べ、性感染症を防ぐことに効果的である。離婚時の妻の財産権が保障されていると、妻にとって結婚を解消するというオプションが現実味をもち、妻は夫の協力が必要な避妊方法を交渉できるようになり、結果としてHIV感染率を下げるというメカニズムである。
実証で用いているアウトカムは、HIV感染率、避妊方法、妻の所有財産の有無、妻の意思決定権の程度である。識別戦略は、結婚慣習などを共有するが国境で隔てられている同一民族内で、コモン・ロー側の国の集団と大陸法側の国の集団で、両者のアウトカムに違いが出るか、という点である。主な標本は、違う法体系をもつ国境にまたがる同一民族に属し、血液採取によりHIV感染に関する正確な情報とGPSによる位置情報が得られる女性に限っている。標本数は2003年から2013年にかけて20カ国のDHS(Demographic and Health Surveys)データから得られる女性約11万人である。
法体系の違いが女性のHIV感染率に違いをもたらす
実証結果によると、コモン・ロー体系の国の女性は、HIV感染率が25%高く、夫の協力が必要な避妊方法を用いている割合は30%低い。離婚や死別後に財産を所有している割合や意思決定権の程度も、コモン・ロー体系の国の女性の方が低い。
想定している交渉モデルが当てはまるためには、一国の法制度の浸透が弱いアフリカ諸国において、フォーマルな法律が女性の私的生活において実際に意味をもたなければならず、著者もそれをサポートする実証結果を示すことに心を砕いている。具体的には、主な実証結果が、電化が進んでいる地域、つまり国の法制度が浸透していそうな地域にしかみられないことや、土着の慣習法が生活を律している可能性の高いムスリムや一夫多妻制の慣習がある人々にはみられないこと、などである。そのほか、コモン・ロー体系とHIV感染率との相関を説明しそうな他の可能性も丁寧に反証することで、法体系の由来が女性のHIV感染率を説明するという壮大な仮説に説得力をもたせているといえよう。
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ)。アジア経済研究所地域研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は家族経済学、人口経済学。著作に"Dowry in the Absence of the Legal Protection of Women's Inheritance Rights"(Review of Economics of the Household, 2017)、"Marriage, Dowry, and Women's Status in Rural Punjab, Pakistan"(Journal of Population Economics, 2018)等。
【連載目次】
途上国研究の最先端
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合