IDEスクエア
コラム
第4回 後退する民主主義
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050439
川中 豪
2018年7月
今回紹介する研究
Steven Levitsky and Daniel Ziblatt, How Democracies Die: What History Reveals about Our Future, London: Viking. 2018.
世界各国で民主主義が後退しているという議論をメディアの論説でかなり頻繁に目にするようになった。民主主義の後退とは、民主的な手続き、すなわち選挙によって権力を掌握した政治家が、民主主義制度を支える三権分立をないがしろにし、国民の「敵」として野党やメディアを攻撃し、自らの権力保持と政策実施に手段を厭わない状況と理解されている。ベネズエラのチャベスやトルコのエルドアン、そして何よりアメリカのトランプといったかなり強烈な個性を持つリーダーたちの登場が、人々の興味を引いているのであろう。
メディアでの関心に対して、政治体制を研究対象としている比較政治学では、状況を記述的に整理するものはあっても、本格的に民主主義の後退をめぐる因果関係を解明するような研究はまだそれほど見当たらない。そうしたなか、ハーバード大学に所属する二人の著名な比較政治学者が著したのが本書である。
研究者として多くの手堅い業績を有する二人によるものとはいうものの、本書は基本的には一般読者向けである。サーベイ実験や大規模なデータセットを使用した計量分析などの最先端の方法が使われているような研究書ではない。彼らの関心は、アメリカに立ち現れたトランプ政権という現象をアメリカ市民としてどのようにとらえ、それにどのように対応していくべきか、というところにある。その意味でジャーナリズムに近い立ち位置の本である。しかし、そのような性格の本ではありながら、比較政治学にとっていくつかの新しい知見を与えてくれている。
ひとつは、ラテン・アメリカを中心として政治体制の研究をしてきたレヴィツキーとヨーロッパ政治史を専門とするジブラットがアメリカ政治を分析した点である。アメリカ政治研究は、アメリカの政治学のなかでは比較政治学とは違う部門として取り扱われ、アメリカに特化した多くの専門家が存在する。しかし、本書は、アメリカを他国との比較のなかに放り込み、ラテン・アメリカが経験してきた民主主義崩壊の事例や、ドイツ、イタリアのファシズムの台頭と横並びにし、そうした事例と同類のものとしてアメリカの現状を捉えている。この点についてそれぞれの事例の歴史的文脈が無視されているというランシマンの手厳しい書評(David Runciman, "How Democracies Die review: Trump and the shredding of norms," The Guardian, Jan 24, 2018)があるが、比較政治学にとっては、民主主義をめぐる理論の一般性を高める作業であり、歓迎すべきことであろう。かつてStepan and Linz(2011)は他国との比較を忘れたアメリカ政治研究の問題点を指摘したが、本書がアメリカ政治研究者にどのように受け取られているのか興味深いところである。
もうひとつの新しい知見は議論の中身に関わる。それは規範(norm)の重要性を主張している点である。比較政治学では、1990年代ごろから制度、それも憲法や選挙法に代表される公式の制度に注目する議論が大勢を占めてきた。単純化して言えば、どのようなタイプの制度、例えば、議院内閣制か大統領制か、とか、小選挙区制か比例代表制か、といった違いが政治の帰結に影響を与えるという議論である。これに対して、本書が指摘するのは、主に政治指導者に共有されるべき非公式の制度である規範の重要性である。憲法が変えられることがなくても、政治指導者が持つ規範が変化すれば民主主義は大きく損なわれると考え、その点ではアメリカも他の民主主義国も同様であると主張する。そして、重要な規範として、政治指導者たちの相互の寛容(mutual toleration)と制度的な忍耐(institutional forbearance)を挙げる。前者は、競争相手が憲法の枠内で競争している限り存在し、競争し、統治する権利を同等に有することを受け入れることであり、後者は、権力者が自らの行き過ぎた権力行使を自制することを指す。
こうした規範はたまたま存在するといったものではない。そのような規範を持つことは安定的な民主主義をもたらすことになり、安定的な民主主義があれば政治指導者たちは一定程度の利得(権力)を長期的に確保できるので(つまり、今回の選挙に負けても次回の選挙で勝てる見込みがある)、彼らはそのような規範を保持するようになると見ることができる。それは民主主義制度のもとで競争が繰り返される長い歴史のなか、導き出された均衡とも言い換えられる。
しかし、民主主義が後退する国々においては、この均衡を成立させる前提が失われつつある。規範を組み込んで考えればそのように推測することが可能になる。そして、この前提が失われつつある状況はどのように発生するのか。こう考えると、民主主義の後退を引き起す原因に接近するヒントが得られるだろう。
さて、本書の主たる対象はアメリカであったが、世界を見渡せば民主主義が後退している国々を見つけることはそう難しくない。特に民主化の第三の波を受け、1980年代以降民主化した国々のなかにそうした事例を見出すことができる。こうした新興民主主義国に起こっている民主主義の後退はどのように理解すべきか。こちらについては、公刊されたばかりの川中編(2018)をご参照いただきたい。
著者プロフィール
川中豪(かわなかたけし)。アジア経済研究所地域研究センター長。博士(政治学)。専門分野は比較政治学。著作として、Political Determinants of Income Inequality in Emerging Democracies, Singapore: Springer, 2016 (with Yasushi Hazama)やPower in a Philippine City, Chiba: IDE-JETRO, 2002など。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩
- 第87回 途上国の医療・健康の改善のカギは「量」か「質」か
- 第88回 人種扇動的レトリックの使用と国家の安定性──ドナルド・トランプの政治集会が黒人差別に与えた影響
- 第89回 都合が良ければ「民主的」、そうでなければ「非民主的」──政治的行動に対する知覚バイアスを探る