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コラム
第101回 貿易アクセスへの断絶は社会を不安定化させるか?――清朝・大運河の閉鎖と騒乱
Does the Interruption of Trade Access Destabilize Societies? The Closure of the Grand Canal and Conflicts in the Qing Dynasty
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001555
2025年11月
(2,456字)
今回紹介する研究
Cao, Yiming and Shuo Chen. 2022. “Rebel on the Canal: Disrupted Trade Access and Social Conflict in China, 1650-1911.” American Economic Review, 112(5): 1555-1590.
国際貿易が容易だと、地域経済振興や雇用創出を通じて社会を安定化させると認識されている。一方で、国際貿易が管理されているとレントシーキングを引き起こし、内乱を発生させるなど社会が不安定化する可能性も指摘されてきた(Hirshleifer 1989)。国際貿易の可能性が社会に好影響と悪影響のどちらをもたらすのかについて、統一的な見解はまだ無いため、エビデンスの蓄積が求められている。世界的な極右政権の台頭や、排外主義的な政党の躍進によりグローバリゼーションや自由貿易に逆風が吹く昨今の情勢を鑑みても、貿易の可能性が社会に与える影響を明らかにする価値は大いにあるだろう。本稿では、世界最古かつ最長の運河である中国の大運河(簡体字で大运河。主要水路は京抗大運河として知られている)が、清朝時代に機能停止し衰退していった事例を基に、貿易費用の増加が社会を不安定化させることを明らかにした研究を紹介する。
大運河の閉鎖
全長1,776 kmに及ぶ大運河は、北京と杭州を結び、政府による維持管理のもとで、北京に所在する中央政府への貢ぎ物である漕運米の輸送と、民間による交易の両方に利用されていた。しかし、1825年の大規模な洪水と嵐により運河が損傷をこうむると、政府は翌1826年から貢ぎ物の輸送を海上輸送に切り替えた。これが結果的に運河の閉鎖へとつながり、民間による利用も大きく減少した。それにより運河を利用した漕運米の輸送量は、1826年頃を境に明確に減少しはじめた。著者らは1826年を貿易アクセスが制限されはじめた時期とみなし運河沿いの地域を襲った外因的な出来事として統計分析に利用している。
分析手法とデータ
本研究は、1650年から1911年にかけての6省575県を対象としたパネルデータセットを用い、運河が通っている県を介入群(Treated)、それ以外の県を対照群(Controlled)として、差分の差法(Difference-in-Differences: DID)を適用した。介入群(75県)と対照群(500県)の分類には、県内に運河が存在するか否かに加え、県内に含まれる運河延長距離(km)を表す連続変数も用いている。本研究を含む経済史の研究では分析に利用する電子化されていない古文書を読み解いてデータセットを構築するなるため、分析に使用されるデータ自体非常に価値が高い。本研究では、各年各県で発生した反乱の件数をQing Shilu(清實錄)という清朝正史から取得している。
運河閉鎖は反乱を増やしたのか?
大運河へのアクセスが縮小した後、運河を含む県では、それ以外の県と比較して、人口100万人あたりの反乱件数が統計的に有意に増加することが明らかになった。この反乱増加の傾向は運河への地理的・経済的依存度が高い県ほど顕著であり、県内の運河の長さが長いほど反乱の増加幅が大きく、運河から10キロメートル以内に存在する市場が多いほど反乱がよく発生することが明らかになった。
さらに、これらの反乱増加の影響は、運河の北部で特に大きく、南部では影響がほぼなかった。これは運河の南部は首都の北京と交易する際に海上輸送といった代替輸送手段を比較的取りやすかったのに対して、運河の北部は運河への交易依存度が高く、めぼしい代替輸送手段がなかったことが原因だろうと著者らは述べている。また、著者らは、この影響は政府の治安維持能力(軍隊の規模など)の変化によって発生したものではないこともあわせて明らかにしている。つまり、運河が閉鎖されたことで、運河周辺の市場町の発展が妨げられ、反乱の増加に繋がったことを示唆している。
大運河が衰退していった時期には第1次アヘン戦争(1840~1842)や太平天国の乱(1851~1864)も起きている。これにより、貿易アクセスが遮断されたことによる社会の不安定化という因果関係は見せかけで、偶然、アヘン戦争や太平天国の乱の時期が重なったことが本当の原因ではないかという可能性が生じる。著者らは以下3つの理由によりこの可能性を否定している。1つ目は本研究における反乱の定義である。既に実在する反政府勢力による反乱は本研究では考慮せず、地元の民衆による反乱のみをカウントしている。そのため、英国や太平天国は本研究で考慮されている反乱に直接的な影響を及ぼしていないだろうと著者らは考えている。2つ目は地理的な特性である。英国や太平天国は特に南京や杭州といった南部で影響力があった。運河の北部のほうが運河衰退後の反乱発生件数が多かったという分析結果を基に考えると、アヘン戦争や太平天国の乱による影響はほぼないか、あったとしても最小限であろう。3つ目は利用データの絞り込みである。太平天国の乱発生以前の1801年から1850年のみにデータを絞り込んで統計分析をしても、推計結果から得られる含意は変わらなかった。
数量経済史研究から現代への示唆
本研究は、清朝の大運河の衰退と統計的因果推論の手法を用いることで、貿易へのアクセスが断たれることにより、社会を不安化させる、すなわち反乱や紛争のリスクを高めるということを明らかにした。これは反グローバリゼーションや自由貿易の縮小という問題を抱える現代社会にも重要な示唆を与えている。インフラ整備や関税の撤廃などにより確保された貿易アクセスは、単に経済成長を促すだけでなく、安定した政治体制や治安を獲得するための重要な公共財となると考えられる。グローバルバリューチェーンの混乱や、自然災害・紛争による輸送インフラの機能停止が、社会情勢の不安化の引き金となりうることを認識させる研究結果と言えるだろう。
参考文献
- Hirshleifer, Jack. 1989. "Conflict and rent-seeking success functions: Ratio vs. difference models of relative success." Public Choice, 63(2): 101-112.
松浦正典(まつうらまさのり) アジア経済研究所開発研究センターミクロ経済分析研究グループ研究員。政策研究大学院大学博士課程在籍中。専門は農業経済学、開発経済学。主な著作に“Weather shocks, livelihood diversification, and household food security: Empirical evidence from rural Bangladesh” (Yir-Hueih Luh, Abu Hayat Md. Saiful Islamと共著, Agricultural Economics, 2023), “Weather shocks and child nutritional status in rural Bangladesh: Does labor allocation have a role to play?”(Kirara Homma, Abu Hayat Md. Saiful Islam, Bethelhem Legesse Debelaと共著, Food Policy, 2025)など。
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