IDEスクエア
コラム
第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)
アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052161
2021年6月
(3,742字)
今回紹介する研究
Ellora Derenoncourt and Claire Montialoux, "Minimum wages and racial inequality," Quarterly Journal of Economics, 136.1 (2021): 169-228.
広がる経済格差の対策として最低賃金を使う。先進各国で最低賃金の引き上げが相次ぐなか、このアイディアは今日的だ。しかし、格差を縮める効果はあるのか。ドレノンクールとモンシャルーの研究は、この今日的課題に歴史的な回答を示している。最低賃金は格差縮小の強力な手段であり、その効果は10年以上消えることはなかった。
本研究で取り上げる米国では、1960~70年代に白人と黒人の所得格差が半減した。とくに、1967年と1968年に大きく減少している。先行研究では公民権運動、黒人向けの教育の改善、所得移転などが検討されているが、いずれも1964年から70年代まで継続した長期政策であり、最低賃金に着目しない限りは1967年と1968年の減少を説明できない。なお、この研究は公民権運動や教育の改善による格差解消効果を否定するものではなく、これらと併せて効果を発揮したと解釈すべき、と著者たちは述べている。
1966年の公正労働基準法(Fair Labor Standards Act)は、サービス業などに連邦最低賃金を適用した。これらの産業では、最低賃金が1967年に1ドル(2017年価値で$6.47相当)、1971年に1.6ドル(同$10.35)となり、最低賃金/賃金中央値の比(ケイツ指標)も、1967年より前は0、1967年に0.38、1971年には0.5近くまで上昇した。急ピッチの大幅増額である。連邦最低賃金は1938年に製造業などを中心に制定されていたが、その他産業の多くは30年たって適用された。なお、連邦最低賃金と別に州最低賃金も存在したが、州最低賃金の導入状況は州ごとにまちまちであった。
著者たちは、家計パネル調査(CPS)データを中心にしながら、労働統計局(BLS)の産業賃金報告で補って、連邦最低賃金導入前後の賃金と雇用の推移を観察している。各産業の賃金分布を示す産業賃金報告は既存研究では顧みられておらず、著者たちが電子化して分析に用いた。新たな情報を見いだしたことも、この研究の貢献である。
賃金、雇用、所得格差への効果推計には4つの手法を用いている。多角的に検証し、いずれも人種間所得格差縮小に貢献したことを確認しているのがこの研究の強みである。1つめは、1967年に最低賃金を適用された産業(「67年産業」)を処置群、1938年に最低賃金を適用された産業(「38年産業」)を統御群とし、産業間の前後比較(二重差分推計、difference-in-differences estimates)による効果計測である。2つめは、州間の前後比較(二重差分推計)による効果計測である。これは「67年産業」の最低賃金が1967年に初めて導入された州を処置群(強処置)、1967年までに州最低賃金が「67年産業」に導入された州を統御群(弱処置)、つまり、最低賃金の未経験州と経験済み州の比較である。3つめは、最低賃金近傍での雇用の平均賃金弾力性(average wage elasticity、就業者数変化率/平均賃金変化率の比で計算)を求めるバンチング推計値(bunching estimates)である。これは最低賃金がない場合には分布が1期前と変わらないとの識別仮定の下、1期前からの変化を効果として推計する。バンチングは、このコラムで以前紹介したハンガリーの最低賃金研究でも用いられており、BLSの賃金分布データがあって初めて推計可能になる。4つめは、仮に最低賃金がなかった場合は「67年産業」の賃金は「38年産業」と同じ変化を辿ったと仮定し、その下での人種間所得格差平均値を現実の人種間所得格差平均値から引くことで、連邦最低賃金が人種間所得格差に与えた効果を推計している。1、2、4の推計方法は、「38年産業」と「67年産業」が共通トレンドに従う、という識別仮定を用いている。
発見は主に3つである。(1)賃金は黒人を中心に増加したものの、(2)失職は少なく、(3)結果として人種間所得格差がほぼ解消された。詳しく見ていこう。第1に、労働者の特徴を考慮しても「67年産業」で賃金が全人種平均で6%程度、黒人だけは8%増え(CPSデータ)、時間給でみても7%ほど増え、黒人の多い南部ではさらに8%ほど増えた(BLSデータ)。雇用されていれば、黒人の所得は大きく増えたことになる。第2に、CPSデータを使った二重差分推計により、1967年以前から就職している労働者の労働時間は0.6%増加(黒人は変化なし)し、就労者数は強処置州が弱処置州よりも0.1%(黒人は1.2%)減少した。BLSデータを使ったバンチング推計からは、賃金の1%の上昇につき、最低賃金の1.15倍以下の賃金の仕事では雇用が0.06%増え、1.20倍以下の賃金の仕事では雇用が0.21%減ったことが示された。雇用があまり減少していないが、これは近年の先進国を対象とした最低賃金研究の特徴と合致している。第3に、今回の最低賃金制定により、経済全体の人種間所得格差縮小の20%程度が説明される。「67年産業」では1967年を皮切りに人種間所得格差平均値が減少し、1980年まで格差ほぼゼロが続く。一方、「38年産業」でも格差は減少したものの、10%程度の格差が1980年まで残っている。1980年以降の分析はないが、それでも10年以上にわたる格差解消が示された。
最低賃金引き上げが雇用を減らさず、効果的に格差を縮小させたのはなぜか。著者らは、「67年産業」に多い黒人労働者が賃金の高い白人労働者に雇い替えされなかったため、と説明している。その背景として、黒人労働職種はステータスが低く、労働市場も人種間で分断されていたために、白人労働が代替する余地は乏しかった、とも説明している。データでも、教育水準の低い労働者ほど便益を受けたことが示されている。黒人がステータスの低い仕事に多く就いていることは人種差別の根幹であり、産業や職種が人種と無関係になることで人種差別解消が期待されている。しかし、黒人の多い職種で上昇した賃金は、差別や分断があったからこそ、大部分が黒人によって享受された。分断をなくす政策ではなかったため、ステータスの低い仕事に就く者の多くが黒人であることにも変化はなかった。格差は解消できても差別を解消できなかったために、今回の結果は、職種に伴う不快感を補償する補償賃金(compensating wage differential)の上昇に過ぎない、という皮相な解釈も否定できない。
1960年代の米国で最低賃金が所得格差解消に貢献したことは、今日の先進国でもその可能性を示唆している。ただし、当時に比べて今日では、労働市場の分断は緩み、サービス産業であっても低賃金労働が機械や外国に代替される可能性はより高いため、雇用が減る可能性もより高いことが見込まれる。
本研究で得た知見は、分断された対象ならば最低賃金は所得引き上げ効果が見込める、ということである。インドのカースト、南アフリカの家事手伝い労働など、人種、出自、ジェンダーによって労働市場が分断されているケースには当てはまるかもしれない。しかし、一般的には途上国への適用可能性は限定的である。最低賃金規制の届かないインフォーマル部門の存在やフォーマル部門でも規制の実効性が低いことで、効果が予見しづらくなるからである。たとえば、フォーマル部門での雇用効果がゼロ(負)ならば、連動してインフォーマル部門でも賃金が上がる(下がる)かもしれない。このように、途上国ではフォーマル雇用の賃金弾力性が本研究とは異なる可能性に加え、インフォーマル労働市場の規模、フォーマルとインフォーマルの労働市場統合度合いなど、格差解消に影響する経路が複雑になる。途上国では履行が十全ではないことを想定して、最低賃金規制を実施する必要がある。
Drenencourt and Montialouxの概要
著者プロフィール
伊藤成朗(いとうせいろう) アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に「南アフリカにおける最低賃金規制と農業生産」(『アジア経済』 2021年6月号)、主な著作に”The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal.” (Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018, 27(11): 1627-1652)など。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩
- 第87回 途上国の医療・健康の改善のカギは「量」か「質」か
- 第88回 人種扇動的レトリックの使用と国家の安定性──ドナルド・トランプの政治集会が黒人差別に与えた影響
- 第89回 都合が良ければ「民主的」、そうでなければ「非民主的」──政治的行動に対する知覚バイアスを探る