IDEスクエア
コラム
第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051559
2020年2月
(3,528字)
今回紹介する研究
Freyaldenhoven, Simon, Christian Hansen, and Jesse M. Shapiro. "Pre-event Trends in the Panel Event-Study Design." American Economic Review, 109.9 (2019): 3307-3338.
生徒への個別指導が成績を伸ばす効果を確認するには、指導前と指導後を比べるのが自然な発想だろう。しかし、すべての人がこの時期に同じ変化をしているかもしれないので、指導経験者と指導未経験者の成績変化を比較して二重差分推計しなくてはいけない。さらに慎重になるために、研究者は指導前よりもさらに前の成績変化もチェックするよう注意を受ける。指導経験者の成績が指導前から伸びる傾向にあれば、指導未経験者よりも成績が伸びたのは単なるトレンドかもしれないからだ。指導前から結果指標に治療群(経験者)と統御群(未経験者)で異なるトレンドがあると、研究者は「プリ・トレンドがある」と独り言を言って政策(個別指導)の効果計測を諦めるのが常識だった。一方、(幸いにも)プリ・トレンドが検知できなかったとしても、検知するだけのデータ量がなかったのではという密かな疑念を拭うことはできなかった。
今回紹介するフレヤルデンホーベン=ハンセン=シャパイロ(FHS)論文は、プリ・トレンドがあっても効果を計測できる方法を示している。プリ・トレンドは背景に何らかの要因があって発生している。背景要因(家庭学習の質)と相関のある変数を探して背景要因のトレンドを推計し、その影響を差し引けばよい。簡単そうに聞こえるが、実は誰も為しえなかったアイディアである。今まで経済学では政策と相関するが背景要因とは相関しない操作変数を探すことに血道を上げていた。この論文のように、背景要因と相関のある共変数(自室の有無)を探してその影響を差し引くとは発想が全く逆だ。
観察できない背景要因の影響をどうやって推計するのか。結果への影響は政策と背景要因の2つだけと仮定して考えてみよう。その他の要因があれば説明変数に加えて制御すればよい。以下では、背景要因1単位の増加が結果変数をどれだけ増やすかという「傾き」を正確に推計することを考える。このとき、結果変数の値は、他の変数との相関に基づいて、下図のようにa~jの部分に分解できる。図は各変数(および背景要因)との相関の有無で結果変数を恒等的に分解している網羅的な見取り図である。
図 結果変数の分解
政策現在値と無相関の部分に限ると、背景要因と相関しているのは全体でb+c+g+hである。背景要因1単位の変化が結果変数をどれだけ変えるかという比例関係を計測するには、背景要因と相関のあるb, c, g, hのどれかを使えばよい。また、d, e, i, jを使ってしまうと背景要因以外の影響を反映するために比例関係を歪める。本論文はb部分を使って背景要因の影響を差し引こうとする。具体的にbを取り出すには、結果変数を政策現在値で説明する回帰式に政策将来値を使った共変数予測値を追加すればよい。bを取り出せるのは、(共変数で結果変数と相関している部分のうち、政策現在値と無相関で)政策将来値と相関している部分b+dのうち、(背景要因と無相関部分)dはゼロという条件が成り立つ場合を想定しているためである。論文では、政策将来値は背景要因を通じてしか共変数と相関していないという除外制約条件として、この識別仮定が表現されている。計量経済学用語を使うと、結果変数が非独立変数、政策変数が独立変数、共変数が内生のとき、政策将来値を共変数の操作変数とする二段階最小自乗法である。観察可能な2変数(共変数と政策将来値)を使って全く観察できない背景要因のbを取り出せるのは驚きである。
ちなみに、共変数を背景要因の代理変数としてそのまま説明変数に使う分析はb+c+d+eを用いる。背景要因とは無関係のeを含むために、比例関係が歪んで推計される。eがゼロ(背景要因以外の要因を持ち込まない無垢な代理変数)ならば歪まないが、このような代理変数が見つかることは稀であろう。
著者たちはこの手法を米国の3つの研究事例に適用して有用性を示している。最初の例は低所得者向け栄養サプリメント・プログラム。結果変数は家計支出のプライベート・ブランド(PB)支出比率、政策現在値はプログラム参加、共変数は現金所得、背景要因は所得合計である。政策担当者は対象者の所得のうち現金部分しか観察できないので、政策将来値を使って現金所得との相関部分を取り出し、所得合計の一部を制御する、というアイディアである。プログラム参加は所得合計を通じてしか現金所得と相関していない(=所得合計水準を無視して参加者は現金所得水準だけでプログラム参加を決める、ということはない)という仮定は成り立ちそうである。この例ではPB支出比率にプリ・トレンドが明確にあるが、所得合計の一部を制御するとプリ・トレンドはなくなって、二重差分推計値よりも政策効果は強く推計された。
次の例は、郡の新聞社数と投票率の関係である。新聞社が多いほど選挙の争点が幅広く認識されて投票率が高まると考えられるが、新聞社数は景気とも関係しており、景気によって投票率が変動する限り、投票率変化の背景要因となってしまう。新聞社数は投票年齢人口比率とは直接関係なく、景気(に影響される移住)を通じてしか投票年齢人口比率と連動しないという仮定は成り立ちそうである。結果指標を投票率、政策現在値を新聞社数、背景要因を景気、共変数を投票年齢人口比率で分析すると、プリ・トレンドはあるものの、二重差分推計値と結果は変わらなかった。
最後の例は最低賃金である。最低賃金は労働需給が逼迫しているときに引き上げられやすい。最低賃金が若年の雇用を減らさなかったとしても、雇用を下支えする背景要因として労働需給が逼迫化しているかもしれない。結果指標を若年雇用量、政策現在値を最低賃金額、背景要因に労働需給、共変数に壮年雇用量を想定する。最低賃金は労働需給を介してのみ壮年雇用量に影響する、という仮定は現実的である。一方で、CPSというアメリカ家計データでは、若年雇用量に明確なプリ・トレンド、つまり、変動がないためにどの変数とも相関が低く、背景要因との相関も低い。このため、推計結果は誤差が大きく、この対象は本手法適用の条件を満たしていないことが示された。
推計結果が変わる例、変わらない例、プリ・トレンドが弱く適用不可の例が示されたように、この手法は適用可否や結果の頑健性のいずれかを明示できる。とくに、プリ・トレンドを肯定視して、今まで放棄されてきたプリ・トレンドのある政策に分析の筋道をつけたのは素晴らしい貢献だ。しかも、実証研究で広く使われている道具を組み合わせるだけで実施できる。家庭学習の質が高い生徒は成績が伸びるが、指導実績を作りたい指導者から個別指導対象に選ばれやすいので、指導の結果として成績が伸びたように見える。家庭学習の質は分析者に観察できない。分析者も観察できる自室の有無は家庭学習の質と関係する共変数である。個別指導は自室の有無を変化させないという識別仮定も成り立つ。自室の有無を1期将来の個別指導に回帰して家庭学習の質によるプリ・トレンドの影響を差し引き、個別指導の効果だけを計測することができる。
著者プロフィール
伊藤成朗(いとうせいろう) アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に"The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal."(Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018, 27(11): 1627-1652)、主な著作に「開発ミクロ経済学」(『進化する経済学の実証分析』 経済セミナー増刊、日本評論社、2016年)など。
- 第1回 途上国ではなぜ加齢に伴う賃金上昇が小さいのか?
- 第2回 男児選好はインドの子供たちの発育阻害を説明できるか
- 第3回 子供支援で希望を育む
- 第4回 後退する民主主義
- 第5回 しつけは誰が?――自然実験としての王国建設とその帰結
- 第6回 途上国の労働市場で紹介が頻繁に利用されるのはなぜか
- 第7回 絶対的貧困線を真面目に測り直す――1日1.9ドルではない
- 第8回 労働移動の障壁がなくなれば一国の生産性はどの程度向上するのか
- 第9回 科学の世界の「えこひいき」――社会的紐帯とエリート研究者の選出
- 第10回 妻の財産権の保障がHIV感染率を引き下げるのか
- 第11回 飲酒による早期児童発達障害と格差の継続――やってはいけない実験を探す
- 第12回 長期志向の起源は農業にあり
- 第13回 その選択、最適ですか?――通勤・通学路とロンドン地下鉄ストライキが示す習慣の合理性
- 第14回 貧困者向け雇用政策を問い直す
- 第15回 妻(夫)がどれだけお金を使っているか、ついでに二人の「愛」も測ります
- 第16回 先読みして行動していますか?――米連邦議会上院議員の投票行動とその戦略性
- 第17回 保険加入率を高めるための発想の転換
- 第18回 いつ、どこで「国家」は生まれるか?――コンゴ戦争と定住武装集団による「建国」
- 第19回 婚資の慣習は女子教育を引き上げるか
- 第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
- 第21回 貧困層が貯蓄を増やすには?――社会的紐帯と評判
- 第22回 農業技術普及のキーパーソンは「普通の人」
- 第23回 勤務地の希望を叶えて公務員のやる気を引き出す
- 第24回 信頼できる国はどこですか?
- 第25回 なぜ経済抗議運動に参加するのか――2010年代アフリカ諸国の分析
- 第26回 景気と経済成長が出生率に与える影響
- 第27回 消費者すべてが税務調査官だったら――ブラジル、サンパウロ州の脱税防止策
- 第28回 最低賃金引き上げの影響(その1) アメリカでは雇用が減らないらしい
- 第29回 禁酒にコミットしますか?
- 第30回 通信の高速化が雇用創出を促す―― アフリカ大陸への海底ケーブル敷設の事例
- 第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
- 第32回 友達だけに「こっそり」やさしくしますか? 国際制度の本質
- 第33回 モラルに訴える――インドネシア、延滞債権回収実験とその効果
- 第34回 「コネ」による官僚の人事決定とその働きぶりへの影響――大英帝国、植民地総督に学ぶ
- 第35回 カップルの同意を前提に少子化を考える
- 第36回 携帯電話の普及が競争と企業成長の号砲を鳴らす――インド・ケーララ州の小舟製造業小史
- 第37回 一夫多妻制――ライバル関係が出生率を上げる
- 第38回 イベント研究の新しい推計方法――もう、プリ・トレンドがあると推計できない、ではない
- 第39回 伝統的な統治が住民に利益をもたらす――メキシコ・オアハカ州での公共財の供給
- 第40回 なぜ勉強をさぼるのか? 仲間内の評判が及ぼす影響
- 第41回 戦争は増えているのか、減っているのか?
- 第42回 安く買って、高く売れ!
- 第43回 家族が倒れたから薬でも飲むとするか――頑固な健康習慣が変わるとき
- 第44回 知識の方が長持ちする――戦後イタリア企業家への技術移転小史
- 第45回 失われた都市を求めて――青銅器時代の商人と交易の記録から
- 第46回 暑すぎると働けない!? 気温が労働生産性に及ぼす影響
- 第47回 最低賃金引き上げの影響(その3)アメリカでは(皮肉にも)人種分断が人種間所得格差の解消に役立ったらしい
- 第48回 民主主義の価値と党派的な利益、どっちを選ぶ?――権力者による民主主義の侵食を支える人々の行動
- 第49回 経済的ショックと児童婚――ダウリーと婚資の慣習による違い
- 第50回 セックスワーク犯罪化――禁止する意味はあるのか?
- 第51回 妻が外で働くことに賛成だけど、周りは反対だろうから働かせない
- 第52回 競争は誰を利するのか? 大企業だけが成長し、労働分配率は下がった
- 第53回 農業技術普及のメカニズムは「複雑」
- 第54回 女の子は数学が苦手?――教師のアンコンシャス・バイアスの影響
- 第55回 マクロ・ショックの測り方――バーティクのインスピレーションの完成形
- 第56回 女性の学歴と結婚――大卒女性ほど結婚し子どもを産む⁉
- 第57回 政治分断の需給分析――有権者と政党はどう変わったのか
- 第58回 賄賂が決め手――採用における汚職と配分の効率性
- 第59回 いるはずの女性がいない――中国の土地改革の影響
- 第60回 貧すれば鋭する?
- 第61回 貿易自由化ショックとキャリア再建の男女格差――仕事か出産か
- 第62回 最低賃金引き上げの影響(その4)――途上国へのヒントになるか? ドイツでは再雇用によって雇用が減らなかったらしい
- 第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく
- 第64回 大学進学には数学よりも国語の学力が役立つ――50万人のデータから分かったこと
- 第65回 インドで女性の労働参加を促す――経済的自律とジェンダー規範
- 第66回 所得が中位以上の家庭から保育園に通うと知的発達が抑えられます――イタリア・ボローニャ市の場合
- 第67回 男女の賃金格差の要因 その1──女性は賃金交渉が好きでない
- 第68回 男女の賃金格差の要因 その2――セクハラが格差を広げる
- 第69回 ジェンダー教育は役に立つのか
- 第70回 なぜ病院へ行かないのか?──植民地期の組織的医療活動と現代アフリカの医療不信
- 第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
- 第72回 社会的排除の遺産──コロンビア、ハンセン病患者の子孫が示す身内愛
- 第73回 家庭から子どもに伝わる遺伝子以外のもの──遺伝対環境論争への一石
- 第74回 チーフは救世主? コンゴ民主共和国での徴税実験と歳入への効果
- 第75回 権威主義体制の不意を突く──スーダンの反体制運動における戦術の革新
- 第76回 紛争での性暴力はどういう場合に起こりやすいのか?
- 第77回 最低賃金引き上げの影響(その5) ブラジルでは賃金格差が縮小し雇用も減らなかったが……
- 第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
- 第79回 国際的な監視圧力は製造業の労働環境を改善するか? バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後
- 第80回 民主化で差別が強化される?――インドネシアの公務員昇進にみるアイデンティティの政治化
- 第81回 バングラデシュのラナ・プラザ崩壊のその後(2)――事故に見舞われた工場に発注をかけていたアパレル小売企業は、事故とどう向き合ったのか?
- 第82回 児童婚撲滅プログラムの効果
- 第83回 公的初等教育の普及、それは国民を飼い慣らす道具──内戦による権力者の認識変化と政策転換
- 第84回 先生それPハクです──なぜ実証研究の結果はいつも「効果あり」なのか?
- 第85回 教育の役割──教科書は国籍アイデンティティ形成に寄与するのか
- 第86回 解放の甘い一歩