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コラム
第78回 なぜ売買契約書を作成しないのか? コンゴ民主共和国における訪問販売実験
Why no formal contracts? Some answers from a door-to-door sales experiment in the Demographic Republic of the Congo
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000814
2024年1月
(4,142字)
今回紹介する研究
Raúl Sánchez de la Sierra, “Whither Formal Contracts?” Econometrica, Vol. 89, No. 5, September 2021: 2341-2373.
社会全体で資源利用の無駄をなくすためには財やサービスの売買取引が不可欠である。また、売買取引がない社会では経済発展の機会も限定されるだろう。しかしながら、初対面の人間と後払い(または前払い)の売買取引を行うのには勇気がいる。なぜならば、取引相手が約束を破る可能性があるからだ。このようなときに役立つのは、約束の履行を促す法律的根拠となる売買契約書だ。にもかかわらず、契約書の作成が普及していない国も多い。なぜだろうか。法に実効性がないからだろうか? あるいは、契約書がなくても約束の履行を可能にする何か別の仕組みが既に社会に存在するからだろうか? コンゴ民主共和国で社会実験を行った本論文によると、いくつかの状況が契約書の普及を妨げているようだ。
市場をつくる──訪問販売実験の概要
著者は、2013年11月にコンゴ民主共和国東部の都市ブカブで、電話通信用のプリペイドカードおよび(カードに加算する追加の)通話時間を訪問販売する実験(ランダム化比較試験)を行った。販売員は本実験のために有給雇用された現地の若い男性である。販売先はいくつかの大通りの近隣住民であり、販売員は無作為に自分に割り当てられた住民宅(以下、顧客)を訪問した。その結果、本実験全体で950を超える顧客が訪問対象となった。
訪問先では、販売員はまずプリペイドカード(3米ドル相当)を販売した。購入者はその場で対価を支払い、カードを受け取った。続けて販売員は通話時間(3米ドル相当)の販売を行った。プリペイドカードと異なり、通話時間は携帯電話の送金システムを利用した後払いとなる。そのため、購入者はその場で通話時間を得ることができる一方、その対価を三日以内に支払うことを約束した売買契約書に署名しなければならなかった。契約書は、未払い者に支払いを強制し、場合によっては刑罰を科す法律的根拠となる。
実際には、通話時間を購入するか否かについて、顧客は二段階で意思表示を求められた。まず顧客は、契約書に署名してでも通話時間を購入したいかどうかを問われた。次に、最初の購入意思がどうであれ、顧客は契約書への署名を免除される集団とそうでない集団とに無作為に分類された。そして、その免除の有無を知らされたうえで、再度、最終的な購入意思を問われた。そのため、当初断ったが、契約書への署名が免除となったことで最終的に通話時間を購入した顧客もいた。意思表示を二段階で求めることにより、当初購入意思を示した顧客、例えば、契約書作成そのものに対する好みが似た顧客のなかで、契約書への署名が最終的に必要となった集団とそうでない集団との比較が可能となる。そのため、こうした実験デザインは、契約書への署名要求を通して著者が分析したい後述の効果(法の実効性)をより正確に推定するために採用されている。
なお訪問販売終了後には、販売員は顧客に対して簡易なインタビュー調査を行い、取引に対する心証など実証分析で利用されるいくつかの情報もあわせて収集している。
分析対象──法の不平等な実効性、および各民族集団内のインフォーマルな統治機能
プリペイドカードの販売も行われてはいるが、本論文における著者の関心は、契約書への署名要求が通話時間の最終的な購入意思や後日の支払行動に与える影響だ。契約書があれば、未払い者に支払いを法律上強制できる。また、契約書を根拠に未払い者に刑罰を科すことができれば、支払うつもりが最初からないにもかかわらず通話時間を購入するような不届き者の発生を未然に防ぐことも可能だ。そのため、契約書への署名要求を通して著者が分析する効果は、法の実効性といえる。
また著者は、法の実効性は販売員のタイプにより異なると考える。ブカブ市には、千年以上この地域に居住し、州政府の役職者(例、知事、大臣)を多く輩出する16の民族(以下、行政支配集団)と一世紀ほど前にルワンダから移り住んできたツチ族とが暮らしている。「よそ者」であるツチ族に嫌悪を抱く行政支配集団の人々が一定数存在するため、ツチ族は社会生活上、差別的扱いを受けることがある。例えば、警察官や検察官の多くは行政支配集団に属するため、犯罪被害者がツチ族に属する場合、彼らの告訴は軽視される傾向がある。そのため著者は、販売員がツチ族に属する場合、契約書を根拠に未払い者に支払いを強制し、刑罰を科すことは難しいのではないかと考える。本実験で雇用した販売員の半分は行政支配集団、および残りの半分はツチ族の出だ。そのため著者は、販売員が行政支配集団に属するか否かによって、契約書への署名要求効果が異なるかどうかの分析も行う。
著者の関心は契約書への署名要求効果のみにとどまらない。というのも、仮に契約書への署名要求が顧客の購入意思や支払行動に影響を与えなかった場合、それは法の実効性がないからなのか、法に頼らずとも取引リスクを軽減するインフォーマルな仕組みが既に社会に存在するからなのか区別できないからだ。
ここでそのような仕組みの一つとして著者が注目するのは、各民族集団内の統治機能だ。調査地では、人々の社会的なつながりは民族ごとに分断される傾向があり、また各民族の有力者が中心となりその民族集団内のもめ事を解決する伝統的な仕組みが存在する。この仕組みにより、犯罪者や社会規範の逸脱者は社会的制裁(例、村社会から追放)を受ける。
そのため本実験でも、未払い者の情報がその民族集団内で共有され、未払い者に対して社会的制裁が課されるのであれば、契約書がなくても取引リスクは軽減されるはずだと著者は考える。本実験では、販売員と顧客の民族が同じになることもあれば、異なる場合もある。販売員と顧客の民族の組み合わせは無作為に決定されるため、著者は、販売員と顧客とが同じ民族に属することが、顧客の通話時間の購入意思や後日の支払行動にどう影響を与えたかも分析する。この分析は、契約書への署名が免除された顧客のみを対象に行われた。
契約書は、行政支配集団の販売員が異民族の顧客と取引するときにのみ有効。また、行政支配集団であれば、販売員と顧客とが同じ民族に属するだけで未払い減
論文内で報告されている主な分析結果は以下のようになる(下表参照)。まず、販売員が行政支配集団に属し、また販売員と顧客とが異なる民族に属する場合、契約書への署名を顧客に要求すると、通話時間を得たにもかかわらず支払わない購入者は減った(結果、支払う購入者および非購入者が増えた)(表b)。しかし、販売員と顧客とが同じ民族に属するときには、これらの効果は確認されなかった(表a)。また、販売員が行政支配集団に属する場合、未払いを理由に訴えられる可能性があると考える顧客は増えた。一方、販売員がツチ族に属する場合、契約書への署名要求は顧客の通話時間の購入意思や支払行動に何ら影響を与えなかった(表c)。
次に、販売員が行政支配集団に属し、また契約書の署名を免除された顧客のみを対象とした分析によると、販売員と顧客とが同じ民族に属する場合、通話時間を得たにもかかわらず支払わない購入者は減った(結果、支払う購入者および非購入者が増えた)(表d)。また、支払わない場合に自己の評判が下がることを懸念する顧客も増えた。
表 未払い行動への影響
なぜ契約書の作成が普及しないのか? その理由と残された疑問
なぜ現実社会において契約書の作成が普及しないのだろうか? 表を参照しながら、この問いについて改めて考えたい。まず販売員が行政支配集団に属し、かつ顧客と同じ民族に属する場合には、その民族集団内のインフォーマルな統治機能によって未払いを防ぐことが可能だ(表d)。そのため、このような場合にはわざわざ契約書を作る必要がない。なお、支払い行動に対する契約書の署名要求効果がこのような場合に見られなかったのは(表a)、そのような統治機能によって取引リスクが既に軽減されていたからと解釈できる。
次に、調査地では契約書を根拠に未払い者に支払いを強制し、刑罰を科す法の実効性はあるようだ(例えば表b)。しかし、行政支配集団の販売員でなければその恩恵を得ることはできない。そのため、契約書を作っても法の恩恵を得られないツチ族の人々(表c)はわざわざ契約書を作成しない可能性が高い。
一方で、いくつか疑問も残る。まず、自己と異なる民族と売買取引を行う行政支配集団の人々は、なぜ契約書を作らないのだろうか。この場合には、契約書の作成は取引リスクの軽減につながるはずだ(表b)。法の恩恵を得るために必要な手続の金銭的あるいは機会費用があまりにも大きいために契約書を作りたがらないのだろうか。次にツチ族の人々は、約束を守らない(特に行政支配集団の)人々から自己の利益を守る協調的行動をなぜおこさないのだろうか(表c)。ツチ族に対する行政支配集団の差別意識が強いため、現実社会では、そもそも両者の間で売買取引があまり行われていないのだろうか。そうでなければ、例えばツチ族の人々が組合を作ることで相互に助け合い、また、法の恩恵を得られるように市政に影響を及ぼすことも可能かもしれない。著者はこれらの問いに答えるため、新たな研究を既に進めているようだ。
最後に、本論文が示す民族内のインフォーマルな統治機能は社会制度の一つである。一般的に、売買契約書に実効性を持たせる法(あるいは政治)制度は、約束履行を促すインフォーマルな社会制度の有用性を減らす。そして、有用性を失った社会制度は次第に衰退していく。とすれば、本論文が示す民族内の統治機能はなぜ衰退せず、契約書による取引が普及しないのだろうか。この問いはつまるところ、契約書の作成がなぜ普及しないのかという当初の問いとなる。法の不平等な実効性や民族内の統治効果の存在を、実験を行い厳密に示した本論文の貢献は大きい。一方で、契約書の作成が普及しない根本的原因はいまだ闇の中だ。
著者プロフィール
工藤友哉(くどうゆうや) アジア経済研究所開発研究センター主任研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、応用ミクロ計量経済学。著作に“Eradicating Female Genital Cutting: Implications from Political Efforts in Burkina Faso” (Oxford Economic Papers, 2023), “Maintaining Law and Order: Welfare Implications from Village Vigilante Groups in Northern Tanzania” (Journal of Economic Behavior and Organization, 2020), “Can Solar Lanterns Improve Youth Academic Performance? Experimental Evidence from Bangladesh” (共著The World Bank Economic Review, 2019) 等。
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