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コラム
第31回 最低賃金引き上げの影響(その2)ハンガリーでは労働費用増の4分の3を消費者が負担したらしい
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051492
2019年10月
(2,982字)
今回紹介する研究
Peter Harasztosi and Attila Lindner, "Who Pays for the Minimum Wage?" American Economic Review 109.8 (2019): 2693-2727.
最低賃金規制は低所得者の生活を保障するための手段である。市場賃金があまりにも低いのであれば、生活保障のために上乗せすべきだろう、というのが最低賃金規制推奨の動機だ。当然、上乗せ分は誰かが負担しなければならない。給与は雇い主が支払う。ところが、支払っているからといって負担しているとは限らない。雇い主は賃金の上乗せ分を支払ってはいるが、製品の価格を上げて販売先に一部を負担させるかもしれない。
最低賃金引き上げへの企業の対応として、雇用が減る、雇い主の利潤が減る、価格が上がる、という3つの調整弁が考えられる。雇用を減らすときに雇用だけを減らすことは稀で、減らした分の一部を機械で置き換えることが多い。雇用を全く減らさないときには、上乗せ分を雇用主と販売先が負担し合うしかない。販売先には企業、消費者、政府、外国の4者がいる。現実には、雇用、利潤、価格のすべてが変化して、労働者、雇用者、販売先の3者が賃金上乗せ分の負担を痛み分けしているのだろう。
しかし、最低賃金に関する論争では主に雇用への影響が取り上げられ、その全体像が示されることはなかった1。ハラツォシとリンドナーの論文は、すべての調整弁を企業レヴェルの税務と賃金データを使って検討した最初の論文である。彼らが扱うのはハンガリーで2001年と2002年に最低賃金が大幅に引き上げられたときの規制産業と農業以外の企業の反応である。
ハンガリーの最低賃金は2000年までは2万5500HUF(ハンガリーフォリント)であったが、2002年には賃金中央値の55%にあたる5万HUFになった。急激な引き上げであったが意外にも雇用減少は経済全体で10%に留まった。皆が同じ失業リスクを抱えていたとすれば、最低賃金以下で働いていた労働者の期待賃金は少なくとも76%上昇したことになる。製品の価格が上昇して販売量は減ったものの、価格の上昇が販売量減少の効果を上回ったので企業の収入は短期的に増え、5年後には引き上げ前水準に戻っている。資本は5年間で27%増え機械が労働を代替した。利潤対売り上げ比は5年間で0.8%ポイント減少した。つまり、雇用、利潤、価格のすべてで調整弁が働いた。雇用だけに集中した議論は全体を見渡せない。
著者らの計算では、最低賃金で高まった労働費用の77%を価格上昇として販売先が、23%を利潤減少として雇用者が負担している。さらに、家計を対象とした賃金調査データから消費者の各産業への支出が分かるが、企業の税務・賃金データと投入産出表から各産業の生産物価格に占める最低賃金費用の比率を計算すれば、消費者が最終的にどれだけ最低賃金費用を負担したのか(消費に含まれる「税率」と考えてよい)を計算できる。この最低賃金税率は消費の4~5%であり、高所得者より低所得者の税率がごく僅かに高かった。つまり、最終的な最低賃金税率は4~5%、今回の増加分はその半分の2%程度、消費者の最低賃金税率負担は貧富の差なくほぼ同じであった。期待賃金が76%上昇したので、最低賃金以下の労働者は2%程度の価格上昇を問題視しないだろう。全体としてはうまくいった政策だ。
ただし、これは平均の話である。解雇された人はいる。部門によっては深刻な影響も出ている。大企業の多い貿易財産業や輸出財産業では雇用が大きく減少し、企業の収入も減少した。一方、非貿易財産業では雇用の変化はゼロ、企業収入の減少も小幅だった。市場が競争的で価格支配力のない貿易財は価格への転嫁ができずに生産を縮小したのに対し、競争が限定的で価格支配力のある非貿易財は価格転嫁が進んで雇用も生産も大きく減らなかったためである。この結論はアメリカを扱ったリンドナーの別論文と同じである。
すべての調整弁を検討して全体像を示した貢献は政策研究として大きい。最低賃金の負担者を端的に示すことで最低賃金規制の趣旨を考え、低所得者の生活保障手段として他の政策より優れているか議論する土台となる。一方、実証研究としての質には留保が残る。因果関係の識別に用いた仮定が成り立つか確証を持てないからだ。本論文は各企業の雇用者数に占める最低賃金労働者数の比率を政策の影響を受ける程度と捉え、比率に応じた雇用・利潤・価格の変化を引き上げ前後で推計している。因果関係の識別には、最低賃金労働者比率のどの水準でも雇用・利潤・価格の動きが同じ(共通トレンドを持つ)という条件が成立しなくてはならない。また、ある企業が最低賃金引き上げに対応したことでその他の企業が影響を受けない(「SUTVA」といわれる)という仮定も必要である。いずれも成り立つという傍証を著者たちは提示しており、通常のデューデリを果たしているが、それでも推計値の信頼性に疑問は残る。とはいえ、識別よりも貢献がより評価される研究があってもよいだろう。
本論文の知見からは、英国や南アフリカのように経済で均一の最低賃金を設定することの弊害がうかがえる。非貿易財に合わせた水準にすると貿易財で雇用が減少しすぎ、貿易財に合わせた基準だと賃金上乗せが少なすぎる可能性がある。さらに踏み込めば、最低賃金は価格転嫁の容易な産業(非貿易財など)でのみ施行することも、現在の雇用だけを気にするならば理に適っている。不公平感から不満は出るかもしれないが。
これらの知見はハンガリー経済の特性を反映しているので、他国にそのまま持ち込めない。さらに、引き上げ幅が大きかったために企業の対応も大きくなったはずで、数パーセント程度の引き上げとは対応の質が違う可能性もある。また、2002年のハンガリーよりも未熟練労働をロボット等の機械で代替することが安価になっている現在、雇用への影響は強まっているかもしれない。しかし、最低賃金引き上げの効果が産業や企業規模ごとに違うこと、価格転嫁の可否で皆の気にする雇用の減少幅が変わること、価格転嫁が可能な産業で高所得者がより多く消費すれば累進的な再分配政策になること、などは他国に適用できる一般的な教訓である。忘れてはいけない、賃金引き上げは誰かが負担しているのだ。
著者プロフィール
伊藤 成朗(いとうせいろう)。アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に"The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal." (Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 2018, 27(11): 1627-1652)、主な著作に「開発ミクロ経済学」(『進化する経済学の実証分析』 経済セミナー増刊、日本評論社、2016年)など。
注
- MaCurdy(2015)が米国で価格に転嫁された場合のシミュレーション、Draca et al.(2011)が英国での利潤への効果、Machin et al.(2003)が価格が固定された規制産業での雇用への効果を検討しているが、雇用、利潤、価格の3つすべてを検討した研究はない。
- MaCurdy, Thomas, "How effective is the minimum wage at supporting the poor?" Journal of Political Economy, 123.2 (2015): 497-545.
- Draca, Mirko, Stephen Machin, and John Van Reenen, "Minimum wages and firm profitability." American Economic Journal: Applied Economics, 3.1 (2011): 129-51.
- Machin, Stephen, Alan Manning, and Lupin Rahman, "Where the minimum wage bites hard: Introduction of minimum wages to a low wage sector." Journal of the European Economic Association, 1.1 (2003): 154-180.
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