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コラム
第71回 貧困層向け現金給付政策の波及効果
Spillover Effects of Cash Transfer Program Targeting the Poor
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000011
2023年7月
(3,014字)
今回紹介する研究
Dennis Egger, Johannes Haushofer, Edward Miguel, Paul Niehaus, Michael Walker, “General Equilibrium Effects of Cash Tranfers: Experimental Evidence from Kenya,” Econometrica, 90 (6), November 2022: 2603–2643.
最近の貧困層向けの給付政策は、条件なし現金給付(Unconditional Cash Transfer: UCT)が多いようである。これまで貧困層向けの給付政策としては、条件付き現金給付政策(Conditional Cash Transfer: CCT)が注目を浴びてきた。とりわけ、メキシコで1990年代後半に始まったプログレッサ(その後オポチュニダデス)の効果のエビデンスを示した実証研究が有名になり、世界中でCCTが実施された。ただ最近では、CCTの効果がUCTと比べてそれほど違うのかという疑問が呈されている。UCTは、CCTのエビデンスが決定的でないなかで、条件なしだけにCCTに比べて実施が単純で費用が抑えられることから、注目されるようになったのだろう。UCTが実際に受給家計に与える効果──消費や所得、健康指標、教育など──についてはエビデンスが蓄積されてきている。本研究の最大の特徴は、受給家計への効果を超えて、UCTが非受給家計やその地域の市場価格、豊かさにどのような波及効果があるのかを推定したことである。
実験・調査のデザインと本研究の強み
本研究のランダム化比較試験(Randomized Control Trial: RCT)の介入内容そのものは、ケニア南西部のシアヤ郡の一部(84地域の653村)において、処置村の貧困家計──藁ぶき屋根の家計──に1000米ドル(購買力平価では1871米ドル、対象家計の年収75%に相当)を支給するという単純なものである。処置村と対照村の割合を84地域ごとにランダムに決め、処置村のなかでの支給タイミングもランダムに決めている。これらは、地域内の波及効果も含め、支給の効果を正確に推計するための工夫である。
これまで経済学実証研究が使ってきたRCTでは、介入の対象者の行動の変化を明らかにすることで、消費や所得、健康や教育などへの効果について、ミクロレベルで因果関係のエビデンスを示してきた。だがRCTは、政策のマクロ効果を測ったり、開発経済学の「大きな問い」に答えたりするには向いていないという批判にさらされてきた。著者たちはこの批判に応えて、マクロな効果を測り、かつRCTの強みを活かして厳密な因果関係を示すことに挑戦した。具体的には、財政支出が最終的にGDPに影響を及ぼす乗数効果の推定である。本研究の乗数効果は、現金給付が最終的に当該地域の総所得もしくは総支出にどれだけの影響を及ぼすかを意味する。そのため、現金給付の受給家計だけでなく、非受給家計、同じ地域にある企業、市場価格など、様々なデータを集めることに腐心している。本研究のタイトルに「一般均衡効果」とあるのは、受給家計だけでなく、受給者の経済活動から派生して考えられるありとあらゆる経済活動のデータをとっているからだろう。
家計データは約8000家計を3年・3回にわたって追跡して作成した。家計データは自営農業という企業データも兼ねている。自営農業以外の企業データは約3000件である。価格データは約70品目について、約60市場にわたり26カ月毎月追跡して作成した。
著者たちは、現金給付政策のマクロ効果を測るうえで、既存の研究と比較したメリットを強調している。本研究の舞台はケニアのシアヤ郡の一部に限られており、また外部のドナーが現金給付の財源となっているため、純粋に現金給付の効果を測ることができる。いわゆる「リカードの等価定理」──財政支出を公債で賄うと、将来の税負担が増すだけなので、人々が将来の増税を見越して現在の消費を控えるようになる──による現金給付効果の相殺を回避できるというわけである。
現金給付が受給者以外に与える影響
現金給付は受給者の消費などにプラスの効果をもたらした。これは、これまでの研究でも示されてきたとおりである。一方、高額の現金給付政策は貧困層の働く意欲を削ぐといった批判がときになされるが、本研究では受給家計の労働供給量に変化はなかった。
本研究の強みは、非受給家計やそのほかの経済活動への影響を実証したことである。まず、非受給家計への効果はどうか。ここでいう非受給家計とは、RCT上の対照群の農村にたままた居住していたために受給家計と同じような貧困層であるが受給できなかった家計と、受給の対象とならなかった非貧困層の双方を指す。推定によると、非受給家計の消費支出は受給家計と同じくらい増えた。受給額に比較して18%に相当する。その背景には、勤労所得の上昇があった。
次に地域の企業への影響はどうか。企業といっても農村なので、サンプルの7割は自営農業である。残り3割は、彼ら農家が小売り、製粉所や溶接業を兼ねており、家族が一人従業員となっているような零細自営業が典型的である。企業には、新規投資などの変化はなかったが、賃金の上昇が処置村でも対照村でも同じようにみられた。上記の、非受給家計の消費支出が上昇した背景にあった勤労所得の向上と整合的である。
市場価格への効果はどうか。まず消費財価格の上昇は平均して0.1%とわずかであった。効果が最大と予想される給付直後もせいぜい1%未満である。上記の家計消費支出の上昇が、単なるインフレではなく実体経済の変化であることが分かる。投資財価格は上昇しなかったが、要素価格、具体的には賃金が14~27%と大幅に上昇した。
最後に、本現金給付を財政支出とみなした場合の、乗数効果を推定している。乗数効果は2.5、つまり、1単位の現金給付によって、それが最終的に当該地域経済全体に与えるプラスの効果が2.5倍になることを示した。
外的妥当性はあるか?
ところで、「リカードの等価定理」を回避でき、純粋な乗数効果を測ることができるのは確かにメリットではあるが、このような現金給付をもっと大きな行政単位や国レベルの財政支出に応用して同じような効果を期待できるかは甚だ疑問である。まず、本研究の現金給付の財源が外部ドナーからの一過性のものであることから、持続可能性は期待できない。通常の現金給付政策のように財源が税金であるならば、「リカードの等価定理」によって相殺される可能性があり、現実に同様の政策を実施したときの効果も小さいだろう。また、本研究の舞台は、ケニアのシアヤ郡の一部農村という労働者やモノの域外への移動がほとんどない閉鎖経済を前提としており、やはり現実に現金給付政策を実施するときとは状況が異なるだろう。
とはいえ、これまでRCTの限界と言われてきた批判に応え、マクロの効果について厳密な因果関係を示して研究の可能性を広げたことは評価できるだろう。とりわけ、本研究が示した乗数効果が需要主導型であることは、途上国の農村において伝統的に指摘されてきた、形のうえでは雇用されているが、限界生産力の低い設備や人員の存在を示唆しており、この問題に関する政策議論や研究テーマへの刺激となろう。
著者プロフィール
牧野百恵(まきのももえ) アジア経済研究所開発研究センター研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、家族の経済学。著作に‟Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan” (Journal of Population Economics, 2019),‟Female Labour Force Participation and Dowries in Pakistan” (Journal of International Development, 2021),‟Labor Market Information and Parental Attitudes toward Women Working Outside the Home: Experimental Evidence from Rural Pakistan” (Economic Development and Cultural Change, forthcoming) 等。
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