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コラム

途上国研究の最先端

第63回 貧困からの脱出――はじめの一歩を大きく

Escape from poverty: Make the first step larger

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053482

2022年9月

(3,054字)

今回紹介する研究

Clare Balboni, Oriana Bandiera, Robin Burgess, Maitreesh Ghatak, and Anton Heil. 2022. “Why Do People Stay Poor?Quarterly Journal of Economics 137(2): 785–844.

貧困の撲滅は現代社会が抱える重要な課題の一つである。持続可能な開発目標(SDGs)は、2030年までにあらゆる場所であらゆる形態の貧困をなくすことを目標に掲げている。しかし、世界人口のおよそ10%は今もなお一日1.9ドル未満で生活する極度の貧困状態にあり、これらの人々が貧困から抜け出す道筋はいまだ不透明のままである。なぜ、貧困からの脱出は難しいのだろうか? この研究は、大規模な資産移転プログラムと長期にわたる家計調査のデータを用いて「貧困の罠」の存在を示し、貧困から脱出するためには、はじめに大きな一歩が必要であることを明らかにした。

貧困の罠は存在するのか

人々が貧困にとどまる背景には、二つの理由が考えられる。一つは、本人の能力や健康に問題があり、生来の生産性が低いというものである。もう一つは、本人の生産性は必ずしも低くないが、経済的な機会が限られており、生産性の低い仕事にしかつくことができないというものである。後者のケースとして、低賃金の農業雇用労働と、利益は大きいが固定資本を必要とする自営業ビジネスの選択を考えよう。このとき、担保となる資産もビジネスの経験もない貧しい人々は、金融機関からお金を借りて固定資本に投資することができない。そのため、農業雇用労働として働かざるをえないが、そこでは資産や経験がほとんど蓄積されないため、自営業ビジネスを開始する機会はいつまでも訪れない。このように、貧困であるがゆえに貧困から脱出できない悪循環のメカニズムは、貧困の罠と呼ばれる。

貧困の罠は存在するのだろうか? これを確かめることは実は簡単でない。本人の生産性が低い場合も貧困の罠が存在する場合も、貧しい人々がなかなか貧困から脱出できないという結論に変わりはなく、二つを区別できないためである。そこで、本研究がとったアプローチは、外生的なショックで資産が増えたとき、そこから資産がさらに増加するか、あるいは減少するか、というダイナミクスに着目することである。資産がどれほど増加しても結局は貧困へ逆戻りしてしまうのであれば、問題は本人の生産性にあると判断できる。一方、資産の増加によって新たな機会が活用可能となり、自律的な成長が実現するのであれば、そこに貧困の罠が存在すると判断できる。本研究は、バングラデシュにおける大規模な資産移転プログラムを資産ショックとみなし、10年以上にわたる家計調査データを用いて長期の資産ダイナミクスを描き出した。

資産移転の効果

バングラデシュ国内でNGOとして活動するBRACは、2007年に3000以上の農村貧困家計に対して大規模な資産移転プログラムを実施した。資産の種類は選択可能だが、大多数は牛を選択したため、牛の移転と考えて差し支えない。プログラム以前、対象地域の家計の資産分布は15ドルと3万5000ドルに二つのピークがあり、極度の貧困層と富裕層に二極化していた。プログラムの受益者である極度の貧困層は、農地や家畜などの本格的な生産資本を持たず、農業雇用労働の賃金で生計を立てていた。そのため、490ドルに相当する牛の移転は相当な資産ショックであったといえる。受益者は、最低でも2年間、牛を手放さず家畜ビジネスを行うことが奨励され、そのためのトレーニングも施された。

牛の移転で貧困はどのように変化したのだろうか? 4年後の資産を見ると、移転直後の資産水準に応じて異なる変化が観察された。具体的には、牛の移転後に資産が十分大きくなった家計は、新たなビジネスの機会を活用して資産を増加させたが、不十分だった家計はビジネスを軌道に乗せることができず資産を減少させてしまった。資産ダイナミクスのノンパラメトリックな分析によると、504ドルを閾値として二つの定常状態(資産変化の行きつく先)が存在し、資産が閾値を超えると裕福な状態に向かうが、閾値を下回ると貧困へと向かうことが示された。後者は、まさに貧困の罠と呼ばれるメカニズムである。家計の資産が閾値(504ドル)を超えるためには、牛の移転(490ドル)だけでは若干足りず、補完的資産(小屋、荷車など)も必要だと考えられる。つまり、家畜ビジネスに求められる一定の資産規模をスタート時点で準備できたかどうか、それが分かれ道となったのである。

資産がある閾値を超えると貧しい人々も自律的に成長できる。このことは、貧困の罠から逃れた家計とそうでない家計で、経済水準のギャップが長期的に拡大することを意味する。11年後に実施された家計調査によると、資産が閾値を超えた家計は、相対的に高い消費水準を実現し、多くの牛を飼育し、農地を取得するものも現れた。ただし、短期的に見るとそうした家計の消費水準はむしろ低かった。これは、収入のうち大きな割合を、投資に向けていたからだと考えられる。あるいは、資産が閾値を下回った家計は、資産を取り崩して消費を増加させたのかもしれない。いずれにせよ、資産移転プログラムの効果は、投資の累積的なプロセスの結果として長期に顕在化するものであり、消費水準などに基づく短期の評価は適切でないといえる。

貧困の存在は非効率である

貧困は社会の公平性や正義の観点から、分配の問題として論じられることが多い。しかし、貧困の罠が存在する場合、貧困は社会にとって非効率でもある。貧しい人々は、潜在能力を発揮する機会に恵まれず(なぜなら十分な資産がないため)、労働市場で生産性が低い状態にとどまっている。これは労働配分の非効率性にほかならない。研究では、農業雇用労働と家畜ビジネスとの選択に関する非効率性を定量的に分析している。まず、資産を所与とした就業選択モデルに、牛の移転前と移転後の労働時間データを適用し、生産性や労働の不効用に関するパラメータを家計レベルで計算した。そして、資産の制約がない仮想的な状況で人々の最適な就業選択を考えた。その結果、貧困の罠が存在しない世界では、90%の家計が家畜ビジネスに特化することが最適となった。しかし、現実世界においては、98%の家計が農業雇用労働に特化するという、正反対の労働配分が生じていたのである。一般均衡効果による価格や賃金の変化を考慮にいれたとしても、労働配分の非効率性は明白である。

人々が貧困から脱出できないのは、貧困の罠が存在するためである。当たり前のようにも聞こえるが、その存在を資産ダイナミクスから直接的に示した貢献は大きい。経済の状況が変化しない限り、自力で貧困の罠から抜け出すことはできないため、脱出には外部の支援も必要である。そして、支援は十分大きいものでなければならない。ただし、経済的な支援が大きければ、容易に貧困から抜け出せると考えるのは、おそらく短絡的だろう。研究の舞台では、資産が移転されただけでなく、貧困家計に適したビジネスのタイプが提示され、各種のトレーニングも施された。そうしたサポートがなく、資産だけを移転されても、同じようにビジネスを開始できたかどうかは疑問である。どのような条件であれば、はじめの一歩を踏み出せるのか、さらなる研究の進展が期待される。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
著者プロフィール

塚田和也(つかだかずなり) アジア経済研究所開発研究センター研究員。専門分野は開発経済学、農業経済学、東南アジア経済。近年の研究テーマは、発展途上国における産業構造の変化と経済成長、農業部門の機械投資と大規模化、農村要素市場の効率性と分配に関する比較研究、など。

【特集目次】

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