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コラム
第20回 産まれる前からの格差――胎内ショックの影響
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050907
2019年5月
(3,104字)
今回紹介する研究
Petra Persson and Maya Rossin-Slater, "Family ruptures, stress, and the mental health of the next generation," American Economic Review, 108(4-5), 2018 : 1214-1252.
母胎への過度のストレスは胎児の発達に問題を引き起こすので避けるべき、ということはよく知られている。所得が低いほど胎内ショックの影響を受けやすければ、子どもは産まれる前から所得を得るうえで不利になり、世代を超えた所得格差継続の一因となる。本論文でパッソンとロシン・スレーターは、ショックが子どもの精神障害を引き起こし格差が続く可能性を示している。
今やアメリカでは、コレステロール症治療薬に次いで抗鬱剤が処方箋売り上げの第2位であり、学齢男子の7分の1がADHD(注意欠陥多動性障害)の処方を受けているほど、精神障害の罹患者数は多い。母親が妊娠中にストレスを受けると、母親の胎内にいる子どもが精神障害を引き起こしやすいことが神経科学の研究で分かっている。また、所得の低い家庭では受けるストレス量が多いこと、同じストレス量に対してホルモン分泌などのストレス反応がより強いことも指摘されている。これらを組み合わせれば、低所得 → 母親の受けるストレスが強い → その子どもは胎内で母親のストレス反応により多く曝される → 小児期や成人期に精神障害を発症しやすくなる → 低所得、という世代を超えた貧困の再生産を描くことができる。
胎内で受けたショックがその後の健康に与える影響を測った研究は数多くある。しかし、著者らによれば、胎盤と臍帯を通じた「胎内」でのショックと出生後のさまざまな「胎外」ショックを区別した因果関係の検出は皆無だ。たとえば、本論文がショックの源泉として用いる親族死亡が「妊娠中」に起こると、精神的ショックや所得低下などの経済的ショックが発生する。これらは、出生前に胎盤と臍帯を通じて「胎内」でのストレス・ショック(以下の表1中のa.)となるだけでなく、出生後の「胎外」でも続く(同b.)可能性がある。極端な場合、妊娠中にショックがあっても「胎内」ではショックを全く受けず(同a.がゼロ)、「胎外」でのみショック(同b.)に曝されることもあり得る。神経科学の先行研究は、「妊娠中」に曝露された子どもを観察し、それはすべて胎内のストレス・ショックの影響(=b.がゼロ)と解釈していた。この論文が画期的なのは、母親の胎内で受けた生物学的なストレス・ショック(a.)のみを取り出して成人期までの影響を示したことである。
表1 本論文の識別戦略
胎内でのストレス・ショックだけを取り出すには、「妊娠中」に親族が死亡したグループと「出生後」間もなく親族が死亡したグループの差を観察する。表1にあるように、「胎外」ショックには両グループともに出生後に曝露されるのに対し、胎盤経由の「胎内」ショックは「妊娠中」に親族が死亡したグループしか曝露されない。
この識別方法は本論文よりも前にアーモンドとマズムダル*が用いているが、突き詰めれば、両グループともに同じくらいの胎外ショックに曝されたという仮定を使っている。仮に、「妊娠中」に親族が死亡したときの「胎外」ショックの影響(表1中のb.)が「出生後」に親族が死亡したときの「胎外」ショックの影響(同d.)よりも大きければ、差を取ってもb.の胎外ショックの影響が残ってしまう。しかし、そのような状況は想定しにくい、というのが本論文の識別仮定である。他にも、妊娠中の喫煙、妊婦体重、高リスク因子(糖尿病その他)、検診通院時間、学歴、兄や姉へのプラセボ効果検定など、著者たちは代替的なメカニズムをデータで検討し、胎内ショックという解釈を否定できないことを確認している。結論する前にやるべき宿題を著者たちはほぼやり尽くしたように思える。
この研究成果はスウェーデンの豊富なデータを使えたからこそ可能であった。スウェーデン政府は、全国民について電子化された出生登録(1973-2011年)、入院記録(1964-2012年)、処方箋登録(2005-2014年)を著者たちに提供している。出生記録には出生状況や親の情報、3親等内親族の死亡日時と死因、入院記録からは病名と治療、処方箋登録からは主成分とWHOのATC(解剖化学分類法)に基づく薬理学分類と対応する疾病分類が得られる。ここから、親族死亡の有無と時期、出生時の状態、両親の特徴、本人の39歳(2012年時の1973年生まれの年齢)までの疾病と処方箋の成分・投薬量・回数が総覧できる。この水準の正確さと網羅性を備えたデータは途上国では望むべくもないし、日本でも医療機関のレセプト電子化が9割を超えてデータベース化が進んだのは2011年からに過ぎない。政府が保有する個票を研究に提供する態度と福祉国家の豊富な情報量が研究資源となっている。
分析結果によれば、親族死亡に起因する胎内のストレス・ショックは、低体重児や早産を10%以上、児童期のADHDを25%、成人期の鬱と不安障害をそれぞれ8%と13%増やすことが示された。精神障害については、より近親であるほどその効果が強いことも判明した。これらの結果を踏まえ、著者たちは妊婦休暇の義務化を推奨している。
倫理的に実施できないことを自然は常に実施している。意図せず政府が実施することもある。妊娠中のアルコール摂取や親族死亡など、研究倫理審査委員会が決して承認しない事象を取り上げるには、意図せざる政策や自然実験を探すしかない。本論文はその好例である。とはいえ、ショックの源泉である親族死亡を防ぐことは難しい。より容易に防ぐことができる失業等の経済的ショックの方が政策適用可能性は高い。そこで、コルチゾル分泌量を計測した先行研究を応用して、失業は子どもに相当の健康被害をもたらすと著者たちは試算している。ただし、失業給付や低所得家庭への給付はすでに実施している国が多く、この試算は新たな政策に結びつかない。本論文の画期的な知見を妊婦保護政策としてどのように活用するか、さらなる研究が望まれる。
* Douglas Almond and Bhashkar Mazumder, "Health Capital and the Prenatal Environment: The Effect of Ramadan Observance during Pregnancy," American Economic Journal: Applied Economics, 3(4), October 2011: 56-85.
著者プロフィール
伊藤 成朗(いとうせいろう)。アジア経済研究所 開発研究センター、ミクロ経済分析グループ長。博士(経済学)。専門は開発経済学、応用ミクロ経済学、応用時系列分析。最近の著作に"The effect of sex work regulation on health and well-being of sex workers: Evidence from Senegal"(Aurélia Lépine, Carole Treibichと共著、Health Economics, 27(11), 2018 : 1627-1652)、主な著作に「開発ミクロ経済学」(『進化する経済学の実証分析』 経済セミナー増刊、日本評論社、2016年)など。
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