IDEスクエア
コラム
第10回 ベトナム――「元気ハツラツ」じゃなかったハノイの卵コーヒー
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050763
2019年3月
(1,932字)
10数年前からその存在は知っていた。しかし、どうせ不味いと決めつけていたので、試そうという気はまったく起こらなかった。ハノイの卵コーヒーの話である。
おそらくそれは、筆者が子供の頃に流れていた、「元気ハツラツ」になるという炭酸栄養ドリンクのテレビCMの記憶のせいである。そのCMでは、「おすすめの飲み方」として、生の卵黄の入ったコップにそのドリンクを注ぎスプーンでかき混ぜたものを、コメディアンの大村崑が笑顔で美味しそうに飲んでいた。しかし、テレビに映るその濁った液体が、筆者にはどうしても美味しいものには見えなかった。卵コーヒーもあんな類の飲み物であろうと、勝手に想像していた。
荒神(2019) に詳しいが、ベトナムは世界第2位の輸出量を誇るコーヒー大国である。ベトナムのコーヒーは苦味の強い独特の味がする。独自のカフェ文化も根付いており、そんなベトナムで筆者の知らないコーヒーの味わい方があっても不思議ではない。でもまあ、無理に口にしなくても、他に美味しいものがベトナムにはたくさんあるのだし、というのが卵コーヒーに対する筆者の長年の姿勢であった。
とはいえ、これまで卵コーヒーを飲むチャンスがなかったわけではない。本稿執筆時から6年ほど前、卵コーヒーで有名な、ハノイの旧市街にあるCafe Pho Co(直訳すると「旧市街カフェ」)という隠れ家のような古いカフェに行った際、一緒に出張していた同僚が卵コーヒーを注文したのである。
その時初めて見た卵コーヒーは、長らく想像していたものと見た目が大きく異なっていた。色が少々強烈ではあるが、カプチーノのようなと言えなくもない泡が乗っている。この泡が卵からできているのか?と好奇心が大いに膨らみ、なんなら一口ぐらい飲ませてもらおうと思ったほどであったが、その同僚の感想が「まあ、飲めなくはないですね」だったために、好奇心はあっさりしぼんでしまった。
そのカフェは、屋上のテラス席から見えるハノイ中心部ホアンキエム湖の風景も名物であったが、隣家がその風景を遮るように家を増築し、あろうことか、屋上でカフェまで経営し始めてしまった。そんなこともあり、なんとなく足が遠のいていたのだが、つい最近、ハノイ出張中にたまたま一緒になった同僚がハノイは初めてというので、珍しいものを見せようとCafe Pho Coの卵コーヒーを紹介した。
ところが、「ネットで紹介されているのを見たことがある」とその同僚は言う。ハノイを訪れたことのある若い女子を中心に、すでに多くの人の間で卵コーヒーは有名になっているらしい。ならばと意を決して実際に飲んでみると、拍子抜けするほど美味しい。コーヒーの上に乗っている泡はクリームブリュレ風の味がする(確かに材料は同じだ)。エスプレッソとクリームブリュレを同時に味わえる飲み物、と書いて美味しさが伝わるかどうかわからないが、とにかくそんな味である。
すでにネットで多くの人たちにこの美味しさが紹介されているのが悔しい。10数年前から知っていたんだぞ!と今さら言ってみても後の祭りである。もしかしたら、昔は筆者の想像通り不味かったのかもしれない。いや、不味かったに違いない。手の届かないブドウは酸っぱいに決まっている。
振り返れば、同じように、重要ではないと決めつけて筆者が注目しなかった現象や取り組まなかった研究テーマはいくつもあるはずである。先入観や固定観念を批判的に検討するのが社会科学の重要な使命ではなかったか。最後にカップの底に沈んだ苦いコーヒーをすすりながら、己の研究者としての未熟さを深く恥じ入ったのであった。
反省も込めて、次は卵入りの「元気ハツラツ」の方にも挑戦しなければならない。
著者プロフィール
坂田正三(さかたしょうぞう)。アジア経済研究所バンコク研究センター次長。専門はベトナム地域研究。主な著作に、『ベトナムの「専業村」――経済発展と農村工業化のダイナミズム』(研究双書No.628)アジア経済研究所 2017年、「ベトナムの農業機械普及における中古機械の役割」小島道一編『国際リユースと発展途上国――越境する中古品取引』(研究双書No.613)アジア経済研究所 2014年、など。
参考文献
- 荒神衣美(2019)「ベトナム・コーヒー産業の課題――原材料供給国からコーヒー加工国へ」『IDEスクエア』アジア経済研究所
写真の出典
- 写真1~2 筆者撮影
- 写真3 山下惠理氏撮影
- 第1回 バングラデシュ――食らわんか河魚
- 第2回 クウェート――国民食マチブースと羊肉のはなし
- 第3回 ラオス――カブトムシは食べ物だった
- 第4回 タイ――うなだれる大衆魚・プラートゥー
- 第5回 トルコ――ラクの〆は臓物スープで
- 第6回 台湾――臭豆腐の香り
- 第7回 カンボジア――こじらせ系女子が食べてきた珍食
- 第8回 インドネシア――1本のサテがくり出す衝撃の味
- 第9回 中国四川省――肉食の醍醐味
- 第10回 ベトナム――「元気ハツラツ」じゃなかったハノイの卵コーヒー
- 第11回 ブラジル――「ツンデレの果実」ペキー
- 第12回 モルディブ――食べても食べてもツナ
- 第13回 フィリピン――最北の島で食す海と人の幸
- 第14回 タンザニア――ウガリを味わう
- 第15回 アメリカ――マンハッタンで繰り広げられる米中ハンバーガー対決
- 第16回 ニュージーランド――マオリの伝統料理「ハンギ」を食す
- 第17回 イギリス――レストランに関する進化論的考察
- 第18回 南アフリカ――「虹の国」の国民食、ブラーイ
- 第19回 デンマーク――酸っぱい思い出
- 第20回 ケニア――臓物を味わう
- 第21回 モンゴル――強烈な酸味あふれる「白い食べ物」は故郷を出ると……
- 第22回 インド――幻想のなかの「満洲」
- 第23回 マグリブ(北アフリカ)――幻の豚肉
- 最終回 中国――失われた食の風景
- 特別編 カザフスタン――感染症には馬乳が効く
世界珍食紀行(『アジ研ワールド・トレンド』2016年10月号~2018年3-4月号連載)
- 第1回「中国――多様かつ深遠なる中国の食文化」
- 第2回「ベトナム――食をめぐる恐怖体験」
- 第3回「気絶するほど旨い?臭い!――韓国『ホンオフェ』」
- 第4回「イラン――美食の国の『幻想的な』味?!」
- 第5回「キューバ――不足の経済の食」
- 第6回「タイ農村の虫料理」
- 第7回「ソ連――懐かしの機内食」
- 第8回「エチオピア――エチオピア人珍食に遭遇する」
- 第9回「多人種多民族が混交する国ブラジルの創造の珍食」
- 第10回「コートジボワール――多彩な『ソース』の魅力」
- 第11回「デーツ――アラブ首長国連邦」
- 第12回「ペルー ――アンデスのモルモット『クイ』」
- 第13回「ミャンマー ――珍食の一夜と長い前置き」
- 第14回「『物価高世界一』の地、アンゴラへ――ポルトガル・ワインの悲願の進出」