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コラム
第23回 マグリブ(北アフリカ)――幻の豚肉
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051709
渡邊 祥子
2020年4月
(2,095字)
幻の食材
地中海世界とアフリカ大陸に開かれたマグリブの食文化は豊かだ。あまり知られていないが、マグリブの地中海沿岸部はローマ時代からワインの産地でもある。クスクスと呼ばれる主食は、セモリナ小麦から作った細かいそぼろ状のパスタで、熱々に蒸しあげたものに、羊肉や鶏肉をトマトや根菜で煮込んだスープをかけていただく。山村の人々が栽培するオリーブから作った、新鮮なオリーブオイルも食卓に欠かせない。かんきつ類やイチジクなどをはじめとした果物も美味だ。魚は現地の人にはあまり珍重されないが、魚市場に行けば立派な海老やカジキなどが手に入る。筆者もマグリブに滞在して、食べ物で不満を持ったことはない。ただひとつ、この地域で暮らす外国人たちが不満をもらすのは、豚肉がないことだ。
この地域に豚がいないのは、宗教的な理由による。北アフリカ・マグリブ地域の住民のマジョリティは、アラビア語を話すスンナ派ムスリムである。アルジェリアやモロッコには、アラブ人のほかにベルベル語(タマズィグト)を話すベルベル人(イマズィゲン)も居住しているが、彼らもムスリムである。ムスリム以外の宗教マイノリティとしては、ユダヤ教徒がいる。ムスリムも、ユダヤ教徒も戒律上の理由から、豚は食べない。
もうひとつの宗教マイノリティは、キリスト教徒であり、キリスト教徒は豚を食べる。しかし、同じ北アフリカでも、コプト教徒が居住するエジプトなどと違い、マグリブ地域においては、古代キリスト教の流れを引く現地系のキリスト教徒はほぼ存在しない。そこで、現在のマグリブ国籍のキリスト教徒は、植民地期にヨーロッパから移民し、その後マグリブに帰化することを選択した入植者の子孫であり、彼らの数は少ない。これらの事情から、マグリブにおいて現地の人の豚肉の需要はゼロに近い。
さらに、アルジェリアにおいては、1975年に豚の飼育を禁止する大統領令が公布された(私市 2009, 150)。モスクの増設、酒販売の規制強化、宗教行事への国家支援などの、1970年代のいわゆる上からのイスラーム化政策の流れのなかで、異教徒にしか需要のない豚の飼育や豚肉の生産は、非イスラーム的であるのみならず、植民地時代の遺物として否定的に捉えられたのだ。
なければ狩ってくる
このような事情から、マグリブでは豚肉を目にしない。外交官向けショップにはベーコンやハムなどが手に入るという話を聞いたが、私のような一般人には無縁の話である。町のスーパーで売られているハムは鶏肉だし、数少ない中華料理店の餃子の中味も、ジューシーな豚ではなくて少し癖のある羊肉である。
こうしたなかで、マグリブ在住の外国人たちは、工夫をこらしてこの幻の食材を入手していた。現地で迎えたある休日、日仏カップルから、イノシシが入ったから、ジビエパーティーをやるので来いといわれ、こってりしたチリコンカンを楽しんだ。驚いたのは、彼らのイノシシ入手からパーティー開催までの手際よさだ。どうやら、山中でイノシシが狩られると、フランス人コミュニティの連絡網に知らせが飛ぶ仕組みになっているらしい。イノシシは農作物を食い荒らす害獣であり、駆除の対象になるが、村の人々はイノシシは食べないので、これを外国人が喜んで譲り受ける、という事情であるらしかった。
後日、モロッコの歴史書を読んでいて、欧米列強の経済的野心に蝕まれていた19世紀の植民地化前夜のモロッコで、アメリカ領事館の関係者が、タンジェ近郊の一農村の村人全員に保護民(大使館付き現地人職員)の地位を与え、イノシシ狩りの勢子として利用したという記述に行き当たった(Miller 2013, 43)。保護民は、外国領事館付きの通訳などに本来与えられる地位であったが、免税などのさまざまな特権が与えられたため、西欧列強諸国が現地の商人などに利益供与し、自国の利益のために利用する手段として濫用された。イノシシ狩りのために保護民制度を使うとは、19世紀のアメリカ人もよほど豚が恋しかったのだろう。
写真の出典
- 小出真氏撮影
参考文献
- 私市正年編著. 2009.『アルジェリアを知るための62章』 明石書店.
- Miller, Susan. 2013. A History of Modern Morocco. Cambridge: Cambridge University Press.
著者プロフィール
渡邊祥子(わたなべしょうこ) アジア経済研究所地域研究センター中東研究グループ研究員。専門は北アフリカ・マグリブ地域の近現代史、特にナショナリズムの歴史。論文に“The Party of God: The Association of Algerian Muslim ʿUlamaʾ in Contention with the Nationalist Movement after World War II.” International Journal of Middle East Studies 50 (2018).
- 第1回 バングラデシュ――食らわんか河魚
- 第2回 クウェート――国民食マチブースと羊肉のはなし
- 第3回 ラオス――カブトムシは食べ物だった
- 第4回 タイ――うなだれる大衆魚・プラートゥー
- 第5回 トルコ――ラクの〆は臓物スープで
- 第6回 台湾――臭豆腐の香り
- 第7回 カンボジア――こじらせ系女子が食べてきた珍食
- 第8回 インドネシア――1本のサテがくり出す衝撃の味
- 第9回 中国四川省――肉食の醍醐味
- 第10回 ベトナム――「元気ハツラツ」じゃなかったハノイの卵コーヒー
- 第11回 ブラジル――「ツンデレの果実」ペキー
- 第12回 モルディブ――食べても食べてもツナ
- 第13回 フィリピン――最北の島で食す海と人の幸
- 第14回 タンザニア――ウガリを味わう
- 第15回 アメリカ――マンハッタンで繰り広げられる米中ハンバーガー対決
- 第16回 ニュージーランド――マオリの伝統料理「ハンギ」を食す
- 第17回 イギリス――レストランに関する進化論的考察
- 第18回 南アフリカ――「虹の国」の国民食、ブラーイ
- 第19回 デンマーク――酸っぱい思い出
- 第20回 ケニア――臓物を味わう
- 第21回 モンゴル――強烈な酸味あふれる「白い食べ物」は故郷を出ると……
- 第22回 インド――幻想のなかの「満洲」
- 第23回 マグリブ(北アフリカ)――幻の豚肉
- 最終回 中国――失われた食の風景
- 特別編 カザフスタン――感染症には馬乳が効く
世界珍食紀行(『アジ研ワールド・トレンド』2016年10月号~2018年3-4月号連載)
- 第1回「中国――多様かつ深遠なる中国の食文化」
- 第2回「ベトナム――食をめぐる恐怖体験」
- 第3回「気絶するほど旨い?臭い!――韓国『ホンオフェ』」
- 第4回「イラン――美食の国の『幻想的な』味?!」
- 第5回「キューバ――不足の経済の食」
- 第6回「タイ農村の虫料理」
- 第7回「ソ連――懐かしの機内食」
- 第8回「エチオピア――エチオピア人珍食に遭遇する」
- 第9回「多人種多民族が混交する国ブラジルの創造の珍食」
- 第10回「コートジボワール――多彩な『ソース』の魅力」
- 第11回「デーツ――アラブ首長国連邦」
- 第12回「ペルー ――アンデスのモルモット『クイ』」
- 第13回「ミャンマー ――珍食の一夜と長い前置き」
- 第14回「『物価高世界一』の地、アンゴラへ――ポルトガル・ワインの悲願の進出」