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コラム
第14回(サッカーW杯特集)セネガル――2002年の対フランス戦後に垣間見えた矜持
Senegal: A Quiet Pride in the Wake of the Victory over France, 2002
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002002002
2026年7月
(5,920字)
コートジボワールからの大歓声
アフリカ滞在のたび、サッカー人気の高さを実感する。調査でよく訪れるコートジボワールの最大都市アビジャンでは、定宿の目の前にスタジアムがある。初代大統領の名前を冠したそのウフェ=ボワニ・スタジアムでは、サッカー国内リーグの試合がよく組まれ、週末の午後になると歓声が寄せては返す波のようにホテルの部屋まで届いてくる。
最強豪チームのASECミモザにはとりわけ熱心なファンが多く、勝利するとスタジアムからは喜びにあふれたサポーターたちがわらわらとあふれ出し、旗を振ったり、凱歌を歌ったりしながら周辺の路上を埋め尽くしていく。人波は交通を邪魔して大渋滞を引き起こし、ドライバーたちの抗議のクラクションがあちこちから鳴り響く。折から激しいスコールが降り出してもサポーターたちはお構いなしで、濡れるに任せながら、道路を練り歩いていく。サッカーを愛する人々がつくり出すアビジャンの街の熱気がなんとも美しい。
通常時でさえこのように熱いコートジボワールのサッカーファンの、これをさらに上回る熱気を感じたのは、2002年FIFAワールドカップ日韓大会のときであった。
ちょうどそのときアビジャンに在住していた私にとって、その日、2002年5月31日はとくにいつもと変わりなく自宅で過ごす普通の金曜日だった。昼頃に突然、表からまるでスタジアムの隣にいるかのような、うぉーっ、という大歓声がこだました。近所中の人が一斉に叫んだようなとどろきである。あっけにとられていると、しばらくして再びうぉー。なんだ? もうしばらくしてから三度目のうぉー。ここいらにはスタジアムはなく、住宅街なのにいったい何が起こったのだろう。
もしかして、とそこではじめて私はテレビをつけ、事態を理解した。日韓ワールドカップの開幕戦がソウルのスタジアムで終了したところであった。対戦カードはフランス対セネガル。セネガルはコートジボワールと同じ西アフリカの国であり、ともにフランスの植民地支配から独立した国である。セネガルはこの大会が初のワールドカップ出場であり、開幕戦で前回大会の優勝チームであるフランスと当たったのである。フランスが絶対的に優位と目された下馬評を覆し、セネガルが先制ゴールを決め、その一点を守り切って勝利を挙げた。私が聞いた三つの歓声は、一つ目が先制ゴール、二つ目がおそらく試合途中のすごく惜しい(あるいはひやりとした)場面、三つ目が試合終了に違いない。そういえば、最後の歓声は、最初の二回より穏やかで、あとを引くような余韻の漂ううぉーであった。
コートジボワールも現在ではサッカーの強豪国だが、2002年大会の時点ではまだワールドカップへの出場歴はなかった(コートジボワールがワールドカップに初出場を果たすのはその次の2006年大会である)。同じ西アフリカでなじみが深いが、ライバル関係にもあるセネガルが先にワールドカップ出場を決めたことには、おそらくコートジボワールのサッカーファンとしては羨望と悔しさがあったに違いない。
にもかかわらず、開幕戦という大舞台で、ディフェンディング・チャンピオンを零封しての「大物狩り」を成し遂げたセネガルチームにとても大きな歓声が寄せられたわけである。「アフリカの連帯」を感じさせる歓声でもあった。
2002年セネガル−フランス戦を掘り起こす
あれから24年が過ぎ、またワールドカップの季節がやって来た。2026年FIFAワールドカップ北中米大会では、48チームが12グループに分かれて戦うファーストステージのグループⅠで、フランス・セネガル戦が実現するようである(2026年6月17日、ニュージャージー)。おそらく2002年の対戦に言及されることも多いだろう。そこで、2002年の対戦のことを少し振り返ってみたい。
2002年セネガル・フランス戦に関しては、戦術やワールドカップ史上の意義といったことはすでにサッカーに詳しい論者がさまざまに論じている。たとえば、国際サッカー連盟FIFAのウェブサイトには、この試合に関する公式の論評が載っているし[FIFA 2025]、アフリカサッカーの歴史を説き起こしたホーキー[2010]でもこの試合のことは大きく取りあげられている。ただ、「その後のさまざまな報道や反応はフランスに関することに終始し」、「セネガルチームに関する各所での言説は驚くほど少ない」との指摘もある[加藤 2002]。アフリカの人々がこの試合をどのように受け止めたかは、これまであまり知られていないことのようである。アフリカ研究者としては、やはりこの点が気になる。
そこで、アジア経済研究所が保管している途上国・新興国の新聞のマイクロフィルムのコレクションを確認してみた。研究所が所蔵するセネガルの日刊紙『ル・ソレイユ』(Le Soleil、以下ソレイユ紙)とコートジボワールの日刊紙『ル・ジュール』(Le Jour、以下ジュール紙)が、フランス・セネガル戦が行われた2002年5月31日前後をカバーしていることがわかった。この試合について、アフリカではどのような評価がなされていただろうか。紙面を探ってみた。
抑制の利いた歓喜
試合翌日刊行のソレイユ紙(2002年6月1-2日号)は、一面全面に、セネガルチームの選手が躍動する試合中の写真とサポーターの姿をコラージュで掲載。そこに、「セネガル対フランス1対0 歴史的!」の太文字が躍る。同紙のカリファ・ンジャイ特派員によるソウル現地での観戦記事には「信じ、られ、ない!」(Fa-bu-leux! )との大見出しが打たれている。最終面は「ダカールでの歓喜」と題し、首都ダカール市街に集まった勝利を祝う人々の様子を8枚の写真で伝えている。オープンカーに鈴なりに箱乗りしている人々、歓喜のパレードに加わる大統領や閣僚の姿、群衆、思いの丈を記したプラカード……群衆は数千人にも上ったという。歓喜の様子がよくわかる。
他方、記事の文体は、このような歓喜ぶりとはやや異なり、抑制が利いたトーンが目を引く。試合結果を伝えるメイン記事であるンジャイ記者の観戦記事はこう書き出し始める。「素質は十分、そして大役を果たした。われわれの『ライオン』はたしかにまだカメルーンの不屈のいとこたちほどには国際的に知られていない。カメルーンは1990年にすでにワールドカップイタリア大会の開幕戦で、アルゼンチンを撃破するという大激震を成し遂げた。われわれのライオンたちが成し遂げた一撃もそれに劣らずとどろくものだった」。
「ライオン」はセネガル代表チームの愛称で、正確には「テランガのライオン」という(テランガとはセネガルの歓待の精神を表す現地語の表現)。カメルーン代表の愛称も「ライオン」であり(正確には「不屈のライオン」)、記者はこれを念頭に両チームをいとこと表現し、1990年ワールドカップで一大旋風を巻き起こしたカメルーン代表に敬意を表しつつ、それに匹敵する偉業をセネガル代表が達成したのだと記している。
1990年大会のカメルーンと2002年大会のセネガルは、ともに初出場で、開幕戦で前回大会の優勝チームと当たり、これに勝利した、という点が同じである。この記事は、その事実に触れて組み立てられたものだが、ンジャイ記者は、自国チームが国際的にあまり知られていないとの表現を使ったり、カメルーンへの敬意をていねいに記したりしている。威張らず、おごらず、実に抑制的といえる。
抑制の利いた表現は記事の締めくくりにもみられる。初戦に続く予選リーグでの戦いは厳しいものになるだろうとの代表選手たちの談話を紹介したうえで、ンジャイ記者はこう書く。「厳しくなるというのはそうだろうが、代表選手たちが昨日私たちをどれだけ歓喜させてくれたことか。そして選手たちも大いに歓喜したに違いない。2002年5月の最後の一日は、セネガルのスポーツ史に永遠に刻まれる日になるだろう」。
この表現は、この一試合の偉業ぶりを称えるということに尽きている。今後の戦いの結果についてまったく重視していないかのようである。大戦果の上げ潮ムードに乗って、次戦もさらなる戦果を期待したい、というような書きぶりはここにはみられない。
世界と対等に渡り合う
この抑制ぶりはどこからくるのだろう。謎を解く鍵は、ンジャイ記者の表現にある「セネガルのスポーツ史」にありそうだ。この観戦記事でンジャイ記者は、セネガルの陸上競技選手であるジャ・バ氏にも言及している。ジャ・バは、1988年の五輪ソウル大会で400メートルハードルに出場し、前回1984年の五輪ロサンゼルス大会の覇者であるエドウィン・モーゼス(アメリカ)に先着して銀メダルを獲得した(モーゼスは銅メダル)。これはセネガルに史上初めてもたらされた五輪のメダルであり、2002年のワールドカップの時点でもセネガルの唯一の五輪のメダルであったという。
ンジャイ記者の記事は、ジャ・バへの言及に続いて、フランス・セネガル戦の話に戻り、こう記す。「ついに生徒が先生を追い抜いたのだ」と。ここでフランスは、サッカーを教えてくれた「先生」、自国チームはそれに教わる「生徒」と見立てられている。この二つのチームを先生と生徒という関係になぞらえることには、両国が旧宗主国と植民地であったことを思い出すと、若干冷やっとするものがある。しかし、注意したいのは、この比喩が、モーゼスとジャ・バの話をしたうえで述べられていることである。偉大な黒人アスリートであるモーゼスの先を行ったセネガル人選手の話に続いて記されているのである。
つまり、先生と生徒というたとえは、植民地支配に伴う非対称な関係を示唆しはするものだが、ここではあくまで、スポーツ界における先行者とそれを追いかける者の関係を言い表すのに使われている。スポーツの世界には優れた先行者たちがいて、セネガルはそれを追いかける存在である。その先行者たちを一瞬だけでも追い抜いたことを称えたい——ンジャイ記者の記事に流れる世界観はそのように解釈できる。
このような見方は、ンジャイ記者の個性なのだろうか。そうでもないようだ。コートジボワールで刊行されたジュール紙(2002年6月1-2日号)では、アビジャンの下町トレッシュヴィルで行われた在住セネガル人を中心とするお祝いの群衆から聞き取ったいくつかの談話が紹介されている。試合終了直後から始まったものなので、群衆の参加者が翌日に刊行されるンジャイ記者の記事を読んでいるはずもない。
取材に応じたひとりアッサン・ンジャウさんはこう語る。「そうあってほしくはないけど、仮に予選敗退でもたいしたことじゃない。代表チームがいま起こしたことがそれだけでとても大事なんだ。彼らは、デザイー、ティエリ・アンリ、そして世界中に、もちろんアフリカにも、2002年ワールドカップでセネガルここにありってみせたのさ」。
ここで挙げられているデサイーとアンリはともに当時のフランス代表の主力選手だが、デサイーはガーナ出身で、アンリはマルチニック出身の父を持つ。アフリカにゆかりのある優れた選手と対等に渡り合って、勝利したという構図がンジャウさんの談話には見て取れる。もうこの一勝だけで尊い、この一勝こそが尊い、という気持ちがこの談話には表れている。ンジャイ記者の話の組み立て方とよく似た捉え方をしているといえるだろう。
ポスト植民地主義の秘めた、熱い願望
当時のセネガルとコートジボワールの新聞から読み取れるこのような声に触れ、自分のこれまでの感想を少し修正しなければならないような気がしてきた。2002年5月31日に私がアビジャンで聞いたあの大歓声について、私はそこに、旧植民地が旧宗主国を打ち負かしたことへの快哉の気持ちが多分にあるのだろうと感じてきた。実際、これは間違いではないのだろう。今回読んだソレイユ紙にもその点に触れた記事がいくつかあった。たとえば、「旧植民地主義大国であるフランスと対戦して勝利したというのは歴史に対する復讐であろう」としたママドゥ・ジュフ氏の指摘、パリの街じゅうに貼られている人種差別主義的な広告ポスターをすべて破り捨てたいと願った、在りし日のサンゴール(セネガル初代大統領)の弔い合戦の意味を持つだろうとしたバダラ・ジュフ氏の論説がそうである(ともにソレイユ紙の2002年6月1-2日号に掲載)。
自分が当時の新聞を再読しようと思ったとき、これらのような、いわばポスト植民地主義的な立場からの論調が支配的なのではないかと思っていた。だが、実際に新聞のページをめくってみると、そうではなかった。ここで紹介したもののほかに、サッカーの戦術や代表チームの運営に関する立場からの論評も数多くあり、ポスト植民地主義的な立場を明白に表明したものは上記の二つしかなかった。つまり、さまざまな表明されている意見の一部であり、決して支配的なものではなかった。
この観察結果から何を読み取るべきだろうか。ポスト植民地主義的な立場は人々の間であまり共有されていない、という解釈を導くべきだろうか。いや、この解釈は完全に的外れに違いない。アフリカ諸国において植民地主義への反感は国民の間に根強く残るものであり、現代のアフリカ人のアイデンティティと不可分のものである。セネガルやコートジボワールのような旧フランス植民地の場合、直接の支配者であったフランスに対して複雑な感情が国民の間に世代を超えて共有されていることは間違いない。
そうでありながら、新聞記事にそのような見解が必ずしも明瞭なかたちで数多く表明されていないのには、意図的に差し控えられている側面があると理解すべきだろう。ポスト植民地主義的な見解を明示的に示すことの代わりとして、スポーツという場の中での勝敗というかたちで客観的に優劣を計ろうとする姿勢が表にでてくるのではないか、というのがここでの私の解釈である。
ここでスポーツは出場者が対等な立場で渡り合う場としてイメージされている。その対等な競い合いの場で先行者に勝利することが歓喜なのは、ついに追いついたという実感、先行者との隔たりを自力で克服しうることへの確信をもたらしてくれるためではないだろうか。自分たちを抑圧してきた者たちに対しても、いつか対等な立場で肩を並べ、乗り越えることができるに違いない。競技場に競うアスリートたちにはそのような願望の物語が投影されている。それはおそらく2026年の競技場にも間違いなく向けられているに違いない。
(2026年6月4日脱稿)
写真の出典
- Jeff Attaway(CC BY 2.0)
参考文献
- FIFA 2025.「世界に衝撃を与えたセネガル」2025年12月6日.
- ホーキー, イアン 2010.『アフリカサッカー 歓喜と苦悩の50年』伊藤真訳 実業之日本社 (Ian Hawkey, Feet of the Chameleon. London: Portico Books, 2009).
- 加藤朋之 2002.「2002FIFAワールドカップ フランス−セネガル戦が示すこと サッカーとグローバリゼーションについて」『山梨大学教育人間科学部紀要』4(2).
著者プロフィール
佐藤章(さとうあきら) アジア経済研究所地域研究センター主任研究員。博士(社会学)。専門はアフリカ地域研究、アフリカ政治。おもな編著に、『サハラ以南アフリカの憲法をめぐる政治』(アジア経済研究所 2024年)、『サハラ以南アフリカの国家と政治のなかのイスラーム』(アジア経済研究所 2021年)など。
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