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第7回 トルコ系移民イルカイ・ギュンドアンはなぜドイツ代表のキャプテンになれたのか――ドイツ代表における移民・海外ルーツのプレーヤーの受容

Why Turkish immigrant İlkay Gündoğan became Germany's national team captain?

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001716

2026年1月

(6,044字)

トルコ系ドイツ人とサッカードイツ代表

ユルドゥライ・バシュトゥルク、ハミト・アルティントップ、ハリル・アルティントップ、ヌリ・シャヒン、メスット・エジル、イルカイ・ギュンドアン、ジェンク・トスン、ハカン・チャルハノール。サッカーが好きな読者なら彼らの名前を知っているだろう。エジル、ギュンドアン、チャルハノールなどの名前は有名なので、サッカーをそれほど知らない読者でも聞いたことがあるかもしれない。エジルは2014年にドイツがワールドカップを制した時の主力のひとりで、アーセナル、レアル・マドリードといった超名門クラブでプレーした。ギュンドアンはキャリア初期、ドルトムントの主力として香川真司などと共闘、その後長くマンチェスター・シティでプレーし、名将ジョセッペ・グラディオーラのお気に入りのひとりであった。チャルハノールはイタリアで長くプレーしているミッドフィルダーで、ACミラン、インテル・ミラノというミラノの2大クラブで活躍している。

上記した選手たちは、全員がドイツのトルコ系移民のサッカー選手たちである。ドイツがトルコ移民を受け入れていたのは1960年代から70年代で、彼らは移民2世もしくは3世にあたる。エジルとギュンドアンは、他の多くのトルコ系移民のプレーヤーと異なり、ドイツ代表を選択した。そのなかでもエジルは2018年のロシア・ワールドカップでドイツ代表が一次リーグで敗退した際に残した、「私は試合に勝った時はドイツ人だが、負けた時は移民だ」という発言が大きな注目を集めた。この発言はトルコ系ドイツ人の社会統合を象徴するものと捉えられ、これを題材にいくつかの研究論文が執筆された1。また、ドイツの極右政党「ドイツのための選択肢(Alternative für Deutschland)」の共同党首、アリス・ヴァイデルはエジルの発言とその後の代表引退を受け、「失敗した統合の典型的な事例だ」と切り捨てている2

しかし、ここではむしろ次のことを問いたい。「なぜギュンドアンはドイツ代表のキャプテンとなれたのか」。エジルがドイツで多くの批判に晒されたのは、その発言に加えて、2018年のワールドカップ直前にトルコのレジェップ・タイイプ・エルドアン大統領と面会していたことも要因であった。しかし、その場にはエルドアン、エジルだけでなく、ギュンドアンとトルコ代表のトスンも同席していた。もちろん、ギュンドアンもそのことで批判に晒されていたが、その後、ドイツ代表の象徴ともなっていった。ブンデスリーガのウェブサイトによると、ギュンドアンが初めてキャプテンを託されたのは2020年11月のチェコとのフレンドリーマッチで、その後、長年キャプテンを務めたマニュエル・ノイアーの後を引き継ぎ、82キャップの中で19回キャプテンマークの腕章を巻いた3。そのなかには、2023年9月10日に日本に1対4で敗退して当時の監督のハンジ・フリックが辞任に追い込まれた親善試合、ホスト国として、優勝したスペインと準々決勝で延長戦までもつれた2024年の欧州選手権の5試合などが含まれている。

写真1:マンチェスター・シティ時代のギュンドアン(左の選手)

写真1:マンチェスター・シティ時代のギュンドアン(左の選手)

このリサーチクエスチョンを考えるために、本コラムでは3つの補助線を引きたい。ひとつ目はサッカーのドイツ代表と移民および外国にルーツを持つプレーヤーとの関係、2つ目はギュンドアンのキャリア、3つ目はエジル事件の傷跡である。トルコにルーツを持つプレーヤーたちの個人的なアイデンティティについて総合的に考察していきたい。

サッカーのドイツ代表と移民および外国ルーツのプレーヤー

ここではW杯と欧州選手権に焦点を当て、サッカーのドイツ代表での移民および外国ルーツのプレーヤーについて検討する。W杯と欧州選手権に焦点を当てる理由は、社会への帰属意識が最も顕著となるのが国際スポーツの祭典であり4、ドイツ代表にとってW杯と欧州選手権が最もメジャーな大会で、そこに選出されるプレーヤーは文字通り国を代表していると考えられるからである。メジャーな大会で国を代表するプレーヤーに選ばれることは、「社会的に認められる」ことへとつながる。

サッカーのドイツ代表を振り返ると、東西冷戦下の西ドイツ代表時代は移民および外国ルーツのプレーヤーは少なかった。例外は、ドイツ人とアフリカ系アメリカ人のハーフ、エルヴィン・コステデとジミー・ハートウィグの2人であった。しかし、彼らはそれぞれ3試合と2試合しか代表チームでプレーしなかった。すでに1980年代にフランスやオランダでは移民、特に旧植民地にルーツを持つ選手が活躍し始めていたが5、これはドイツが東アフリカや太平洋地域の海外植民地を第一次大戦後という他の欧州諸国と比較すると早い時期に失ったことも理由だろう。

そうしたなか、大きな契機となったのが1990年10月3日の東西ドイツ統一である。東西ドイツ統一によって、次第にドイツ代表のアイデンティティが多様になっていった。まずは東ドイツ出身者、次いでポーランドなど近隣諸国からの移民、そしてトルコ人を含むガスト・アルバイターや難民、といったかたちで段階的に代表に選手が入るようになった。東ドイツ出身の最初の代表選手は、ドイツ代表の歴代最強リベロとして皇帝・フランツ・ベッケンバウアーの次に名前があがるマティアス・ザマーや、トーマス・ドル、アンドレアス・トームであった。彼らは東ドイツ代表歴もあったが、東西ドイツ統一後、最初のメジャー大会である1992年の欧州選手権に出場した。東ドイツ出身者はその後も徐々にその人数を増やしていった。東ドイツ出身者で最も目立っていたのは、2006年のW杯、2008年の欧州選手権でキャプテンを務めたミヒャエル・バラック、そして2010年のW杯から2020年の欧州選手権までドイツ代表の主力だったトニ・クロースの2人である。1990年1月生まれのクロースは、おそらく東ドイツという国が存在していた時にその地で生まれた最後のドイツ代表選手だろう。表1からわかるように、1990年代半ばから2008年まで、東ドイツ出身者は代表でも一定数を占め、2000年欧州選手権と2002年W杯では一大勢力であったが、2010年以降、急速にその数を減らしていくことになる6

表1 代表に占める東ドイツ・近隣諸国・移民/外国ルーツ選手の人数

表1 代表に占める東ドイツ・近隣諸国・移民/外国ルーツ選手の人数
(出所)ウェブ情報など参照して筆者作成

 近隣諸国出身者として、まず代表に入ったのが1996年欧州選手権に出場したフレディ・ボビッチであった。ボビッチは父親がスロベニア人、母親がクロアチア人であり、出生後すぐに当時の西ドイツに移住している。近隣諸国出身者はその後増加するが、特に印象に残る活躍をしたのが、ポーランドにルーツを持つミロスラフ・クローゼとルーカス・ポドルスキの2人であった。クローゼは得点数でドイツ代表歴代1位(71点)であり、W杯の通算得点記録でも歴代1位(16点)である。ポドルスキもドイツ代表歴代3位(49点)に位置する。そして、クローゼは出場試合数で歴代2位(137試合)、ポドルスキが歴代4位(130試合)である。しかし、2016年の欧州選手権以降は、近隣諸国の出身者は代表に選出されていない7

写真2:デュッセルドルフにあるポドルスキが経営するケバブ屋(2023年12月27日)

写真2:デュッセルドルフにあるポドルスキが経営するケバブ屋(2023年12月27日)

それ以外の国にルーツを持つ代表選手として、1990年の東西ドイツ統一以降、最初にドイツ代表となり、2000年の欧州選手権に出場したのが、パウロ・リンクであった。リンクは、20世紀初頭にドイツからブラジルに移住した家族に生まれ、ブラジルでプロキャリアをスタートし、その後ドイツに渡った、「逆輸入」選手であった。2002年の日韓W杯にはガーナ出身のゲーラルド・アサモア、2006年のドイツW杯にはアサモア、そしてガーナ人とドイツ人のハーフであるダビド・オドンコールが選出された。

大きな契機となったのが、2010年の南アフリカW杯である。この大会では、初めてトルコ系移民のエジルが選出された他、チュニジア人とドイツ人のハーフ、サミ・ケディラなど、計5人の近隣諸国以外の外国にルーツを持つ選手が代表に選出された。エジルとケディラは初のムスリムのドイツ代表でもあった。2010年のW杯以降もこの傾向は続いた。2024年の欧州選手権では実に9人に達している8。トルコ系移民の選手では、ギュンドアン、エムレ・ジャン、そして2024年の欧州選手権にはクルド系トルコ人、デニス・ウンダフが選出されている。

これまでに東ドイツ出身者を含む外国ルーツのプレーヤーでドイツ代表のキャプテンとなったのは、バラック(98キャップのうち58試合でキャプテン)とギュンドアンだけである。とはいえ、バスケットボールのドイツ代表でもドイツ人とガンビア人のハーフであるデニス・シュルーダーが2021年からキャプテンを務めている。移民および外国ルーツのプレーヤーに対するドイツでの抵抗感も薄れているようである。

選手としてのギュンドアンの評価

先に述べたように、ギュンドアンは長年マンチェスター・シティの主力として活躍し、2026年1月19日現在はトルコの名門、ガラタサライでプレーしている。ギュンドアンは、エジルと同様、トルコ系移民の多いゲルゼンキルヒェンで育った。ブンデスリーガのデビューはFC. ニュルンベルクで、その後ドルトムントに移った。ドルトムントでは1度のリーグ制覇、そしてバイエルン・ミュンヘンに敗れたが、2012-13シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ決勝まで駒を進めている。2016-17シーズンからマンチェスター・シティに移籍し、バルセロナに移籍した2023-24シーズンを除き、2024-25シーズンまで、足掛け8シーズン在籍した。そこで5度のリーグ制覇、2022-23年シーズンには自身としても、マンチェスター・シティとしても初めてUEFAチャンピオンズリーグも制した。2022-23シーズンはリーグ、FAカップも制しており、3冠を達成したが、この年、ギュンドアンはキャプテンを務めており、そのキャプテンシーも評価された。

ギュンドアンのキャプテンシーはドイツ代表でも発揮されている。ノイアーからキャプテンを引き継いだ2022年W杯後の時点で、ギュンドアンはその実績、プレーからしてもキャプテンに相応しかった。2024年欧州選手権はノイアー、クロース、トーマス・ミュラーなど実績ある選手はいたが、ギュンドアンが最もコンスタントに試合に出場していた。

ギュンドアンがドイツ代表の一員であるだけでなくキャプテンを続けていることは、彼がいかに代表チーム、さらにはサポーターのあいだに好意的に受け入れられているかを示している。ヴァーゲルド等のフィールド実験に基づく研究によると、ドイツにおいて、代表チームが勝利した時に代表チームとサポーターの社会的一体性が高まることが実証されている9。つまり、サポーターの心をつかむには代表チームが勝つこと、強いことが最重要であり、キャプテンがドイツ系移民のギュンドアンでも実力が確かであり、チームが勝っていれば問題とはならないと考えられる。

エジル事件の傷跡

最初の部分でも触れたが、なぜエジルの発言はあれほど叩かれたのだろうか。彼がトルコ系移民という点は、もちろん一部の極右には面白くない点だろう。しかし、要因はそれだけではない。これはあくまで筆者の見解だが、ドイツ人は常にファンタジスタにある種のあこがれを抱いてきた。ドイツ代表は「ゲルマン魂」と言われるように、泥臭く実直な選手が特徴で、キーパー、リベロやスイーパーといったディフェンダー、運動量の多いボランチ、体を張ったフォワードを数多く輩出してきた。それに対し、天才肌の攻撃的ミッドフィルダーは少なく、1990年代のトーマス・へスラーやアンドレアス・メラ―、2010年代のエジル、ギュンドアン、クロースなどが思い浮かぶが、へスラーやメラ―はワールド・クラスには一歩及ばず、ギュンドアンとクロースの適正ポジションはボランチであった。要するに、エジルはドイツ代表サポーターの長年の夢であったワールド・クラスのファンタジスタであった。そのため、エジルがエルドアンに会い、その後のW杯で精彩を欠き、ドイツ代表が早期に敗退すると、可愛さ余って憎さ百倍、エジルに多くの批判が浴びせられた。

ただし、エジルへの批判、そして代表への不満はどれだけ長続きしたのだろうか。ドイツおけるサッカーとナショナル・プライドの関係について、ガスマンたちは2014年のW杯と2018年のW杯の前後でナショナル・プライドが高低したかを自然実験によって検証した10。結果として、ドイツが優勝した2014年のW杯では優勝後、ナショナル・プライドはやや高まったが、その後すぐに元に戻った。グループステージで敗退した2018年W杯後もナショナル・プライドはやや低下したが、やはり元に戻っている。ガスマンたちの研究はW杯の結果がナショナル・プライドに与えた影響は小規模で短期的と結論づけている。また、セイペルや下窪の研究は、スポーツに関連したナショナル・プライドの高揚は、一般的なナショナル・プライドの高揚とは関係ないことを実証している11。こうした研究を踏まえると、大々的に報じられたものの、エジルの発言に反応したのは一部のサッカーファンと極右政党およびその支持者だけで、ギュンドアンがキャプテンに就任することにも多くのドイツ国民は過剰に反応しなかった可能性もある。

多様化に拍車がかかるドイツ代表

このコラムでは、なぜギュンドアンはドイツ代表のキャプテンとなれたのか、という問いを設定し、サッカーのドイツ代表と移民との関係、ギュンドアンのキャリア、エジル事件の傷跡という3つの補助線から検討した。サッカーのドイツ代表と移民の関係は、表1でも詳しく見たように、冷戦体制崩壊後、まず東ドイツ出身者、次いで近隣諸国出身者、そして移民および他国にルーツを持つプレーヤーが代表に名を連ねるようになった。また、ギュンドアンのキャリアを考えれば、2022年から24年の時期にキャプテンとなるにふさわしい実績を誇り、勝利を優先するなら、当時、最も有能なプレーヤーであったギュンドアンにキャプテンを委ねるのが最善であっただろう。そして、エジルとともに2018年W杯前にトルコのエルドアン大統領と面会したことを批判されたギュンドアンであったが、2018年W杯での敗退の傷跡は短期間で忘れ去られたという研究結果が示すように、ギュンドアンのドイツ代表のキャリアに否定的な影響を及ぼさなかった。

ドイツは多様な国にルーツを持つプレーヤーが増え続けており、今後はより一層、そうしたプレーヤーの存在感は増していくことが予想される。一般市民は勝利していれば、そうした事象に異議を唱えることは少なく、敗退して論争が巻き起こっても、そうした否定的な影響は、一部のナショナリスト、極右政党支持者を除いて長続きしないだろう。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1:Ardfern(CC BY-SA 4.0
  • 写真2:筆者撮影
著者プロフィール

今井宏平(いまいこうへい) ジェトロ・アジア経済研究所 地域研究センター 中東・南アジア研究グループ 副主任調査研究員。Ph.D. (International Relations). 博士(政治学)。著書に『トルコ100年の歴史を歩く: 首都アンカラでたどる近代国家への道』平凡社(単著、2023)、『戦略的ヘッジングと安全保障の追求:2010年代以降のトルコ外交』有信堂(単著、2023)、『エルドアン時代のトルコ:内政と外交の政治力学』(岩坂将充との共著、2023)、編著に『クルド問題』岩波書店(編著、2022)、『教養としての中東政治』ミネルヴァ書房(編著、2022)などがある。


  1. 例えば、Mia Fischer and K. Mohrman. 2021, Multicultural integration in Germany: Race, religion, and the Mesut Özil controversy”, Journal of International and Interectural Communication, 14 (3), pp. 202-220; Gijs van Campenhout and Henk van Houtum. 2021, “’I am German when we win, but I am an immigrant when we lose’. Theorising on the deservedness of migrants in international football, using the case of Mesut Özil”, Sport in Society: Cultures, Commerce, Media, Politics, 24, , pp. 1924-1940; Martina Möllering and Eva Schmidt. 2022, The case of Mesut Özil: A symbol of (non-) integration? An analysis of German print media discourses on integration”, Discourse & Communication, 16 (3), pp. 326-345.
  2. Ayhan Simsek. 2018, Footballer Mesut Ozil sparks racism debate in Germany”, Anadolu Agency, 24 July 2018.
  3. Bundesliga website. 2024, History of Germany captains: From Fritz Walter through to Joshua Kimmich”, 6 September 2024.
  4. 中井遼『ナショナリズムとは何か──帰属・愛国・排外主義の正体』中央公論新社、2025年、91頁。旧ユーゴの国々とサッカーについて扱った以下の論考も参照。今井宏平・加藤丈資「ナショナリズムの象徴かそれとも犠牲者か──サッカーと旧ユーゴをめぐる紛争」『IDEスクエア』2018年10月。
  5. 例えば、フランスでは1982年ワールドカップや1984年欧州選手権でミシェル・プラティニらと黄金の中盤を形成したジョン・ティガナは旧フランス植民地のマリ出身だった。また、オランダではやはり旧植民地で、1975年にオランダから独立したスリナム出身の親を持つルート・フリットやフランク・ライカールトが1988年の欧州選手権で活躍し、オランダに優勝をもたらしていた。
  6. 東ドイツ出身選手のW杯および欧州選手権参加の詳細は以下の通りである。1992年がザマー、ドル、トーム、1994年がザマー、ウルフ・キルステン、1996年がザマー、シュテファン・フロイント、レネ・シュナイダー、1998年がヨルク・ハインリヒ、キルステン、フロイント、イェンス・イェレミース、2000年がマルコ・レーマー、トーマス・リンケ、キルステン、バラック、イェレミース、カルステン・ヤンカー、ダリウス・ヴォッシュ、2002年がレーマー、リンケ、ヤンカー、バラック、イェレミース、ベルント・シュナイダー、2004年がバラック、ベルント・シュナイダー、イェレミース、2006年がロベルト・フート、バラック、ベルント・シュナイダー、2008年がクレメンス・フリッツ、バラック、ティム・ボロウスキ、レネ―・アードラー、ロベルト・エンケ、2010年がトニ・クロース、2012年がクロース、マルセル・シュメルツァー、2014年、2016年、2018年、2020年がクロース、2024年がマクシミリアン・バイアー、ロベルト・アンドリッヒとなっている。
  7. 近隣諸国出身選手のW杯および欧州選手権参加の詳細は以下の通りである。1996年がボビッチ、2002年がオリバー・ノイビル、クローゼ、2004年がボビッチ、クローゼ、ポドルスキ、トマス・ブルダリッチ、2006年がノイビル、クローゼ、ポドルスキ、2008年がノイビル、クローゼ、ポドルスキ、ピオトル・トロホウスキ、2010年がクローゼ、ポドルスキ、トロホウスキ、マルコ・マリン、2012年がクローゼ、ポドルスキ、2014年がクローゼ、ポドルスキ、シュコドラン・ムスタフィ、2016年がポドルスキとムスタフィとなっている。
  8. 近隣諸国以外の外国にルーツを持つ選手のW杯および欧州選手権参加の詳細は以下の通りである。2000年がリンク、2002年がアサモア、2004年がケヴィン・クラニー、2006年がアサモアとオドンコール、2008年がクラニーとオドンコール、2010年がエジル、ケディラ、デニス・アオゴ、ジェローム・ボアテング、カカウ、2012年がエジル、ケディラ、ボアテング、ギュンドアン、2014年がエジル、ケディラ、ボアテング、2016年がエジル、ケディラ、ボアテング、ジャン、ヨナタン・ター、レロイ・サネ、2018年がエジル、ケディラ、ボアテング、ギュンドアン、アントニオ・リュディガー、2020年がギュンドアン、リュディガー、ジャン、サネ、セルジュ・ニャブリ、ジャマル・ムシアラ、2022年がギュンドアン、リュディガー、サネ、ニャブリ、ムシアラ、ティロ・ケーラー、カリム・アデイェミ、アルメル・ベラ=コチャプ、ユスファ・ムココ、2024年がギュンドアン、リュディガー、サネ、ムシアラ、ジャン、ター、ウンダフ、ヴァルデマール・アントン、ベンヤミン・ヘンリヒスとなっている。
  9. Vera Vergeld, Dominik Krüßmann, and Bernd Strauss. 2022, Identification with a National Soccer Team and expectancies regarding success: two experiments on manipulated team salience”, International Journal of Sport and Exercise Psychology, 20 (3), pp. 757-776.
  10. Freya Gassmann, Jan Haut, and Eike Emrich. 2019, The effect of the 2014 and 2018 FIFA World Cup tournaments on German national pride. A natural experiment”, Applied Economics Letters, 27 (19), pp. 1541-1545.
  11. Ørnulf Seippel. 2017, Sports and nationalism in a globalized world”, International Journal of Sociology, 47 (1), pp. 43-61; Takuya Shimokubo. 2021, Political regime and the impact of sporting success on national pride: a quasi-natural experiment in Germany”, International Journal of Sport Policy and Politics, 14 (1), pp. 37-52.