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コラム
第15回 フィリピン──普通のトイレを使うための障害者たちの知恵
The Philippines- Wisdom of living for the bathroom: how could PWDs the local bathroom make usable for them?
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001256
2025年2月
(6,209字)
トイレに関する現地語講座
頻出単語
Tisyu(Toilet paper)ティシュー トイレットペーパー
フィリピン手話(FSL)https://www.youtube.com/watch?v=leTo5-lzex4 (0:46あたり)トイレ
例文
I need to go to the comfort room(or C.R.)(英語) トイレはどこですか?(washroomやbathroomはほぼ使われないので注意しないといけない)
Nasaan ang C.R.(banyo, pagliban, kubeta)ninyo(またはpo、丁寧に聞きたい時に付加)? (タガログ語)ナサアン アン シーアー ニーニョ すみません、トイレはどこですか?
Pagamit po ng CR ninyoパガーミット ポ ナン シーアー ニニョ すみません、トイレを借りられますか?
小さな落とし穴と大きな落とし穴──フィリピンの現地トイレ
フィリピンの現地のトイレには小さな落とし穴と大きな落とし穴がある。まずは旅行者でも出会うことがある小さな落とし穴である。フィリピンを旅行で訪れて、公衆トイレを使用する時に入ってから慌てることになるのが、この小さな落とし穴である。フィリピン旅行の豆知識としてお伝えしておこう。トイレが個室と小便器の2つに分かれているのはよいものの、フィリピン初心者が驚くのは、個室に入った時に便座がないということ、そしてトイレットペーパーがないということである(写真1)。これがなぜなのかは諸説あるのでその原因は他に譲るとして、フィリピン人はそれには全く困っている様子はない。むしろすでにそういうものだと思っているため、便座がなければ、腰を浮かして便器の上に座るか、あるいは縁に足をかけて跨ぐかしているようである。トイレットペーパーは常に鞄の中にポケットサイズのものを用意していて、それを持ってトイレに行く。このため、ショッピングモールなどではトイレの外にトイレットペーパーを売る自販機がある場合もある。ただし壊れていて、そこで買えないことも多いのは、フィリピンあるあるである。
以上のような旅行者がしばしば遭遇する小さな落とし穴は、フィリピン旅行の豆知識としてあちこちで言及されている。今回ご紹介したいのは、これまでほぼ紹介されてきたことがないより大きな落とし穴、つまりフィリピンの障害者が普通のトイレを利用する際に直面している問題についてである。小さな落とし穴の方は既に述べたような対応の仕方があるし、旅行者でもこつが分かれば対応可能である。ところがこれから述べる大きな落とし穴は、旅行者は気づくことなく過ぎてしまうものの、障害当事者にとってより深刻な問題である。
まず以下では、歩くことや手を使用するのに支障のある肢体不自由の人たちが上記のようなトイレでどうしているのだろうか、目が見えない人たちはどうしているのか、耳が聞こえない人たちはどうしているのかについて検討していく。日本では、公共の場に障害者用トイレや「だれでもトイレ」のような設備が普及してきた。しかし、先進国で考えられてきたユニバーサル・デザインはフィリピンの文脈のなかでいつも対応できるのだろうかを考える必要がある。そうした先進国型のユニバーサル・デザインがどこでも実現できれば、それはそれで良いかもしれないし、途上国にはそのための努力をしている人たちもいる。しかしフィリピンの現状に即した対応はどうあるべきか、ないしは現地の当事者たちはどのように対応しているのかという個別具体的な問いに躊躇なく対応できる人は非常に少ないのではないだろうか。それを以下でお伝えしていく。
肢体不自由の人たちのケース
ではまず、肢体不自由の人たちのケースの話である。日本にもある障害者用トイレというのは、ほぼ肢体不自由の人たちが使いやすいトイレとして理解されているのではないかと思う。車椅子が入れる幅、中で車椅子を回転させられる空間、車椅子に乗った高さで利用しやすい手洗い場、車椅子から便座への移動の助けになる取っ手などが思い浮かぶであろう。これらがすべてどのトイレでも揃っていれば、フィリピンの肢体不自由の人たちのトイレ・タイムはより快適なものになるだろうと思われる。
しかし現実はそうではない。フィリピンのモールなどで障害者用トイレが整っているところは、まだ数えるほどである。多くのトイレは個室と小便器に分かれているだけで、それ以外には彼らのための設備は今のところ何もない。いつか自分がそうした設備を必要とするようになるかもしれない人たちも、無頓着のようである。フィリピンは東南アジア諸国のなかでは障害者関連の法整備が早く、アクセシビリティ法(BP344)という物理的アクセシビリティを保障する法律が早くも1983年にできており、その前年にできた障害者のマグナカルタという障害基本法と併せて、同法には障害者のアクセシビリティを保障するためのバリアフリー環境を作るといった細かい規定が述べられている(森2019)。
同法が及ぶ範囲はどこまでだろうか。基本的に公共の場に適用されることになっている。しかし、同法ができた時にはすでに建設ずみの場所には適用されないこと、実質的な罰則がないこと、そして、政府が建設を許認可する建物にのみ同法が適用される(建設について意図的であれ、偶発的であれ、政府が許認可に関与しない建物には同法が実際には適用されない)ということから、法によるモニタリングや勧告などの法の実施についても行政のガバナンスにさまざまな問題があると指摘されているフィリピン政府の現状を踏まえると、法はあっても法の趣旨は十分には実現されていないという実情がある。もちろん、肢体不自由者たちをリーダーとする現地の障害当事者団体はそうした状況の改善をずっと求め続けており、近年は彼らによるモニタリングも一部でなされるようになってきている。
公共の政府機関の建物やモールでは、そうした運動によって状況が改善されていくべきであろう。一方、障害者が長い時間を過ごす自宅のトイレはどうなっているのだろうか。ここで2つのケースを紹介しよう。
最初のケースは、2018年に交通事故により頸椎を損傷し、現在は車椅子が必須の生活となったマニラ首都圏近郊の州に住む40代のBさんのケースである。こうした中途障害者の多くの例に漏れず、それまでずっと障害のない人生を過ごしてきたBさんがリハビリ期間を経て自分の障害を自分の属性として受け入れ、それに合わせた生活の再設計を始めるには多少の時間がかかった。それまでできていた生活のさまざまな局面での動作において、家族の支援が不可欠となる生活をしばらく続けた後、Bさんは自分の状況に合わせて自宅環境を改善することで、そうした支援のいくつかからは自立できることに気付いた。その一つが、トイレである。
彼の家には幸い、家族用(屋内)と客人用(屋外)の2つのトイレがあった。Bさんはこのうち、自費で客人用のトイレの改修に乗り出した。2022年頃まで仰臥状態のまま、家族に抱きかかえられるようにしてトイレに移動していたBさんは、屋外のトイレにスロープを付け、車椅子での移動で中に入れるようにし、手洗い場も車椅子に合わせた高さに改造した。そのために当時の価格で5千ペソ(日本円で1万2千円ほど、当時のマニラ首都圏の最低賃金は非農業部門で570ペソ/日)を自ら支出している。
これによりできあがったのが、写真2のトイレである。
見て分かるように、入り口の間口は広く取られ、緩いスロープが設けられており、自力で車椅子のまま中に上がれるようになっている。中は車椅子が回転できるだけの広さも確保されている。そして公衆トイレとは異なり、便座ももちろん備え付けられているほか、トイレットペーパーもある(家庭のトイレでは、フィリピンでも都市部や都市近郊であれば、これらの両方が備わっていることが多い)。肢体不自由者でもこうした改造の資力と知識を持つ人たちであれば、自助努力によるトイレ環境の改善がなされている。
しかし誰でもそのようにできているのかというと、そうではない。多くの肢体不自由者は貧困のなかで生活しており、彼らの住居は賃貸である。その場合、Bさんのように自分の身体状況に合わせてトイレを改造するということはかなわない。それが、次のNさんのケースである。
Nさんはマニラ首都圏の北部の市に住む先天性の肢体不自由者で二足歩行は難しい。移動のためには車椅子を使用するか、最低でも松葉杖を使う方法しかない。Nさんの家は賃貸であり、それも非常に狭い。どのくらい狭いかというと、妻と娘を含めた三人が寝起きするための二段ベッドと煮炊き用のコンロ、小物を置く棚だけがある部屋で、端に個室の小さなトイレがある。それ以外の空間は人ひとりがようやく歩ける程度の広さしかない。トイレも改造できない、車椅子も使えない家だが、家の中にトイレがあるだけまだましであるというのがNさんの家の状況である。Nさんはトイレに行くため、床を這って膝行するしか術はない。彼の置かれた貧困状況はトイレの使用にまで及んでいることが分かる。
そして、トイレにはかろうじて便座はあるものの、そもそもトイレで用を済ませた後、トイレの床を這うような状況があるという現実を、私たちは認識しなければならない。その汚れた状況をどうしているのかと尋ねたところ、トイレの中でたらいの水を身体にかけてきれいにしているのだという。最初に聞いた時には、私も言葉を失った。ただ、それが彼の日常である。しかし、そういう生活を余儀なくされる人がいるということもまた現実である(写真3)。
(マニラ首都圏バレンズエラ市)
視覚障害の人たちのケース
次に視覚障害の人たちとフィリピンのトイレについて述べていこう。トイレというのはプライベートな空間である。つまり、そこで何がどのように行われているのかは、その空間を共有した人たちでないと、なかなかわかるものではない。視覚障害者の人たちにとっては、どこの国であっても、まずはトイレにたどり着くのにバリアがある。晴眼者に尋ねたり、彼らのガイドを経たりして、ようやくたどり着くのがトイレだ。そこまでは世界共通の苦労がある。フィリピンのトイレについて、本稿冒頭で先進国のトイレとの違いに触れ、便座やトイレットペーパーについて少し述べたが、もうひとつ大事な要素がある。それは水をためたバケツの存在である。モールなどでは、レバーで水が流れるようになっているところも多い。しかし、そうした近代的なビル以外の水洗設備が整っていないところは、家庭も含めてこのバケツが必須である。しょっちゅう断水が発生するフィリピンのインフラの状況が、こうした生活の知恵を生み出していると考えられる。トイレを流すための水は、普段からこのバケツ(時にはさらに大きな桶の場合もある)に貯めておき、必要な分を汲んで流すのである。このバケツもプライベート空間にあるため、それをどのように使っているのかは当事者でないとわからない。実は、視覚障害者のケースではこのバケツが非常に大事なツールとなっている。
どういうことかというと、彼らはトイレに到着後、このバケツを活用して、水をまくことで便座の位置を確認している。視覚障害者の人たちのイメージとしてある手で探っているのではないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、フィリピンで私が出会った人たちはそうではなかった。便器のような汚いものに素手で触るなどということはしないというのである。そこでこのバケツの水が活躍する。つまり、バケツから水を汲んで便器があると思われる領域に向けて水をまくのである。これが彼らの流儀である。視覚障害者は、見えなくなってからの期間が長い場合、聴覚が非常に発達しており、エコー音のようなもので部屋の広さやさまざまな状況を把握できるという。この能力はトイレでも活かされていた。彼らは、水が便器にぶつかる際に発する音を頼りに、便器の正確な位置と方向とを感知することができる。
一方、このことで分かると思うが、フィリピンのトイレは水浸しが普通である。日本の家庭のトイレは便座の周辺は乾いているところが多いが、フィリピンではむしろ濡れたままの状態が多い。これはつまり、水をトイレの床に流すことによって、トイレをきれいにする使い方をしているからである。また、トイレを使った本人もそこで水を浴びて、身体をきれいにするという二重の意味がある。それが先の肢体不自由の方のケースのように這ってトイレに行くために身体も汚れるから中で水を浴びるという使い方にもつながっている。
聴覚障害の人たちのケース
最後に聴覚障害者のケースである。聞こえない人たちは、歩くことはできる、目も見えるのでトイレについて日常的にバリアを感じる経験はしていない。しかし、これは日本でも同じであるが、プライベート空間でのさまざまなできごと、特に音に関するできごとは、聞こえない人たちは他の人たちがどうしているのかを知らないし、聞こえない。日本の公衆トイレでは最近、流水音を出す装置が一部設置されるようになった。それが出てきたことで、トイレというプライベート空間で自分が発生させる音を他の人に聞こえないよう配慮する必要があることに、聞こえない人たちは逆に気づかされるようになった。
では、フィリピンではどうだろうか。先の視覚障害者のケースと同様に、バケツが問題になってくる。バケツには事前に水を貯めておかないといけない。そのため多くの家庭や職場では、蛇口から水滴を垂らすくらいの感じで出しっぱなしにしておいて水を貯めているのが通常である。しかし、これとて、ずっとそのままで大丈夫というわけにはいかない。運悪くトイレを使用する人が少なかった場合には、バケツから水があふれてしまうことにつながる。耳が聞こえる世間のマジョリティの人たちは、水の落ちる音でバケツが満杯に近いのかどうかを察して、必要ならば蛇口を締めに行く。
しかし家族全員が聞こえなかったりすると、だれも水の満杯状況には気づかないため、時として水はバケツからあふれ続けたままになってしまう。そういうケースは、ろう者だけの家族ではより頻繁に起きているようである。ただ、大きな事故につながるわけではないので、危険というほどのことではない。こうしたろう者だけの家族は都市部では増えてきている。都市部では、ろう者同士の結婚が個人の自由な選択として可能な一方、伝統文化の強い農村部では結婚に際し親の承諾を必須としていて、親が子どもの配偶者に同じろう者を認めないという古い価値観がまだ根強いためである。
以上、肢体不自由、視覚障害、聴覚障害という古典的三障害について、フィリピンという文脈のなかで、トイレが彼らにとってどういうものであるのか、そしてどのようにそれらの問題に対処しているのかを、いわゆる先進国型の環境を整備するというユニバーサル・デザイン型の一般論とはまた異なった地域研究の視点で紹介した。このエピソードを通じて、フィリピンという風土が生み出すトイレについて、そしてそこに障害というエッセンスを加えることで見えてくるものの意味について改めて考えていただける機会となれば幸いである。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- すべて筆者撮影
参考文献
- 森壮也 2019.「フィリピンにおける障害者のアクセシビリティ法制」小林昌之編『アジアの障害者のアクセシビリティ法制──バリアフリー化の現状と課題』アジ研選書51、 日本貿易振興機構アジア経済研究所:147-171.
著者プロフィール
森 壮也(もりそうや) 新領域研究センター主任研究員、経済学修士、障害と開発・手話言語学、『途上国障害者の貧困削減──かれらはどう生計を営んでいるのか』(岩波書店、2010、2011年国際開発学会特別賞)、『障害と開発の実証分析──社会モデルの観点から』(勁草書房、2013、第17回国際開発研究大来賞」)、「言語としての手話、言語的マイノリティとしてのろう者──二者択一から一挙両全へ」『ことばと社会』26号(三元社、2024)
- 第1回 中国の「トイレ革命」
- 第2回 日本――トイレではない。それは、便所。
- 第3回 インドネシア――日本を超える?隙のない清潔なトイレ
- 第4回 韓国──紙、流すべきか、流さざるべきか
- 第5回 トルコ──いにしえのトイレに思いを馳せつつウォシュレットの原型を体感せよ
- 第6回 ベトナム――奥深き農村トイレ文化
- 第7回 イラン――洗え、洗え、の爽やかトイレ
- 第8回 ウズベキスタン――トイレをめぐる新米研究者の冒険記
- 第9回 パキスタン――トイレへの(心理的)アクセスがない
- 第10回 中国──トイレから見える中国人の合理性
- 第11回 カンボジア──トイレは怖いところなのか
- 第12回 マレーシア――「郷に従う」ことの快適さ
- 第13回 タイ――洋式化と多様化の波
- 第14回 クウェート――略奪されたトイレ
- 第15回 フィリピン──普通のトイレを使うための障害者たちの知恵