IDEスクエア
コラム
第11回 カンボジア──トイレは怖いところなのか
Cambodia: Is it Scary in the Restroom?
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001027
2024年6月
(3,358字)
トイレに関するカンボジア語
បន្ទប់ទឹក ボントップ・トゥック お手洗い/浴室
បង្គន់ ボンコン 便所/便器
ក្រដាសបង្គន់ クロダ・ボンコン トイレットペーパー (または、ក្រដាសអនាម័យ クロダ・アナマイ トイレットペーパーを含む柔らかいティッシュのような紙のこと)
覚えておくと便利な表現
តើបន្ទប់ទឹកនៅទីណា タウ・ボントップ・トゥック・ナウ・ティー・ナー お手洗いはどこですか?
ឈឺ ពោះ チュー・ポホ お腹が痛いです
トイレは怖い
閉鎖空間であるトイレは、地方の片田舎で育った子どものころの筆者にとって「怖いところ」だった。昭和の終わりの幼少期、いじめっ子は筆者の長靴を薄暗い公民館のボットン便所の個室に隠した。学校のトイレの不穏な雰囲気も苦手だった。怖い話を聞いたあとのトイレは、できるだけ短い時間で済ませて、ものすごい勢いで扉を閉めてみんなのいる部屋へと戻ったものだ。ひと昔前の公衆トイレの暗くて汚い空間だと、恐怖感は倍増した。最近の近代的な公衆トイレは、「恐怖」とは無縁のこぎれいなところが多いせいか、大人になってからトイレが怖いと思うことはなくなっている。
筆者がカンボジアによく行くようになった2000年代以降、都市部およびアクセスのよい農村部では、トイレが汚すぎて困るという経験は数えるほどしかなかったように思う(許容範囲のレベルには個人差がある)。ただし、常に安全かつ清潔というわけでもなく、大量のゴキブリに絶叫したという話やベトナムの農村部で見られるようなタイプのトイレに戸惑ったという話も聞かれることから1、筆者がそのような経験をせずに済んだことは、単にラッキーであったということなのかもしれない。
カンボジアの人たちはトイレを怖いところだと思っているのだろうか。都市部出身の友人女性は「電気のない田舎のトイレなら暗くて怖いかもしれないけど、首都にいる限りは怖いことはない」というが、農村出身の友人女性は「幽霊がいると信じていたから、トイレにいくときは友達と一緒に行っていた」という。また、幽霊以外にも、熱帯ゆえの蛇や虫など、具体的な危害を及ぼす可能性のあるものが出没する危険はある。筆者が2010年代半ばに駐在していたタイでは、便器から蛇がでてきて、利用者にかみつくというにわかに信じたくないニュースがたびたび話題になっていた2。カンボジアでも、「蛇・トイレ」といったカンボジア語で検索すると同様の写真や動画を複数見つけることができる(映像の衝撃性ゆえに、リンクの提示は差し控えたい)。日常的な出来事としてさほど大きな話題にはならないのかもしれないが、このような事例もまた、カンボジアでのトイレの恐怖のひとつである。一般的にトイレでは、ひとりぼっちで逃げることができない閉鎖空間に無防備な状態で滞在せざるをえないことが、トイレにおける恐怖を増幅させているように思われる。
屋外で用を足す際の恐怖
では、開放的な空間のトイレの場合は、恐怖感が軽減されるのだろうか。農村出身の友人男性は、子ども時代に青空のもとでのトイレを満喫していたことから、突如導入された閉鎖空間にある水洗トイレがどうしても苦手で好きになれなかったという。
筆者は2008年頃、その友人を含む数人のグループでベトナムとラオスに国境を接するラタナキリ州の少数民族の村を訪ねたことがある。その村に1泊することになったのだが、水浴びは集落の隅にある井戸で、トイレは少し離れた藪のなかで済ませるようにと言われた。このような経験をするのが初めてだった筆者に、トイレの説明をした同行者たちは、「用を足そうとすると、目ざとくブタが我々をみつけてくる」「あいつら、絶対近づいてくるんだよ」と、身振り手振りでブタが接近してきたときの様子を面白おかしく再現してくれた。筆者は、闇夜に後ろからブタに突撃されるのは御免こうむりたいので、水分控えめでそわそわしながら夜を迎えることになった。
泊まった建物は、十数軒の家屋が取り囲む真ん中に位置する高床式の建物であった。日が落ちる前に水浴びを済ませ、蚊帳付きのハンモックで眠りについた。夜中、慣れないハンモックで腰が痛くなってしまった筆者は、目が覚めてしまった。しばらくすると、トイレに行きたくなってきた。小一時間逡巡した末、意を決して用を足しに行くことにした。藪までの数十メートルの暗がりを歩き、しかるべき場所に至った。夜とはいえ、このような事態に備えて旅先に持参している長い布を目隠しに利用し、用を済ませる。ひたすら見えない「ブタ」の存在におびえ、ゴソゴソという不穏な音にヒヤヒヤしながら、とにかく素早く済ませることに成功した(ブタのイメージは写真を参照)。
なお、宿泊した村とは別の集落のブタであり、このブタは「無実」である。
藪に向かうときはブタのことで頭がいっぱいで何も見えてなかったが、藪から寝床に戻るときに見上げた星空がおそろしく美しかった。そして、深夜であるにもかかわらず何軒かの家の前で村人たちが焚火をしながら雑談をしていた様子が目に入り、不思議な空気感が漂っていたことをいまでもよく覚えている。この夜のトイレ体験は、当時のカンボジア農村部ではさほど珍しいことではなかったのかもしれないが、筆者のなかではオープントイレ原体験として、心に深く残っている。
衛生的なトイレの普及と変わりゆくトイレ事情
2020年代のカンボジアでは、衛生的なトイレの普及率は大幅に向上している。『カンボジア社会経済調査』(Cambodia Socio Economic Survey)によると、2009年に全国で34.7%の普及率であったが、2020年には88.0%へと改善している。農村部でも8割以上の世帯にトイレが設置されており、この10年間の改善は著しい(表)。また、国連児童基金と世界保健機関の『共同モニタリングプログラム』(Joint Monitoring Programme)によると、屋外排泄実施率は2000年に87.5%、2010年まで50%を超えていたが、2022年には12.1%まで減少している3。
表 衛生的に改善されたトイレの普及率の推移(%)
(出所)National Institute of Statistics/Ministry of Planning. “Cambodia Socio Economic Survey”より筆者作成
トイレそのものは、本連載(アジアトイレ紀行)の他のアジア諸国の事例でも見られるような日本の和式トイレに近いタイプのものと4、洋式トイレとが併存する。公共施設やホテル、大学などでは洋式のものを多く見かけるが、地方旅行中に立ち寄るトイレには和式風トイレも健在である。伝統的にはトイレットペーパーは使用せず水でお尻を洗うが、トイレットペーパーを使用した場合、そのまま流すと配管がつまってしまうため、別に設置されたゴミ箱に捨てるようになっていることが多い。また、排泄物を流す際、水洗のためのタンクがないトイレでは、自分で手桶の水をざばーっと便器に流しこむ。
2000年代~2010年代半ばに筆者が地方に向かう国道をバスやタクシーで移動していたときは、国道沿いのレストラン兼お土産物屋さんがトイレおよび軽食のための休憩場所となっていた。2010年代末頃から、ガソリンスタンド、コンビニ、カフェ、トイレがセットになった休憩場所が各地に増えつつある。従来のレストランのトイレも十分清潔だったが、さらに使いやすい空間になっているように思われる。
学校のトイレのなかには、10年前は便座が壊れていたり、ゴミがあふれていたりするようなところもあった。いまでも、公立の幼稚園~高校の36.0%はトイレ設備がないという(Ministry of Education, Youth and Sport 2022)。一方で、筆者の友人が地方で経営する比較的庶民的な私立学校では、清掃担当者が定期的に掃除を行い、きれいなトイレを保っているという。そのような空間で学ぶ現代のカンボジアの子どもたちにとっては、トイレは怖い空間にはなりえないのかもしれない。
筆者がかつて、ブタの気配におびえた村にも、いまは個室のモダンな水洗トイレが出現しているのかもしれない。きれいなトイレが普及し生活が衛生的になることは、人々の健康のためにも好ましい出来事である。トイレは清潔がよいし、幽霊も蛇も(ブタも)いてほしくないが、「恐怖」をもたらす影の部分と共存していた時代がどんどん遠くなることには、ちょっとした郷愁のようなものを覚えることもある。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- 筆者撮影(2009年1月)
参考文献
- 荒神衣美2024.「第6回ベトナム──奥深き農村トイレ文化」『IDEスクエア』1月。
- Ministry of Education, Youth and Sport. 2022. “Public Education Statistics and Indicators 2021-2022.”
- Ministry of Rural Development. 2011. “National Strategy for Rural Water Supply, Sanitation and Hygiene 2011-2025.” April.
- ----. 2019. “National Action Plan on Water Supply and Rural Sanitation 2019-2023 (Phase 2).” January.
著者プロフィール
初鹿野直美(はつかのなおみ) アジア経済研究所地域研究センター東南アジアⅡ研究グループ。カンボジア地域研究、国際協力、移民労働者。おもな著作に「カンボジアの移民労働者政策──新興送出国の制度づくりと課題」(山田美和編『東アジアにおける移民労働者の法制度──送出国と受入国の共通基盤の構築に向けて』アジア経済研究所、2014年)、「きこえるのは誰の声──ラタナキリ州の先住民と土地問題を支援する人たち」(青山和佳・受田宏之・小林誉明編『開発援助がつくる社会生活──現場からのプロジェクト診断』大学教育出版、2017年)など。
注
- いずれもアジア経済研究所新谷研究員の2010年代前半のカンボジアでの経験による。ベトナムの農村におけるトイレについては荒神(2024)を参照。
- 2023年にも「ヘビがトイレに…住人が尻をかまれけが タイ」(『テレ朝news』2023年4月19日)といった事件が報じられている。
- カンボジア政府は、Ministry of Rural Development (2011; 2019)などを通じて、2025年までの屋外排泄ゼロ(Open Defecation Free:ODF)達成を目指した取り組みを進めている。
- インドネシア、中国、パキスタン、イランの事例で掲載されている写真に類似している。
- 第1回 中国の「トイレ革命」
- 第2回 日本――トイレではない。それは、便所。
- 第3回 インドネシア――日本を超える?隙のない清潔なトイレ
- 第4回 韓国──紙、流すべきか、流さざるべきか
- 第5回 トルコ──いにしえのトイレに思いを馳せつつウォシュレットの原型を体感せよ
- 第6回 ベトナム――奥深き農村トイレ文化
- 第7回 イラン――洗え、洗え、の爽やかトイレ
- 第8回 ウズベキスタン――トイレをめぐる新米研究者の冒険記
- 第9回 パキスタン――トイレへの(心理的)アクセスがない
- 第10回 中国──トイレから見える中国人の合理性
- 第11回 カンボジア──トイレは怖いところなのか
- 第12回 マレーシア――「郷に従う」ことの快適さ
- 第13回 タイ――洋式化と多様化の波
- 第14回 クウェート――略奪されたトイレ
- 第15回 フィリピン──普通のトイレを使うための障害者たちの知恵