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コラム
第14回 クウェート――略奪されたトイレ
Kuwait:Looted Toilet
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001138
2024年11月
(3,353字)
トイレに関する現地語講座(アラビア語)
頻出単語
Ḥammām ハンマーム トイレ、洗面所、浴室
Shaṭṭāf シャッターフ ビデスプレイヤー、洗浄用スプレーガン
例文
Ayna al-ḥammām? /Weyna al-ḥammām?(クウェート方言) アイナルハンマーム?/ウェイナルハンマーム? お手洗いはどこですか?
すべてを略奪していった占領者
1991年、湾岸戦争でクウェートがイラク軍の占領から解放されて、自宅に戻ることができたあるクウェート人は、驚愕の光景を目にしたという。家具や貴重品はもちろんのこと、トイレの便器までもが跡形もなく持ち去られていたのだ。国からありとあらゆるものが略奪されたことの比喩ではなく、実際に持ち去られていたのだという。何故に便器?と、その話を聞いたときには思われたが、便器をはじめ衛生陶器は富の象徴であり、石油による莫大な富を背景に経済が大きく成長していた1980年代クウェートの繁栄の象徴であったのだ。近隣のドバイの繁栄に追い抜かれた感のある2005年以降のクウェートしか知らない筆者には想像がつかなかったが、1980年代はまさにクウェートにとっての「黄金期」であり、「現代のエルドラド」と呼ばれるほどの繁栄であったという1。1961年にクウェートが英国の保護領から独立を宣言した際、もともと自国領の一部だったと主張してそれを認めず、1980年代はイラン・イラク戦争で疲弊していた当時のイラクから占領軍としてクウェート入りした兵士たちにとって、黄金郷に白く輝く洋式トイレは羨望と妬みも相まって格好のお宝と映っていたのであろう。
近代化と繁栄の象徴としてのトイレ
クウェートを含め、アラブ圏も本シリーズ第5回のトルコ、第7回のイランと同様にトイレには二つの様式、すなわち、屈んで用を足す、金隠しのない和式便器のようなアラブ式(写真1)と、腰かけて用を足す洋式(英国式/British specifications)(写真2)があり、用を足した後に水で洗浄するためのシャワー器具やスプレーガン(シャッターフという)が装備されているのも同様で、衛生観念を含め共通の文化的背景を反映している。略奪されたトイレについて、アラブ式は平たい埋め込み型設置なので、持ち去られたのはもっぱら水洗式の腰掛型洋式便器であった。水洗トイレは近代文明の産物であり、本シリーズの第1回でも述べられているとおり、清潔で明るい水洗の洋式トイレは、近代化の象徴ともいえる存在としてアラブ圏においても認識されている。
「水洗トイレの開発と普及は、近代都市の発展や衛生問題と深く関わる」(前田2008, 52)といわれるとおり、クウェートにおける水洗トイレの普及は、石油輸出によって得られた膨大な富を資金源とした開発投資による急速な近代化・都市化の進展と密接に関わっている。もともと砂漠気候で乾燥が激しく、水が貴重で水源に乏しいクウェートでは、淡水は北方のイラク国境に近い2カ所の窪地、ラウダタイン(al-Raudatayn)とウンム・アル=アイシュ(Umm al-Aysh)で湧水を汲み上げて運び、利用するしかなかった2。上水道の整備が始まったのは、1951年に最初の海水淡水化プラントがシュウェイフ港近くに建設され、1953年に操業を開始して以降のことである。1938年に石油が発見され、1946年から輸出開始によって石油収入を得られるようになったクウェートにとって、まさに近代化の出発点のタイミングであった3。
本格的な近代化が始まったのは1970年代に入ってからで、石油ブーム(日本では石油危機)による価格急騰と欧米メジャーの手にあった石油会社の国有化によって、国内開発に豊富な資金を投入できるようになったのがその理由である。淡水化プラントと上水道網の拡張とともに、最初の本格的な下水処理場がリッカ地区に建設され稼働したのは、ようやく1982年になってのことで、そこから急速に水洗トイレの普及が進んでいった(写真3)。
洋式トイレについては、19世紀末から20世紀初頭にかけて英国の進出の本格化とともに持ち込まれたと考えられている。近代化以前のトイレは伝統的な穴掘り式(自然分解任せ)やバケツに用を足して運び出し手作業で処理するバケツ式であったが、1950年代には地元資本による建築資材のサプライヤーが誕生しており、洋式便器の輸入も始まっていたようである。人気だったのはKOHLERとAmerican Standardの二大米国ブランドで、これらが急速に普及し、近代化と繁栄の象徴として、1980年代のクウェート・シティの景観を形作った高層ビルや高級ホテル、ショッピング・モールのみならず、個人の邸宅のトイレにおいても白磁の光沢を放っていたのである。
地場の衛生陶器産業の勃興と参入相次ぐ市場
住宅需要の増加とともに、必要な建材を輸入だけでなく国内生産で賄うべく、湾岸アラブ諸国においてセラミック産業が勃興し、床材・壁材のタイル生産にはじまり、衛生陶器事業へと拡大していった。これは石油に依存しない経済多角化の取り組みのなかで数少ない産業育成の成功事例のひとつであり、隣国サウジアラビアではひと足早く1977年にSaudi Ceramicsが操業していた。1989年にはアラブ首長国連邦(UAE)のラアス・アル=ハイマ首長国でRAK Ceramicsが操業し(衛生陶器は1993年操業)、現在では地域を代表する二大ブランドとして成長している。クウェートにおいても、財閥家系企業であるGhanim Industry社系列として1989年にAQUASANが操業し、直後に湾岸戦争で打撃を受けたものの、1990年代の戦後復興需要と人口増加による住宅需要に応えるかたちで事業を拡大させてきた4。
1990年代以降、都市開発が急速に進む周辺国と同様に、クウェートにおいても、トイレをめぐる衛生陶器市場のシェア争いは海外ブランドの進出が相次ぎ、乱戦模様となっている。AQUASANは政府系事業の受注を堅く押さえたものの、民間事業に関しては、米国の二大ブランド(KOHLER、American Standard)と地場(近隣国)の二大ブランド(Saudi Ceramics、RAK Ceramics)が長らく市場を押さえていた。そこに節水機能と温水洗浄付き商品を引っ提げて参入してきたのが、TOTOとINAXであった。さらに2000年代以降になると、エコフレンドリーな製品の需要の高まりを受けて、GROHE(ドイツ)やRoca(スペイン)、Jaquar(インド)など多様なブランドが環境に配慮した技術を提供する高機能を訴求した製品を掲げて相次ぎ市場に参入し、高級路線・高価格帯製品で鎬(しのぎ)を削っている5。さらに、2020年以降は、COVID-19の感染対策からスマートトイレ機能やタッチレス技術を取り入れた製品が人気を集めており、技術の進歩とともに磨き上げられたトイレが、今日も白く光り輝いている。
トイレが語るもの
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- すべて筆者撮影
参考文献
- 前田裕子 2008.『水洗トイレの産業史──20世紀日本の見えざるイノベーション』名古屋大学出版会
著者プロフィール
石黒大岳(いしぐろひろたけ) アジア経済研究所地域研究センター中東研究グループ研究員。博士(学術)。専門は比較政治学、中東現代政治(湾岸アラブ諸国)。おもな著作に、『アラブ君主制国家の存立基盤』アジア経済研究所(編著、2017年)、『中東湾岸諸国の民主化と政党システム』明石書店(単著、2013年)など。
注
- “The disappearance of 1980s Kuwait,” Kuwait Times, 19 Oct. 2017(2024年7月22日閲覧)、保坂修司「『開発独裁が効率的』『脱炭素も進む』...中東の『民主国』クウェートで何が起こっているのか」『ニューズウィーク日本版』2024年7月17日。(2024年7月18日閲覧)
- 「ラウダタイン」は地元のボトル飲料水のブランド名にもなっている。
- Fanac Water, “Water Resources in Kuwait,” Kuwait Water Report, 24 Dec. 2020(2024年7月22日閲覧)、“Yokogawa to upgrade Shuwaikh desalination plant,” MEED, 15 Oct. 2009.(2024年7月22日閲覧)
- ドイツ製の製造機器を導入した中東最大級の衛生陶器製造プラントをミナ・アブドゥッラー工業地区に有しており、年間50万基を生産し、国内だけでなく20カ国に輸出もしているという(AQUASANウェブサイト)。(2024年8月16日閲覧)
- 主要ブランドのうち、INAXは2011年に日本国内の主要な建材・設備機器メーカーと経営統合してLIXILとなった(INAXブランドは存続)。LIXILは2013年にAmerican Standard、2014年にGROHEを買収し、両ブランドを傘下に収めている(LIXILウェブサイト)。(2024年8月16日閲覧)
- 第1回 中国の「トイレ革命」
- 第2回 日本――トイレではない。それは、便所。
- 第3回 インドネシア――日本を超える?隙のない清潔なトイレ
- 第4回 韓国──紙、流すべきか、流さざるべきか
- 第5回 トルコ──いにしえのトイレに思いを馳せつつウォシュレットの原型を体感せよ
- 第6回 ベトナム――奥深き農村トイレ文化
- 第7回 イラン――洗え、洗え、の爽やかトイレ
- 第8回 ウズベキスタン――トイレをめぐる新米研究者の冒険記
- 第9回 パキスタン――トイレへの(心理的)アクセスがない
- 第10回 中国──トイレから見える中国人の合理性
- 第11回 カンボジア──トイレは怖いところなのか
- 第12回 マレーシア――「郷に従う」ことの快適さ
- 第13回 タイ――洋式化と多様化の波
- 第14回 クウェート――略奪されたトイレ
- 第15回 フィリピン──普通のトイレを使うための障害者たちの知恵
- 第16回 ラオス――野糞の話しをしよう
- 第17回 台湾――トイレの文明化の現在地