IDEスクエア

コラム

アジアトイレ紀行

第17回 台湾――トイレの文明化の現在地

Taiwan: The present situation of lavatory civilization

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001386

2025年3月
(4,118字)

トイレに関する現地語講座

台湾で地下鉄に乗っていると、中国語と英語のほかに、ふたつの言語のアナウンスが耳に入ってくる(場所によってはさらに日本語も)。それが台湾語(閩南語あるいは福佬語とも言われる)と客家語である。このように、台湾では台湾語と客家語も主要な言語とされている。このほかに「原住民族(先住民族)」の多種多様な言語がある。

例文

  • [台湾語]
    “便所佇佗位?” piān-sóo tī tó-uī? ベンソォ ティトォウィ?:トイレはどこですか?
  • [客家語]
    "便所在哪位?" pien soˋ di nai vi? ピエンソォ ディナイヴィ?:トイレはどこですか?

以上の表記は、教育部「臺灣台語常用詞辭典」、「臺灣客語辭典」および客家委員會哈客網路學院 客語認証詞彙資料庫」に基づいている。 

ちなみに連載第1回のおさらいになるが、標準的な中国語では「厠所在哪裡? cèsuǒ zài nǎlǐ? ツウスオ ザイナーリ?」である。

トイレをめぐる文明と文化

この連載の第1回において、社会の変化を説明する要因として「文明」があり、変化しない要因として「文化」があることを指摘している。わたしはトイレに関しては、文明の力が強く働いているように思う。わたしが3歳から24歳まで暮らした家のトイレは長く和式であり、しかも汲み取り式だった。第2回の熊谷氏の経験と共通するが、わたしが住んでいた千葉県船橋市の住宅地ではほとんどの家が水洗式だったので、トイレというか便所は憂鬱な思い出である。汲み取り式のままだったのは、偏に父親がけちだったからである。父親は下水道が整備されたら水洗にすると言っていたが、大学に入って、下水道行政を鋭く批判していた環境工学者の中西準子さんの文章を読み、下水道の整備がいかにお金と時間がかかるかを知り、愕然とした。父親が亡くなると、母親は嘆きつつも、すぐにトイレを水洗式に変えてしまった。

わたし自身は24歳のときに実家を出て以来数十年、家も職場も洋式の水洗トイレだったので、今となっては和式、ましてや汲み取り式の便所を積極的に使う気にはならない。昨年、四国の田舎の駅で久々に旧式のトイレを使うことになり、改めて洋式水洗トイレの有り難さを噛み締めることになった。

台湾のトイレも、文明の力によって変化してきたようにみえる。今では日本と違うところはほとんどない。知るかぎり都市ではすべて水洗式である。公衆トイレでは洋式と和式(台湾の中国語では「坐式」と「蹲式」)が日本同様、依然として並存しているが、徐々に洋式の割合が増えているように感じる。こうした台湾におけるトイレの文化と文明化の今と昔を、自らの体験を交えながらみてみたい。

日本植民地統治期の台湾総督府の悪戦苦闘

1980年代後半に民主化が始まってから、台湾では台湾史の研究がさかんになり、そのなかにはトイレに関するものもある。とりわけ董宜秋「台灣『便所』之研究(1895~1945年)」は優れた論稿である。ほかにも沈佳姍「二十世紀前半葉臺灣漢人之清潔生活」といった労作もある。以下では主に「台灣『便所』之研究」にしたがいながら、日本植民地統治時代の台湾のトイレの状況と変容からみていこう。

1895年に清朝から日本に割譲される以前、台湾ではトイレは一般的ではなかった。前述のように、台湾土着の台湾語や客家語では、トイレを表す言葉として「便所」が使われている。これは日本語に由来していて、日本が台湾にトイレを持ち込んだことを示している。台湾語にはトイレを意味する言葉として「屎礐仔 sái-ha̍k-á サイハガァ」もあるが、これは日本植民地統治以前からある、穴を掘って板を渡しただけの簡便なトイレのことである。

台灣『便所』之研究」の冒頭では、日本が台湾を領有した直後、抗日活動の檄文に「立ち小便に対する罰金」が十の罪状のひとつとして挙げられていたことから語り始めている。つまり、立小便は至極当たり前のことだった。当時、都市部の男性は上述の「屎礐仔」を共同で用いることはあったものの、農村部では大小問わず、普通に野外で排泄していた。女性は寝室の片隅でお丸を使い、溜まると屋外に持って行って捨てていた。新たな支配者となった日本は文明化で先行していたので、この習慣を受け入れることはできず、台湾総督府は禁令を発した。しかし、反乱の鎮圧はできても、排尿・排便の習慣を改めることは容易ではなかった。

総督府がトイレの普及に本腰を入れ始めるのは1920年以降である。総督府は領有当初、マラリア、コレラ、ベストといった感染症の対策に追われた。これが1920年頃までに一段落したところで、腸チフスが残された課題として浮上した。腸チフスは排泄物を通して感染が広まるが、チフス菌は排泄物を一定時間密封して溜め置けば死滅する。総督府はこうした機能を持つ「内務省式」トイレを開発した。さらに、それを簡便にした「準内務省式」や、従来型を改良した「昭和式」が考案された。総督府はこうした近代的な改良型のトイレを普及することによって、腸チフスの感染を防止しようとしたのである。なお、これらはいずれも和式かつ汲み取り式で、洋式や水洗式はごくまれだった。

総督府はトイレの普及に尽力したものの、トイレの設置にはけっこうな費用がかかるため、なかなか広まらなかった。主な都市でトイレを持つ家は3分の1から2分の1にとどまり、しかも多くは腸チフスの予防に必要な改良が施されていなかった。台北市でも改良型の普及率は10分の1程度であり、他の都市ではさらに低かった。「台灣『便所』之研究」は総督府の政策の限界として、人々の衛生に対する考え方を変えられなかったことを指摘している。もっともこの評価は目標の達成度に基づいていて、やや厳しすぎるかもしれない。「臺灣漢人之清潔生活」は衛生への意識を含めて、日本の植民地時代に台湾のトイレに抜本的な変化が生じたとして、より肯定的にみている。ともあれ、この時代、経済的な制約とともに、文化の力がなかなか強かったとみられる。

1990年頃の文明化された寮のトイレ、そして現在

1945年に日本が戦争に敗れ、台湾は国民党政権によって統治されるようになり、その後の数十年の間に台湾のトイレはすっかり文明化されることになった。行政院主計處の統計資料によると、1981年には台湾の全家庭383万戸のうち、258万戸に水洗トイレが設置されていた。つまり、67.4%の家庭のトイレは水洗化されていた。特に都市の普及率は86.0%に達していた。

わたしは1989年から3年間、国立台湾大学に留学し、大部分の時間、その男子第4学生寮(「男四舎」)に寄宿した。寮のトイレは和式だったが、水洗式だった。都市では既にトイレがあることはもちろん、水洗式が当たり前になっていた。

とはいえ、掃除はされていたものの、寮のトイレは薄暗くて殺風景なところだった。並んだ大便所のいくつかは壊れて、使えないままになっていた。初めて使うとき、面を食らったのは、大便器の形が一つひとつ違ったことである。どれも歪んでいて、しかも歪み方が一様ではなかった。当時の台湾のアバウトさがトイレにも現れていた。

水洗式であったものの、洋式に慣れ親しんでいたわたしにとって、和式のトイレもすでに苦痛になっていた。時々、近くの大きなホテルに行って洋式のトイレで用を足すことで、ちょっとした安らぎを得ていた。

先日、およそ30年ぶりに寮に入ることができた。かつてはまったく無防備で、誰でも勝手に入ることができた。誰かが残飯をやるものだから、野良犬まで入ってきていた。しかし、今では入り口には鍵があり、許可なしに入ることはできない。

寮の外観は相変わらず素っ気なく、さらにいっそう古びていたが、中はそれなりに進歩がみられた。各部屋にエアコンが付けられたことは、外からも見てとれた。中に入ってわかったことは、まず洗濯機が揃っていたことである。わたしが住んでいた頃、洗濯機は各階に2台しかなく、通常は洗濯板を使っていた。シャワールームには、以前は横の仕切りはあったものの正面はオープンだったが、扉が付けられていた。盗撮があったからだそうだ。

肝心のトイレだが、壁や扉はパステルカラーで塗装され、こぎれいに明るくなっていた1。しかし、洋式の大便所はひとつだけ、後は和式のままだった。文化的な理由なのか、経済的な理由なのか、和式のトイレはなかなかしぶとい。

写真1 済南路からみた「男四舎」

写真1 済南路からみた「男四舎

現在の台湾に日本と異なるトイレ文化があるとすれば、大便での紙の捨て方である。第4回の韓国と同じく、かつての台湾では排水管が詰まらないように、尻を拭いた紙を便器に捨てることは禁じられていた。くずかごが置いてあって、そこに捨てることになっていた。台湾での暮らしのなかで、これはなかなか抵抗があった。寮のトイレは水の勢いだけはやたらとあったので、これなら大丈夫だろうと便器に捨てていた。

台湾の政府は21世紀に入って、先進国に合わせて使用済みの紙の捨て方を改めようとしている。環境保護署(現在の環境部。環境政策を所管する省庁)は2008年から、紙を便器に捨てて流すことを推奨する政策を始めた。特に2016年に発足した蔡英文政権で署長に就いた李応元は、積極的に政策を推し進めようとし、今の紙は流しても詰まらないと人々にさかんに訴えかけた。しかし、この習慣は簡単には改まらないらしい。環境部によれば、今でも半分以上の人が公衆トイレで紙をくずかごに捨てている(李浩宇 2023)。これに関しては、依然として文化の力が強いようだ。

衛生陶器メーカーの役割

1945年からわたしが暮らし始めた1989年までの40年余りの間、台湾におけるトイレの文明化の過程――どのようにしてトイレが普及し、洋式化や水洗化が進んだのか――はよくわからない。前掲の行政院主計處の統計資料によれば、1978年から1981年のうちに、水洗トイレの普及率は55.0%から67.4%に12ポイントあまり上昇している。この時期に水洗化が急速に進んだとみられる2。特に「城鎮(町)」での普及率の上昇幅が、都市や「郷村(村)」よりも大きかった。

台湾のトイレの文明化について、ひとつ言えることは、便器をつくる衛生陶器メーカーが重要な役割を果たしたことである。なかでもHCGの名でも知られる和成欣業は、以下のように台湾のトイレの文明化とともに歩んできた、あるいはその重要な推進者であった(和成欣業ウェブサイトおよび陳國順・郭珊妃1997)。その起源は日本統治時代の1931年まで遡る。陶器の街として知られる鶯歌で創業した。1941年には和式の汲み取り式トイレの陶製便器を製造している。

戦後になって、1949年には既に洋式かつ水洗トイレの便器の生産を行っている。1955年には白釉の焼成に成功している。1967年からは給水用の金具の生産も始め、陶製の便器やタンクと合わせて販売するようになった。1970年代に一時TOTOと技術提携するが、その後、自主開発を主とするようになった。設立以来、「和成製陶部」、「和成製陶廠」、「和成窯業公司」などの名称を使っていたが、1982年に和成欣業を正式の社名とした。

和成欣業は1982年、白以外の色の陶器を揃えたシャングリラ・シリーズをリリースした。1984年にはアルプス・シリーズの販売を始めた。このシリーズでは便器とタンクを一体化し、トルネード式の水流を取り入れた。これが和成欣業の製品開発のひとつの画期となったようである。1987年には第2世代、1991年には第3世代を発売している。

和成欣業は1994年には温水洗浄便座3付きのトイレをリリースした。1995年には節水型のトイレを発売している。台湾では元々は一回のフラッシュに15リットルの水が使われていて、政府は当時、これを9リットルまで減らすように基準を定めていたが、和成欣業が1996年に発売した製品は6リットルの水で済むようになっていた。その後も様々な電子的機能を取り付けたトイレを開発するなど、和成欣業は台湾の衛生陶器産業をリードしてきた。現在でも台湾において大きなシェアを持っているとみられる。

和成欣業のほかにも、凱撒衛浴など台湾地場の衛生陶器メーカーがある。1999年には、和成欣業が中心になって、業界団体として「台灣衛浴文化協會」が設立されている。

一方、日本のTOTOも台湾市場で存在感を持っている。上述のように、一時、和成欣業と提携したこともあったが、1987年に台湾に子会社を設立し(台灣東陶)、自ら製造と販売を行うようになった。TOTOは日本発の世界的なブランドとして、また日本で開発された技術を持ち込むことによって、ハイエンド市場で強い競争力を持っている。そもそも和成欣業が行ってきたようなトイレの革新の多くは、世界的にはTOTOが推進してきたものであり、台湾TOTOは機能や性能で一歩先んじている。写真2にあるように、そのショールームを訪れると、最新のトイレがずらりと並んでいる。

写真2 台湾TOTOのショールーム

写真2 台湾TOTOのショールーム
台湾のトイレの文明と文化の今後

現在の台湾のトイレ事情は、日本とほとんど変わらない。文明化の帰結として、いずれはまったく同じものになるのだろうか。それとも何らかの差異は残るのだろうか。着目点はふたつある。

ひとつは前述の使用済みの紙の捨て方である。日本人の感覚からすれば、はなはだ不衛生で不合理だが、台湾の多くの人は今も変えようとしていない。もうひとつが温水洗浄便座の普及である。温水洗浄便座は台湾ではまだ日本ほどは使われていないが、やがては日本と同じように広まるのだろうか。文明化の力と文化の抵抗力がどこで拮抗するのか、今後の推移をみていきたい。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • すべて筆者撮影
参考文献
  • 陳國順(受訪)・郭珊妃(記録)1997.「馬桶的身世――和成欣業在台灣馬桶開發史上的開發經驗及貢獻――(便器の変遷――和成欣業の台湾便器開発史における経験と貢献――)」『空間雜誌』(97) 123-126。
  • 董宜秋1999.「台灣『便所』之研究(1895~1945年)――以『便所』興建及汚物處理為爲主題――(台湾の『便所』の研究(1895~1945年)――『便所』の建設と汚物処理をテーマとして――)」(國立中正大學歷史研究所碩士論文)。
  • 李浩宇2023.「衛生紙丟馬桶,55%台灣人辦不到!環境部:公廁管線9成已更新『未來不排除移除垃圾桶』(55%の台湾人はトイレで紙を便器に捨てていない 環境部「公衆トイレの排水管の9割は既に新しくなっている。将来はくずかごを取り去ることも」)」『今周刊』LINE TODAY, 11月14日。
  • 沈佳姍2007.「二十世紀前半葉臺灣漢人之清潔生活――以身體清潔為主――(20世紀前半の台湾漢人の生活における清潔さ――身体の清潔を中心に――)」(國立臺北大學民俗藝術研究所碩士論文)。
  • 行政院主計處 各年版.『中華民國臺灣地區個人所得分配調査報告』。
著者プロフィール

佐藤幸人(さとうゆきひと) アジア経済研究所新領域研究センター上席主任調査研究員。博士(経済学)。主に台湾および東アジアの産業発展や台湾の経済と社会の関係を研究。主な著作として、『台湾ハイテク産業の生成と発展』(岩波書店 2007年)、『東アジアの人文・社会科学における研究評価-制度とその変化―』(編著 アジア経済研究所 2020年)など。


  1. 国立台湾大学のウェブサイトを参照。
  2. 残念ながら、この調査では1978年から81年までしか、調査項目のなかに水洗トイレがない。そのため、長期的な推移はわからない。
  3. 「温水洗浄便座」とは、TOTOの「ウォシュレット」やLIXILの「シャワートイレ」などのこと。