IDEスクエア
コラム
第12回 中国語――辞令から始まった語学修行
Chinese: A Language Journey Born of an Unexpected Assignment
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002002047
中兼 和津次
Katsuji Nakagane
2026年9月
(7,373字)
中国語を初めて学ぶ
私がアジア経済研究所(以下、アジ研)に入所したのは1964年、東畑精一所長の時代である。大学の卒業論文にBritish Colonialism in India という論文を書いたこともあって、アジ研ではインド、あるいはかつてのイギリス植民地地域の部署に配属されるものとばかり思っていた。だが、4月1日の入所式の後に受け取ったのは「中国経済の調査・研究をせよ」という辞令だった。「私は中国語なんてやったことはありませんが」と不満をぶつけると、「語学研修を受ければいい」と、突き放されてしまった。その日は「理想と現実」の落差を思い知らされ、暗然たる気持ちで帰宅したのを覚えている。
しかし今から考えると、嫌々ながら中国を研究のフィールドに選ばざるを得なかったことは、結果的に私にとってはよかった。その後師事することになった石川滋先生のような世界的中国研究者には、先生の強い期待に反してとてもなれなかったが、日本における中国研究、就中経済研究にそれなりの足跡を残すことができたのは、入所時のあの「辞令」のおかげだった。その後何年か経ち、大学の教師になり、ゼミの学生たちにはこの経験を基に「恋愛結婚が必ずしも幸せな人生を保証しないように、就職して意に反する職場に配属されても、すぐには辞めない方がいいよ」とよく言い聞かせたものである。
さて、本題である中国語研修についてであるが、中国語のイロハも知らない私は、同期入所の3人ほどの同僚、それに通産省から派遣されてきた2、3人の若手官僚と一緒に、東京外国語大学中国語科の長谷川寛教授の指導のもと、初級中国語を学び始めることになった。どのようなテキストを使ったかはっきりした記憶はないが、少なくとも大手出版社のものではなかったのは確かである。そのテキストを1日1章ずつ先生の発音指導と文法解説とともに進んでいくのだが、半分ほど進んだところから発音部分は私が担当することになってしまった。実は後でわかったのだが、長谷川先生の中国語の発音には独特の癖があったため、先生は比較的正確に発音できた私に任せようと考えたようである。その頃までには自宅で中国語のテープを何度も、飽きるほど聞いて勉強しており、女性の、甲高い声の中国語が「鳥のさえずり」のような美しさに聞こえ、次第に中国語に魅了されていった。
「好きこそ物の上手なれ」というが、語学もそうだと思う。街を歩き、電車に乗り、眼にした広告・看板を片っ端から中国語で発音していった。もちろん、すべての漢字の発音がわかっていたわけではなく、わからない字があれば辞書で調べて意味と発音がわかる語彙数を増やしていった。たとえば、「松下電器株式会社」はSong(1)xia(4) Dian(4)qi(4) Zhu(1)shi(4) Hui(4)she(4)(カッコ内の数字は四声を表す)と読むが、「株式会社」は日本語で中国語にはない(中国語では股份有限公司という)。しかし、日本の看板・広告に繰り返し出てくるこの種の語彙の発音がわかれば、「株・式・会・社」という単語の中国語を発音し、読むことができるわけである。こういうやり方で、中国語で発音できる語彙を増やしていくうちに、2、3カ月もすると、『人民日報』などの新聞・雑誌を頭の中で発音しながら(もちろん、辞書片手ではあるが)読み進めることができた。
当時の中国が発する文字情報は今とは大違いで、党や政府の機関誌にほぼ限られ、そのほかに『北京週報』や『人民中国』といった日本語による中国紹介雑誌があるくらいだった。経済研究の中でも「権威のある」中国科学院経済研究所(現・中国社会科学院経済研究所)発行の『経済研究』も、1966年の文化大革命開始とともに停刊となってしまった。そこで、1950年代に出版された各種の経済雑誌を中心に、どうにか必要な情報を集めるという、今から考えると相当無理な作業をしていたといえる。石川先生を主査として始まった「中国経済の長期展望」プロジェクトに加わり、「中国の消費構造」の推計を研究課題として先生から与えられ、来る日も来る日も、ときには土日も出勤して『人民日報』や各種経済雑誌を隅から隅まで読み、少しでも消費に関わる情報がないかと探し回ったものである。こうして、社会科学文献の中国語の読解力が自然に身についていったのだと思う。
会話能力と自分の能力に対する過信
しかし文章は読めても会話は全くだめで、調査研究部中国班の先輩連中が中国語で香港や台湾での思い出を語り合い、大笑いしていても、ポカンと聞いていただけだった。入所して数年経ち、海外派遣で香港に行くことになり、そこではじめて中国語会話の勉強を始めた。アルバイトに来ていた東京外国語大学中国語科の学生の紹介で、当時、中央大学の非常勤講師をしていた水世嫦という、燕京大学英語科出身の先生につき、彼女の家に通って2カ月ほど基礎的な中国語会話を勉強したことがある。彼女は日本語をあまり使わなかったため、初めは英語を使って中国語会話を学ぶというやり方で行われた。が、少しずつ中国語も使えるようになると、中国語で中国語の会話表現の仕方を学べるようになった。たとえば、「この事は中国語で何といいますか」から始まり、「別の言い方でいうと、どういうのですか」など、初学者にとって絶対必要な基本的中国語会話を習得するようになったのである。
2カ月ほどの基礎中国語会話を学んで、香港に旅立ち、アジ研の先輩である小島麗逸氏から、のちに亜細亜大学学長を務めた衛藤瀋吉氏をはじめ、香港在住の多くの日本人を教えた経験のある王兆麟先生を紹介された。香港に着いた翌日に早速王先生に電話し、生まれて初めて中国語でこちらの趣旨を伝えたら、なんと通じたのである。しかも「何月何日どこでお会いしましょう、私はこういう格好をしていきます」という先方の中国語も聞き取れた。もちろん、指定された場所と日時でお会いすることができた。その翌週から、週2回、私が住んでいた香港大学のRobert Black Collegeという外国人用の宿舎に王先生に来てもらい、中国語の個人レッスンを受けることが決まった。後でわかったのだが、王先生は日本人相手に教えた経験が長く、どのようにいえば日本人が理解できるか、非常に易しい中国語を使ってくれていたようであった。したがって、王先生の中国語がよくわかったとしても、それは必ずしも生徒の中国語能力が向上したとはいえないのである。私はこれを「王マジック」と呼び、私もこの「マジック」に引っかかっていたのではないかと今では考えている。
その後は、中国人の一家と共同生活をしていたことがあった。詳しい経緯は省くが、香港のとある語学学校の中国語教師であった陳先生がマカオで消息を絶った。家賃の足しにするため、空いている部屋に下宿人を迎えたいという陳夫人(陳太太と呼んでいた。「太太」は、中国語で「妻」「奥さん」「既婚女性への敬称」を意味する)の希望が私に持ち込まれたのである。私も中国人の、とくに北京人の家に下宿したいと考えていたので、「渡りに船」とばかりにRobert Black Collegeから引っ越すことになった。
それから約1年、その家で寝起きし、陳太太家族と一緒に食事し、ときには郊外にピクニックに行ったが、その間、中国人の考え方や生活様式など、いろいろ学ばせてもらった。夫の消息がわからなくなり、事実上「未亡人」になってしまった陳太太を慰めようと毎晩のように彼女の友人や陳先生の同僚たちがやってきて、ときには上海訛りの、ときには天津訛りの中国語を聞くことができた。そういう人たちを通じて彼ら、彼女らの大陸での様々な経験談を聞くことができ、大変有意義な中国語の練習機会となったものである。
陳太太は戦前、北京の病院で薬剤師をしており、革命後に天津で個人の薬局を開いたそうだ。そのときに可愛がっていた若い店員が、いわゆる「五反運動」(1952年)なるブルジョアジーに対する政治的粛清運動が始まると、先頭に立って彼女をつるし上げたそうで、そうした中国現代史の生々しい事実も彼女が教えてくれたものである。失踪した陳先生であるが、彼は文革で中国国内が混乱しているのを機にマカオからこっそり入国し、親しい友人に会いに広州に行ったところ、紅衛兵に捕まってしまい、その後長期間監禁されて、最後は病死したといわれる。死の直前に香港の家族にも連絡が入り、家族は文革末期の北京で彼の最期を看取ったと、1974年に私が香港に行った際に陳太太から聞いた。
そうした陳太太一家との交流、語学学校での授業、また王先生との個人レッスンを積み重ね、香港着任当時に比べれば私の中国語読解力と会話能力は大きく向上した、と自分では自信をもっていた。中国人と対等に会話し、ときには議論し、自分の中国語能力が中国人並みになった、と錯覚さえしたものである。それが錯覚であったことを後に現場で思い知らされることになる。
通訳の苦い記憶
当時大陸では文革が荒れ狂い、大陸に調査に行くなど夢のまた夢で、香港での情報入手が限られていたことから、残る半年間の任期を台湾に行って台湾経済研究にでも活用しようと考えた。1969年秋に台北に移動し、そこでも台湾大学の中国文学専攻の学生を雇い中国語を学ぶ、というよりは共産党に関する議論ばっかりしていた。有名な政治家になる前の李登輝氏(当時、アメリカの援助でできた農業復興委員会の主任研究員)と石川先生の紹介もあって知り合ったのもその頃である。
1970年3月に帰国し、石川プロジェクトの残務整理のような仕事に携わった。1974年に農林省の方から中国語のできる職員を1人出してほしい、という依頼がアジ研の方に来た。というのは、同年秋に北京で農業技術交流会が開催され、日本から10名近くの農業技術者を北京に送り、「中国側と交流」したいので、その団長の通訳が欲しいというのである。私は農業技術に詳しくないので、「具体的に何をするのですか」と尋ねた。すると、「歓迎宴が何回かあるはずだから、そのときの団長の挨拶を中国語に訳してくれればいいだけだ」とのこと。それなら簡単で、前日に団長から挨拶の原文をもらい、それを試訳し、近くにいるネイティブの中国人に見てもらえばいいだけだと了解し、通訳を引き受けることにした。
生まれて初めて公式行事における通訳をするわけであるが、実際やってみると赤恥をさらすような大失敗をしてしまった。実際の宴席で恒例通りの中国側、日本側の責任者挨拶が行われ、日本側団長の挨拶が終わると私が立ってその訳文を読み上げ始めたのであるが、直前まで翻訳文をいろいろ修正し、前後左右を入れ替えたりしたために、動詞がどこへ行ったのかわからなくなってしまい、なんと動詞抜きの、前後が合わないようなひどい挨拶文を朗読することになってしまった。日本側関係者に中国語のできる人は誰もいなかったが、中国側の人たちはわかっていたはずで、彼らには「なんでこんな通訳を日本側は連れてきたのだろう?」と、陰口を叩かれていたかもしれない。
これというのも、私の中国語能力に対する過信、より正確には自信過剰から生まれたミステークで、この件があってから私は公的通訳の仕事は一切行わないことにした。ただし正確には、それから20数年後の日中経済学者交流の会で、突発的事情によりやむを得ず私が日本側の団長通訳をさせられたことがあったのだが。
中国語(外国語)初学者のための7カ条
毛沢東時代が終わり、1978年頃から本格的に日中交流が始まり、私は中国農村調査プロジェクトを組織し、そうした機会を利用して何度も中国農村に行き、また学生たちを連れて学生交流活動を進め、その間何度も中国の機関や組織(とくに大学)で中国語による講演を行った。そこではとくに中国語で大失敗した経験はないが、年を取り、冷静に自らの中国語学習経験と能力を判断してみると、次のようなことがいえるかもしれない。ここで中国語を含む外国語習得のための私の経験と実感に基づく7カ条を、後進のために書いておきたい。なお、これは決して普遍的な、あるいは教育科学的知見に基づいたものではないことを、あらかじめ断っておく。
【第1条】中国語はフランス語と並んで世界で最も美しい言語だと以前聞いたことがある。しかしどの言語も固有の美しさがあり、これから学習する言語が「汚い」とか、耳障りだと考えないことが外国語初級者にとって学習の第一歩となる。私は大学時代ドイツ語を第2外国語に選び、すべて「優」の成績だったが、ある日突然ドイツ語嫌いになってしまった。その原因の1つはドイツ語にG(g)(ゲー)が多く使われることにあった。というのも、動詞の過去分詞がgで始まることが多いからである。たとえば行く(gehen)の過去分詞はgegangenである。しかし「ゲー」という音を汚く感じるのはドイツ人とドイツ語に対する偏見ではなかったかと、今では思っている。音も、あるいは文字も、自らの美的判断はひとまず横に置いて、虚心坦懐に外国語に触れることが肝要だ。
【第2条】英語もそうだと思うが、1対1で会話して相手のいうことが理解できても、数人が交わしている会話に加わり、そこで話されていることを理解するのは、必ずしも容易ではない。それは1つには話題が自分にとって無関係な場合があり、知識に差が出てくるからであるが、もう1つは相手が自分の外国語能力に合わせてくれるかどうかにも関係している。上述した「王マジック」のように、日本人をよく知っていて、わかりやすい中国語を話してくれる人がいるとき、その人のいうことがわかったとしても、自分の能力が上がったと過信してはならない。
【第3条】これは香港大学の語学学校で経験した失敗談であるが、休み時間に(西)ドイツの外交官(彼も中国語を勉強しにきていた)が英語で質問してきたことがある。質問の内容が最初よく理解できなかったのだが、いつもの癖で首をときどき上下に動かしながら、聞いていると、突然彼は「君は理解していない」と面と向かって私に言い放ったのである。欧米人にとってうなずくこと(nodding)は理解、承諾の意思を示していることにもなるので、日本語のように軽く「なるほど、ふんふん」と相槌を打つことではない。よく聞くと、彼の質問は夏休みに日本に遊びに行くが、新幹線の切符を香港で買えるかどうか、という単純なものだった。
【第4条】これは中国語の問題だが、初学者が中国語学習で最初に躓きやすいのが「四声」と巻舌音ではなかろうか。その関門さえ抜ければ、あとはしばらくの間順調に学習が進んでいくはずである。私も最初は二声と三声の区別ができず、苦労した経験がある。この関門を過ぎると、前鼻音と後鼻音の違い、たとえばkang とkan、ping とpinの区別の関門が現れるが、これはあまり気にする必要がない。中国人でも、とくに南方の人はこの発音の区別が多くはできないが、普通に会話はできている。
【第5条】第4条の延長であるが、発音の正確、不正確を気にせず、下手でもいいからがんがん会話を試みた方が、早く中国語(あるいは外国語)を習得でき、発音も次第に修正されていくようである。頭の中で構文を組み立ててから発音するようだと取り残され、結局せっかくの学習機会を失うことになってしまう。
【第6条】外国語学習において最も重要なことは、発音や文法が正しいかどうか、あるいは格好よく、俗にいう流暢に話せるかどうか、ではないと思う。石川先生や東畑先生の英語を何度か聞く機会があったが、話す中身が相手を引きつけられるかどうかこそが、会話において一番肝要なことではなかろうか。
とくに石川先生は、私が聞いた限り、一般にいう流暢な英語とはいえなかったように思う。しかし、パーティで彼の周りには何人もの外国人研究者が集まってくる。下手でもいいから自分の意見を積極的に海外の友人たちに披露し、「一知半解」でもいいから彼らの会話の中身に入り込んでいく。そうした勇気こそが、いつの間にか外国語能力の向上をもたらし、それ以上に大事な、お互いの胸襟を開いて語り合える友人作りに役立つはずである。
私が中国語を勉強して間もない頃、教科書に出てきた中国語の諺に次のようなものがあり、実際自分でもよく使ったものである。「天下無難事、只怕有心人」(志あれば世に難事なし)。
【第7条】今では中国語検定試験があり、自分の中国語能力を客観的に測ることができるが、私が中国語を勉強していた頃にはそんなものはなかった。だからついつい自分の能力を過信してしまったのかもしれない。今振り返ると、私の中国語能力はせいぜい「中の上」程度だったと思う。年を取り、現役を退いた今、それはさらに中の中程度か、それ以下に下がっているような気がする。
外国語能力の「中」と「上」の差はどこにあるのだろうか? 典型的には映画を見て字幕に頼らないで基本的に内容を理解できるかどうか、に表れているように思われる。香港にいたとき、何度も中国語学習のために中国語の映画を見たが、ついつい字幕を見てしまい、それに頼っていた。お金を支払ったのに内容がわからないのでは癪だったからである。中の中程度の能力があれば十分普通の会話ができ、講演もできる。しかしもう一段階上に行き、深く中国語が理解でき、使えるようになれば、もっと新しい景色が見えたはずであり、そのためには努力を積み重ねていくべきであろう。
私が中国人と中国語で会話しているとき、いつも自信を失うのは相手が「中国話有一句」(中国語にはこういう言い方がある)といってその続き――それは成語(4字から成る慣用熟語)であったり、諺であったりする――を述べて、話を展開していくことである。中国語をかじった人ならわかるが、中国語の成語の数たるや膨大なものがあり、それはいわば4千年の歴史の縮図のようなものである。言語は交流の手段であるとともに、文化と歴史の集積であることを中国語を通して思い知らされた私である。
【好きなフレーズ】
1つは本文にも書いたが、「天下無難事、只怕有心人」である。これは次のようにもいう。「天不怕、地不怕、只怕有心人」(天も恐れず、地も恐れず、志ある人を恐れるのみ)。
もう1つは、私の著書『毛沢東論――真理は天から降ってくる』(名古屋大学出版会、2021年)の「はじめに」にも書いたのだが、「初生之牛犢不怕虎(生まれたばかりの子牛は虎をも恐れず)」(日本語の諺でいう「盲人は蛇をも恐れず」に相当)である。私にとってこの諺の含意は、「われわれは権威や既成観念に捕らわれない研究者でありたい」、というものだ。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
著者プロフィール
中兼和津次(なかがねかつじ) 1942年、北海道に生まれる。1964年、東京大学教養学部卒業。アジア経済研究所調査研究部研究員、一橋大学経済学部教授、東京大学大学院経済学研究科教授、青山学院大学国際政治経済学部教授等を経て、現在、東京大学名誉教授(経済学博士)。おもな著作に『毛沢東論――真理は天から降ってくる』(名古屋大学出版会、2021年)、『中国経済発展論』(有斐閣、1999年、アジア太平洋賞・大賞・国際開発研究大来賞)、『中国経済論――農工関係の政治経済学』(東京大学出版会、1992年、大平正芳記念賞)など。
- 第1回 カンボジア語――出会いに支えられた語学習得への道
- 第2回 ビルマ語──外部者として地域研究するということ
- 第3回 日本語──ラオス生まれの私が「世界一難しい言語」と向き合って30年
- 第4回 インドネシア語──および関連諸語との悪戦苦闘
- 第5回 ヒンディー語――黒い文字と水牛
- 第6回 中国語(台湾)──言葉を学びながらつくる繋がり
- 第7回 ベトナム語──人見知りに自己批判を促す言語
- 第8回 ポルトガル語(アフリカ)──スマホを捨てよ、遊学に出よう
- 第9回 フランス語(アフリカ)――遠くにつれて行ってくれた言語
- 第10回 アラビア語(イラク)――「田舎のアラビア語」ですが、なにか
- 第11回 アラビア語――現地よりもテクストで汗をかく
- 第12回 中国語――辞令から始まった語学修行
