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コラム
第9回 フランス語(アフリカ)――遠くにつれて行ってくれた言語
French (Africa): the Language that carried me far in life
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001495
2025年9月
(7,587字)
消極的な出会い
東京の大学から届いた入学手続き書類のなかに、第二外国語の登録申請用紙があった。選択肢はフランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語。どれも未知の言語の魅力いっぱいだ。だが決め手がない。スペイン語があればな、とないものねだりをしてしばし、じゃあスペイン語に一番近い言語にするべと決め、用紙にボールペンで「フランス語」と書いた。積極的なものとは言い難いこの出会いが、自分をはるか遠くアフリカにまでつれて行くことをそのときのわたしは知らない。
語学重視の文学部のため第二外国語の授業はしっかり週4コマ。アー、ベー、セーという文字の読み方から始まり、16ある母音、喉でうなるような特徴あるrの発音、複数の母音字が組み合わさったときの読み方、読まない綴り字など、まず音関連が鬼門だ。さらに文法は覚えねばならない事項が多く、動詞は6つの人称、時制、話法ごとに異なる活用をし、活用のパターンは86もある。名詞、冠詞、形容詞の性と数を一致させねばならないのも難題である。
五月病をこじらせて鬱々としていたわたしは、梅雨の頃には学習意欲を失い、授業についていけなくなった。やがて通学もままならない状況に陥ってしまい、なかば引きこもるような生活は夏が終わり、秋から冬へと季節が移り変わっても続いた。1年次の4コマ分の単位が取れたのは奇跡だったが、フランス語学習が実を結んでいるとは言い難かった。
出会い直す
バイトをしなければという気持ちにかられたのと、大学のカウンセラーに相談していざとなったら医療にかかればよいと言ってもらったこと(自分でけりをつけなくてもよい)をきっかけに徐々に生活が立ち直りはじめ、新年度からのフランス語の授業にはすべて出席すると決めた。予習、出席、宿題を地道に続けるうちに授業に追いつき、内容の理解度が上がっていった。すっかり面白くなってしまったわたしは、夏休みにフランス語の授業がないことに飢餓感を覚え、語学学校の夏季講習を受けることにした。
水道橋の日仏学院の募集は締め切られていたが、御茶ノ水のアテネ・フランセはまだ申し込みができた。読み書き聞き話すを総合的に扱う『新サン・フロンティエール』Le Nouveau sans frontièreという教科書の中級レベル版を使い、5人の受講生でケベック出身の先生に教わった。当てられる順番がどんどん回ってくる。自分の発音を聞いてもらい、伝わる、伝わらないがすぐにわかるのがよかった。単文を書いていく宿題を添削してもらえるのも嬉しかった。
学ぶ理由
アテネ・フランセのクラスにはハープ奏者を目指している同年代の女性がいた。受講は留学の準備なのだそうだ。法学部に通う男性も留学志望だと言う。1980年代末の当時、留学や長期海外放浪に行く人が周りに続々と現れてきていたが、自分にはあまりそういう願望がなかった。
にもかかわらずフランス語に熱中していたのは奇妙な話だが、今思い返すと、当時のわたしには、外国語の文章からさまざまな情報が読み取れることが単純に面白かった。都心はあちこちに洋書専門店があり、田舎育ちの自分にはそれは率直にキラキラした存在で、フランスの週刊誌や新聞をあれこれ立ち読みし、気に入った記事が載ったものを買って帰り、文法を読み解いたり、意味を考えたりしながら、10行を1時間ぐらいかけて読むことが好きでよくやっていた。ぜんぜん先に進まない、ねちっこい読書である。いや、読書と呼べるのかあやしい。むしろ解読である。そういった一連の行動が当時の自分には新鮮で楽しかった。
職を得る
卒論はフランスの移民問題について書き、同じ研究テーマで別の大学の修士課程に進学した。同級生と読書会を組織し、ブローデルやフーコーといった有名どころの原書を取りあげて、難しくてよくわかんないなどと言いながら、訳を考えたりあれこれ議論(し飲み会を)するのが楽しく、ここでも文献大好きの調子は変わらなかった。
その大学院は修士課程までしかなかったため、2年になるとすぐ進路の問題に直面した。さらに別の大学院の博士課程に進学してフランス研究を続けようか。そう相談したわたしへの(ゼミに潜らせていただいていた女子大の)先生の回答は、「フランス研究者はもうたくさんいるからね、やめておいた方がいいよ」。なんと、フランスに行きたしと思ったときにはもう遅かった。
違うテーマならばどうだろう。指導教官に相談してみた。フランス研究に限らず、どの分野でも就職は厳しいよね、そうなる覚悟があるなら博士課程に行けばいいけど、どうなるかわからないよ、という回答。博士課程にも行きたしと思ったときにはもう遅かった。
だが、偶然の巡り合わせはあるものだ。指導教官とのその面談の席でのこと、着信した外線電話を指導教官は取り、相手とひとしきり話し、それから受話器をもったまま、こちらを振り向き、「お前、アジ研受けたら?」と提案した。電話の相手は指導教官のゼミの卒業生で、その「アジ研」に勤務しており、アフリカ研究の部署でフランス語ができる人を採用する計画があるので、誰かいたら受験を勧めてください、とのことだという。「アジ研」もアフリカ研究も未知の世界だったが、フランスにも博士課程にも行きそびれたわたしにはなんの不安もなかった。
筆記試験、グループ面接と通過しての最終面接。面接官から「メイヤスー読んだことあるか?」と質問された。アフリカでのフィールドワークに基づいた考察を展開した経済人類学者のクロード・メイヤスーのことである。幸い指導教官に紹介されて邦訳を読んでおり、どんな原文なのか知りたくて、原書も読んでみていた。「あります、原書で」と答えたわたしに面接官は意外! という顔をし、うなずくような仕草をしてから黙った。読んでるならまあいいと思ってくれたのだろうか、追加の質問はなかった。あのやりとりが何かのきっかけだったのかどうか、そのときの面接官には聞かずじまいだ。
フランス語漬け
アフリカ総合研究プロジェクトチーム勤務を命ず、という辞令とともに私のアジア経済研究所でのフランス語を使った職業人生が始まった。担当はフランス語圏西アフリカである。長老格の研究者は、「海外派遣が終わるまではとくに原稿を書く必要はなく、ゆっくり勉強してくれればよい」と言う。海外派遣とは、入所3年目ぐらいの新人が途上国の現地に2年間行かせてもらえるこの研究所の制度だ。ということは修士新卒で入所したわたしの場合、30歳ぐらいまで何も書かなくてよい計算だ。しかし、なにぶん「30歳以上は信じるな」の精神でやってきた身であった。のんびりペースなどとても無理である。大人の言うことには耳を貸さず、ひたすら勉強することにした。
フランス語圏からの海外来訪者や客員研究員はほとんどおらず、研究所内でフランス語を話すことはほとんどなかった。とにかく文字を読むことに非常に偏重したフランス語漬けの生活がわたしの研究所生活となった。研究対象は同時代のアフリカの情勢なので、新聞や週刊の雑誌をとにかくまめにチェックするのが仕事の中心である。インターネットが普及する前の時代なので、チェックするのは紙媒体である。
研究所で購読していたフランス語の新聞には、フランスの『ルモンド』Le Mondeとコートジボワールの『フラテルニテ・マタン』Fraternité matinがあった。この両紙を毎日資料部から借り出し、大事な記事のコピーをストックし、時間があればひらすらそれを読んでいく。わからない単語も多いので辞書を引き引き読んでいく。ワープロでメモも取り、時系列順の日誌やテーマ別の文書にまとめる。週刊誌はフランスで刊行されている『ジュンヌ・アフリック』Jeune afriqueをはじめとする数誌を新聞同様にチェックし、記事のストックを作っていく。歴史的背景などは研究所の蔵書で文献を探して調べる。並行して、学術誌の新着号をチェックして研究動向について学ぶ。英語のものもあるが、大半はフランス語である。『フラテルニテ・マタン』は研究所がマイクロフィルムをもっていたので、1970年代や80年代に遡っての新聞読みもできた。読んでも読んでも果てしなく終わらないフランス語読みの毎日である。
「のろい」
しかし、今にして思えば、当時はアフリカ研究を始めたばかりで、本を読めばとにかく知らないことだらけ。関心が惹かれる事柄ならばすいすい読めるが、そもそも関心に沿っているものかどうか判断できない(判断するための知識がない)ものもあり、そういう本に限って読みづらい文章だったりする。読書の作業はしばしば砂を噛むようであり、耐えきれずに途中で放り投げてしまった本も多い。専門に学んできたとはいえ、日本語はもちろん、英語よりも読解能力が落ちるフランス語では、読書のスピードはのろくなる。のろく、はかどらない読書では、学生時代の「解読」に知らず知らずと横滑りしがちであった。これによりさらに読解スピードはのろくなった。
その当時研究所の若手の間では、海外派遣先に先進国を選択する人が増えてきていた。大学院に在籍して博士号の取得を目指す計画である。海外の大学院はとにかくコースワークがきつく、毎週たくさんの文献読みを課されるという話をよく聞いた。その度に自分のこの読書スピードでは到底ついていけないだろうと悲観した気持ちになったものだ。自分は留学志望ではなかったが、たくさんの文献を読みこなしていくことは研究の基本メソッドであり、留学に行かずとも、日々の文献読みの机の前で常に試されていることに違いない。出かける前から負けてるよなあ、との思いがちらちら頭をよぎりつつ、またしても気になる単語調べや文法チェックに横滑りしていく日々であった。
アフリカへ
入所2年目ではじめて短期の海外調査に行かせてもらえることになった。行き先は、フランス、コートジボワール、セネガル。期間は1カ月。同行者はなく、単独行である。行けるとは思わなかったフランスについに行くだけでなく、それを飛び越えてのアフリカ大陸行きである。生まれてから一度も飛行機に乗ったことがなく、まして海外に行ったことのない人間にとってはかなり歯応えがある内容だと今にしても思うが、この研究所の研究者の旅はたいていこういう感じらしい。「生きて、無事に過ごして帰ってくればそれでいいよ」と言われて諸先輩に送り出され、無我夢中で過ごして、そして、帰ってきた。
フランス語はなんとか通じるものである。話している最中は無心で話しており、果たして通ずるものかどうかまったく心許ないのだが、自分が言った内容に対してきちんと応答が返ってくるのでほっとした。文献読みの「のろい」で苦しめられた身にとってこれは大きな救いであった。
その後に海外派遣先として過ごすこととなるコートジボワールのフランス語は、日本での学習で覚えたフランス語が問題なく通じる。発音には少し特徴がある。-enという音節での鼻母音(フランス語に特徴的な鼻から抜く発音)の音がオよりはアに寄った音に、-ainという音節ではアよりはエ寄りの音になる(「百cent」がはっきりした「サン」に、「パンpain」が「ペン」になる)。最後に子音がなくeで終わる音節でeをしっかり発音する(「小さいpetit」が「ペティ」となる)。これらの特徴を併せもつ単語の「明日demain」は「デメン」と発音される(フランス語学習における標準では「ドゥマン」となる)。日本のフランス語学習者の泣きどころであるrの発音は巻き舌発音である。国名のコートジボワールは、素早く「コディヴァー」と発音される。
表現にも独特のものがあり、かなりくだけたあいさつ(日本語だと、出会い頭の「どうよ〜?」みたいな感じ)の「オンディコワOn dit quoi?」(直訳すると「みんな何言ってんの?」)がやはり特徴的である。日本人のわたしがこの表現を使うとなぜかうける。いとまを告げる時の「サンヴァ!」という表現をはじめて聞いたときは戸惑ったが、どうやら「S’en va」と言っているらしい。これは三人称単数の動詞活用で主語が省略された表現である。三人称単数のままで主語を文法的に正しく補うと、「みんな帰ろうか」(On s’en va)という呼びかけ、もしくは「彼・彼女は帰ります」(Il/Elle s'en va)の意味になるのだが、この場合は、一緒に帰るわけではなく、発言者その人だけが帰る(つまり一人称単数の)局面で使われているのである(ちなみに一人称単数の活用形ではJe m'en vaisとなる)。この表現はいまだに使ったことがなく、使いこなせる自信はない。
公文書館
コートジボワールでのわたしの調査フィールドは公文書館だ。1960年に独立したばかりのこの国の政治経済のあり方は植民地時代の強い影響を受けており、わたしの専門である政治史の観点からも植民地期の分析は欠かせない。コートジボワールの国立公文書館は最大都市アビジャンの中心部の首相府の敷地内にある。自動小銃を構えた兵士が詰めるゲートを通るときは緊張するが、敷地内では職員が熱帯の日差しの下、木陰で休憩していたりとのどかだ。公文書館は平屋建ての簡素な建物で、閲覧室にはいると、コートジボワール人の学生が論文執筆のための調べ物を黙々と行っている。わたしもその中にまじって植民地行政官が残した文書を読んでいく。
総督府からの通達の写し、タイプ打ちの報告書の下書きと上官の手書きの書き込み、手集計した一覧表、電報の写し。公印が押された文書には、論文に登場する著名な行政官や政治家の手書きの署名が付されていることもある。「親展Confidentiel」や「秘Secret」の判が押されたものには、微妙な案件に関する補足説明が記されている。20世紀はじめの文書では、しばしばカーボンコピーの色がうすぼんやりとなり、タイプ打ちの文書はしばしば文字がそのまま穴になっていたりして、判読が難しい。さまざまな書類がフォルダに雑然と束ねられている場合もあり、全部広げて中身を確認しないことには、書類同士の関係がよくわからない。フォルダひとつ分の中身をようやく理解してはじめて、自分には必要ないとわかったりする。そのような作業を繰り返すなかで「当たり」がある。文法や単語の勉強とは異なるが、これもまた一種の「解読」の作業と言える。
植民地支配を行ったフランスが残した文書であるので、書類は、時折まじっている英語文献の写しなどを除けば、すべてフランス語である。その文書を読むことは、植民地統治が実際にフランス語を使って行われていたことの再発見でもある。公文書館の調査は、長距離の飛行機を乗り継いで史料と物理的に対面するという多大な手間と時間をかけてはじめて実現するものであり、フランス語を使う機会としては贅沢の極みとも言えるものだが、そこで知るものが植民地支配の現場であることに背筋が寒くなりもする。
ある日、植民地行政府に衛兵として雇われたアフリカ人男性の身元照会書類をみた。そこには、彼の第一次世界大戦での従軍歴や、帰国してから転々とした職歴がひとつひとつ記されていた。史料をみながらその男の人生に思いを馳せ、しばし呆然としてしまった。
冷や汗まみれ
フランス語と出会って40年になろうとしているが、ふりかえってつくづく思うのは自分の語彙の偏りである。コートジボワール滞在中、大家から部屋に「カナペ」がほしいかと聞かれた。パーティー料理のカナッペか、でもなんで今? と不審に思っていたら、なんのことはない、「ソファcanapé」である。料理のカナッペと同じ綴りの単語だが、わたしはソファの意味を知らなかった。また、こんなこともあった。車の点検が終わったところで整備士が「ヴォランを取ってください」と言う。ヴォランてなんだと3回聞き直し、ついに「ハンドルvolant」だと知った。つまり、「ハンドルを取ってください」=「試運転お願いします」と言うのである。canapéもvolantも日本で刊行されている学習仏和辞典ではだいたい上位3000語レベルの重要単語とされている。お寒い限りである。
かと思えば、同じくアビジャンでのフランス語の先生との会話でのこと。コートジボワールの人々には物事を遠回しに言う傾向があるような気がすると先生が語ったのを受けて、わたしが「婉曲話法circonlocution」なんですねと返したら、あなたどこでそんなレアな単語覚えるの! と先生から驚愕された。『モバイル版ロベール・ディクセル仏語辞典』Le Robert Dixel Mobileによれば、この単語の出現頻度は100万語あたり0.5回だそうで、先述のcanapé(同17.3回)、volant(同22.3回)とは桁がふたつも違う。日常の基本単語は知らないのに、文献にしか出てこないような単語はなぜか知っているわけである。
むかしカヌーイストの野田知佑氏がギリシャを訪問したとき、大学時代に勉強した古典ギリシア語で人に話しかけたら、なんでおまえそんな話し方するんだとゲラゲラ笑われたという話がある。自分が話すフランス語もそんなおかしみをたたえたものなのではなかろうかとの不安は常にある。せっかくの長い付き合いであるフランス語にそのような不安を抱えたまま人生終盤を生きるのは辛いので、何かお墨付きにと50歳を目前にして実用フランス語検定(いわゆる仏検)に真面目に取り組んでみたが、めでたく1級の免状を(一回落ちた末に)もらえてもなおこの不安は消えないものである。自分がフランス語をマスターしているという感覚は40年を経てもなお乏しい。使う度不安にさいなまれて冷や汗まみれになる日々が今後も続くのだろう。だが、それもまた伸びしろということで前向きに捉えていきたいものである。
【好きなフレーズ】
C'est ça. / C'est ça! / C'est ça?
あらゆる場面で使われる合いの手の表現。直訳すると「それはそれ」。言葉に詰まりがちな身を助けてくれるありがたい存在である。発音は日本語で使う通りの音で「セサ」。平叙文は語尾を下げる。語尾のサを下げず、強く発音すると「!」のニュアンスが入る。語尾を上げると疑問文になる。相手の発言に同意するときの「そう」「そう!」、相手にモノを提示するときの「ほら、これ」、もしくは疑問形で「これか?」。行為を実演してみせるときの「こうだよ」。それをまねる側の「こうか?」。相手の説明に納得するときの「そうか」。どことなく「これでいいのだ」の雰囲気も漂う、気軽に使えて味わいもある表現である。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- 筆者撮影
著者プロフィール
佐藤章(さとう・あきら)アジア経済研究所地域研究センター主任研究員。専門はアフリカ地域研究、近現代アフリカ政治史。主な著作に、『ココア共和国の近代』(単著、アジア経済研究所、2015年)、『サハラ以南アフリカの憲法をめぐる政治』(編著、アジア経済研究所、2024年)。