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コラム
第8回 ポルトガル語(アフリカ)──スマホを捨てよ、遊学に出よう
Portuguese (Africa): Leave your phone behind, and dive into the “chaos”
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001286
2025年2月
(7,181字)
なぜにポルトガル語圏アフリカ
ポルトガル語と言っても、ここでの話の中心はポルトガルでもブラジルでもない。むしろ話はポルトガル語からどこまでも遠ざかる。ともかく、アフリカのある国に興味を持ってポルトガル語を学ぼうと思ったのは1994年、高校の英語科3年生のときだった。そもそも高校へ進む段階で英語科を選んでいる時点で、自分の関心は国外に向いていた。
それは、10代後半の自分には日本が退屈に思えたからだ。今思えば、当時の自分には、自分の足もとを見る眼も、社会の水面下で起こっていた変化を捉える眼もなかった。地球が丸く見えるくらい広い空の下で育ち、西を見やれば富士山から筑波山までそれらの輪郭を繋ぐ地平線、東を見やれば太平洋の大海原が輝く先に水平線。あの頃は、見渡す限りにおいて劇的ななにかが起こりそうには思えなかった。
英語圏でも物足りなさそうだと大学の進路を決めかねていた時、あるニュースに目が留まった。そのニュースは、アフリカの国で16年も続いた長い内戦が終わり、初めての選挙に際して、国連が組織する選挙監視団に日本人も参加することを伝えていた。初めて選挙するとはどういうことか。そもそも「国」はどうやって造られるのだろう。同時代に生きているこの社会の人たちはなにを感じ、なにを考えているのか。そんな好奇心が湧いてきた。
内戦が終わって間もないその国、南部アフリカのモザンビークの公用語はポルトガル語だった。同じくポルトガル語を公用語とする南部アフリカの国、アンゴラ出身の先生がいる日本国内の大学を見つけ出し、そこに行こうと決めた。アンゴラは、やはり長い内戦を経てモザンビークより1年先に停戦に至り、選挙をしたものの、内戦が再発していた。
語学力の問題ではない(1)──母語なのに通じないとき
ところが、関西の外国語大学のポルトガル語学科に入学してみたら、「アンゴラ出身の先生」は入植者の子孫であるポルトガル系白人の先生で、植民地文学が専門だった。自分の関心からは大きく外れていた。しかも、学部1、2年は植民地文学の面白みが理解できるほど踏み込んだ内容に至らない一方で、毎回、日本人の教員の通訳・解説付きで辟易するばかりだった。「アンゴラ出身の先生」の持ち時間:日本人の教員の通訳と解説=1:2。正直に言えば、毎回だったかどうかも定かではない。初回の授業を心待ちにして、教室の前から2列目の席に陣取っていた私にとってこの授業はあまりにショックで、それ以降の記憶はない。
在籍したポルトガル語学科は2クラス編成、1クラス35人程度だった。大半はサッカーかサンバ好きでブラジルに行きたい学生、稀に郷愁(saudade)溢れる斜陽のポルトガルが好きな渋好みの学生だった。私はどちらでもなかった。アフリカのポルトガル語圏に関心を抱いていたのは、入学から卒業まで自分一人だった。サッカー話をするにも、選手がブラジルのファベーラ(favela)と呼ばれるスラム街出身だというような、その社会的な背景に迫る話題であれば、私の「アンテナ」は反応する。だが、話題はそうは展開しなかった。
この時点で気が付いた。たとえ同じ言語を母語とする者同士が話していても、お互いに関心のない話は、どうにも通じないのだ。
語学の素養が培われる──もはやポルトガル語でもない
進路選択を誤った、と結論付けそうなところにも、救いはあるものだ。時事ポルトガル語の授業を担当されていた古澤先生は、ブラジルの時事問題や日本にいる日系ブラジル人の抱える社会問題を扱ったポルトガル語の新聞や雑誌記事をテキストに選んでくれた。古澤先生には、長らくNHKラジオの国際放送でポルトガル語のニュース番組を制作された実務経験があった(古澤 1989)。生放送ならではの、ハラハラするエピソードなどを交えた授業は毎回楽しみだった。
授業時間外も学びに満ちていた。社会に対する感覚を共有できた級友は東大阪の出身だった。この学部時代の親友のお陰で、ポルトガル語よりも先に、ディープな東大阪のイントネーションを知った。そして気の合う他大学の友達ができるたびに、大阪でも東大阪と隣の八尾で違うし、奈良でも生駒と吉野で違う、と自分の中の「関西弁」のバリエーションを増やしていった。地理的に限定された生活世界の中で育まれた各地の「関西弁」のバリエーションに比べれば、ポルトガル、ブラジル、アフリカ大陸という、ざっくりとした括りで分類するポルトガル語の発音やイントネーションの違いは、あまりに歴然としていてハードルが低く感じられた。
ちなみに東大阪出身の親友は、東ティモールの当時の大統領シャナナ・グスマォン(Xanana Gusmão)、現大統領ラモス・オルタ(Ramos Horta)両氏の大阪での講演の機会を教えてくれ、一緒に聴きに行った。東ティモールは、インドネシアに隣接するがポルトガル語を公用語にしている。小国ポルトガルの大航海時代の片鱗はあまりに目立たないが、世界各地に植民地を持っていた時代がある。それらはことごとく、独立後に長い紛争を経験し、東ティモールも内戦が終結して間もなかった。間近で聴いた、新しい国づくりの最前線に立つ人たちの言葉は、情熱的ながらも静かな決意に満ちていた。
混沌の中で自分の「現在地」を確認する
さて、親の負担で大学へ行かせてもらったのだから、元を取らなくては申し訳ない。良い子を装った貧乏性の私は、返済不要の奨学金はすべていただいて留学した。最初は中国の澳門大学のポルトガル語の夏期講座を受けた。香港がイギリス領を経て1997年に中国に返還されたのち一国二制度であったように、マカオはポルトガル領を経て1999年に中国に返還された。香港から高速フェリーで30分、「東洋のラスベガス」という異名からはカジノとマフィアしか連想できなかったマカオに、ポルトガル語講座を開設している大学があったのだ。
日本、韓国、中国のほか、インドのゴアなど旧ポルトガル領出身の留学生と一緒にアジアの片隅でポルトガル語を学び、ひとたび教室を出れば学食メニューには豚足が並び、植民地時代の面影を残したポルトガル風の街並みの中では広東語しか通じず、国境ゲートを抜けて深圳に行くと、これぞ大陸中国。まるで時空が歪んだような感覚にとらわれる。その混沌とした中で自分の「現在地」をつかむために頭をフル回転させる経験は貴重だった。
この時の自分の「現在地」を確認するための材料には、澳門大学図書館の書架に並んだ、日本による南京大虐殺に関する夥しい数の写真を掲載した蔵書や、韓国の学生と交わした植民地支配についての会話も含まれている。北東アジアで日本がどう見られているかという歴史認識を肌感覚で学び、日本という国がどうやって形作られてきたのか、自ずと相対化して見るようになった。
「世界」の解像度が上がっていく
その後は、ポルトガル中部のコインブラ大学文学部の留学生別科に留学した。13世紀に創設された大学のキャンパスには18世紀初頭に建てられた、安土桃山文化を彷彿とさせる金箔張りの内装の図書館があり、啓蒙主義時代の蔵書と合わせて、今では世界文化遺産に登録されている。もとより支配された側に視点を置いていた私は、豪華絢爛な内装を眺めながら、この黄金はブラジル産か、西アフリカのゴールド・コースト産か、奴隷貿易や植民地支配の対価はこんなことのために使われたのか、と考えていた。
コインブラでの級友の顔触れも多様だった。スペイン、イタリア、チェコ、スロバキア、ポーランド、大西洋の孤島アソーレス諸島出身のポルトガル系カナダ人の留学生たち。キッチンとバスルームが共用のアパートの階下には、法学部で学ぶモザンビーク人もいた。級友たちとの交流では、チェコ、スロバキア出身の友人たちが古い修道院のある森林地帯へのトレッキングを企画するかと思えば、スペイン、イタリア出身の友人たちがホームパーティ好きだったのは好対照だった。自分の思考の中で「ヨーロッパ」という括りが解体され、南欧や東欧の土着性への興味が湧いた。だから後になって博士論文を書くとき、西欧中心的ではない経済史の枠組みを提示していた研究者(Berend and Ránki 1982)が東欧出身だったことや、従属論がラテンアメリカから生まれたことに合点がいった。中心ではなく、周辺から見るという自分の視点が定まっていった。
語学以外のなにかが培われる
ご当地中心主義的な歴史の授業も印象に残っている。ポルトガル史上の黄金時代は日本語では大航海時代と言われるが、ポルトガル語だと「大発見時代(Era dos Grandes Descobrimentos)」と表現される。ユーラシア大陸最西端のポルトガルから極東の日本に至るまでの航路を「発見」したのだという先生は、講義が佳境に差し掛かると叙事詩張りの語り口で朗々と語る。ポルトガルの黄金時代をテーマにした叙事詩『ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)』のリズムだ。16世紀の詩人ルイス・デ・カモンイスによる格調高い、とされるそれをぼんやり聞きながら、私は、日本に最初に鉄砲をもたらしたポルトガル人が嵐で遭難した末に種子島に漂着したという日本史情報と、どうにも整合性が付かないな、と考えていた。
内容的に興味深かった授業は建築史だった。なんといっても日本人ファッション・デザイナーのジュンコ・コシノのような前髪と強烈なアイメイクの個性的な先生による講義だ。自信がないとあの前髪とアイメイクはできない。専門家が自分の専門分野についてその世界にどっぷり浸るくらいの雰囲気で語るときが一番面白い。特にイベリア半島でキリスト教勢力とイスラーム勢力が支配権を争った8世紀から15世紀の征服(Conquista)と再征服(Reconquista)の時代の授業はダイナミックかつ子細だった。なかでも、「アラブ風」を意味するモサラベ(Moçarabe)様式と呼ばれるキリスト教会建築は、政治権力が対立する時代の文化融合の痕跡を示していて興味深かった。私は一人、イベリア半島の地図を広げてAlcântara、Alcoçaba、Albufeira、Alhambraと、アラビア語の冠詞“al-”を残した地名を見つけては、長期休暇を利用して各地のイスラーム遺跡やモサラベ建築を訪れた。
1990年代末の気ままな一人旅には、2020年代のように自分の掌の中で問題が解決した気分になるスマートフォンもなかった。旅のロジスティックスを一人アナログでこなすことで、自ずとそれなりの能力が培われたようだ。時に誰とも繋がらず、一人で考えを巡らせたり、自分の感覚を研ぎ澄ましたりすることも大切だった。今ならあえてスマホの電源を切って出かける。代わりに、日頃スリープモードでいる自分の五感が目を覚まし、身近な世界ですら鮮やかに感じられる。
語学、やる気があるのか、ないのか
はたして私は「語学」をやったのか。怪しい。それでも、私は留学時代も授業時間外で会話力が急上昇している。なぜなら、当時、二十歳そこそこのアジア人女性(=筆者)がヨーロッパの田舎一人旅をすると、よく地元の暇そうなオジさんに絡まれるのだ。気が強ければ、当然、黙ってはいられない。とはいえ事を荒立ててはいけない。したがって、ポイントは相手よりも論理的かつ美しい言い回しで諭すこと。失礼な物言いで絡んできた相手が食堂のテラス席に座っていた地元客だったりすると、最終的に相手がワインの一杯くらいご馳走してくれる。授業のディベートよりも実践的だ。
そんなことをしているから留学の1年はあっという間に終わりも近づき、日本への帰国間際にようやくモザンビークに行った。初めてのモザンビークでは、地方の町に向かう長距離バスで隣に座った綺麗なお姉さんに、私の目的地が彼女の住む町だと知って「(この町を)気に入ってくれるといいんだけど。(Oxalá que gosta.)」と言われて感動した。
感動の理由は意外に深い。今、手元の『現代ポルトガル語辞典』で確かめても、ポルトガルのポルトガル語では、“oxalá que ~”は「どうか~になりますように」と慣用的に使われる。しかし、私がポルトガルにいた間、それが使われる場面に出くわしたことはなかったし、現代ポルトガル語でkやxを含む語彙はそもそも古語の部類だ。他方、ブラジルのポルトガル語では、 “oxalá”はアフリカに起源を持つブラジルの祖霊信仰カンドンブレ(candomblé)で出産や収穫といった「豊穣の神」を意味する。そして、辞書にはないが、アフロ・ブラジル文化の起源の一端を成すモザンビークでは、“oxalá”は明確に「祖霊」「守護霊」を意味する。ようやく1つの言葉の原点に辿り着いた気がした。
感動の余韻に浸りながら、幸先良いな、と気を良くして海辺の小さな町に滞在した。そして数日後、未だ夜も明けきらぬ早朝、次の町に移動するためにバス乗り場に向かう道すがら、背負ったバックパックとは別にカメラその他の貴重品一式を入れたサブバックをひったくられ、一瞬で所持金ゼロになった。油断禁物。
「あちこち一人で歩き回っているからそんな目に遭うんです。」そう思われるかもしれない。そのとおりです。それでも、旅行保険でどうにかなる分はどうにかしようと、盗難届を出すべく警察へ行き、事の成り行きも細かに説明して調書も作ってもらった。この時期に、複眼的思考や専門性の魅力がなにかを知り、ロジ能力と会話力が多少なりとも培われたことは、致命的でないトラブルには代えがたい。所持金ゼロになったあの町は、今も好きだ。
だが、モザンビークの農村部で調査をするなら、ポルトガル語が話せても十分ではない。ならば民族言語を習得すべし、と思う一方、この国の民族言語は大まかに見積もっても20数種類ある。私の直近の調査対象地域だけでも、シャンガナ(Shangana)語、ロンガ(Ronga)語、ツォンガ(Tsonga)語、ショピ(Chopi)語、マクア(Makua)語、といった具合だ。似ているけれども異なる言語を同時に複数勉強すると混同するのでよろしくない、と学部時代に言われたことを都合よく思い出し、自分を正当化する。そして今、調査では、話し手に合わせてポルトガル語と各地の民族言語の二重通訳を介して聞き取り調査をしている。
語学力の問題ではない(2)──単語も文法もわからないが通じるとき
そんなわけで私は、民族言語は最初の挨拶とお礼の一言以外、なにも理解できない。しかし、第三者に、民族言語がわかるのかと疑われることもある。モザンビークで伝統医(またの名は呪術師)の弟子の「卒業試験」の儀式に招かれたので、現地にいた日本人の学生を誘って行ったときのことだ。伝統医の弟子が決まり文句を言う場面がある。そこで姉弟子らから野次が飛んだので、私は「突っ込まれてる~」と言って皆と一緒になって笑っていたら、日本人学生から「網中さん、シャンガナ語、わかるんですか!?」と真顔で尋ねられた。言葉はわからないが、言葉が発せられるトーンと事の展開はわかる。
語学力の問題ではない(3)──単語も文法もわかるが通訳できないとき
単語も文法もわかるのだが、たった一言が通訳できないときもある。私が大学院生のとき、日本の放送局のドキュメンタリー番組の撮影のため、モザンビーク・ロケのコーディネーター兼通訳をする機会があった。その内容は、内戦直後の1990年代初頭に保護された少年兵を取材したディレクターが、10年後の2000年代に再び元少年兵のもとを訪ねる、というものだった。
対象となる元少年兵は自分と同世代だ。撮影のカメラが回るなか、ディレクターの大森さんが一呼吸おいた後で、日本語で元少年兵に問いかけた。
「あなたは人を殺したことがありますか。」
私には、通訳できなかった。私は大森さんにその場で謝り、自分には通訳できないことを伝えた。大森さんはなにも咎めることなく、この質問をカットしてくれた。
番組にとって決定的だったかもしれない質問はできなかった。それにもかかわらず、素晴らしい構成力とカメラワーク、撮影現場を吹き抜ける微かな風の音まで捉える音声スタッフの技量とで、この番組はヨーロッパの国際放送コンペティションで受賞した。あの時以来、放送人の仕事からは学ぶことが多い(角 2005; 大森 2023)。
そして私はあの質問を、今でも、これからも、訳し、伝えることはできない。尋ねることのできない質問、得られない答え、伝わらない想い、沈黙が語ること。母語と外国語の間、言語と非言語の間を往還しながら、今も考え続けている。
【好きなフレーズ】
mata bicho
「腹の虫をおとなしくさせる」、転じて「朝ごはん」
「朝ごはん」に相当する言葉には、字義どおりには「軽い昼食」を意味する“pequeno almoço”という言い方がある。短い一言だが、(腹の)虫(bicho)をmatar(やっつける)という、なんとも直接的な表現に、所変われど「腹の虫」ということに、人間、同じだな、と安心する。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- 写真1 筆者撮影
- 写真2 角文夫氏提供
参考文献
- 池上岑夫・金七紀男・高橋都彦・富野幹雄・武田千香共編(2005)『現代ポルトガル語辞典[改訂版]』白水社。
- 大森淳郎(2023)『ラジオと戦争──放送人たちの「報国」』 NHK出版。(毎日出版文化賞受賞)
- 角文夫(2005)「第3話 こども兵を生んだのは誰か モザンビーク内戦の果てに」(7/24)「NHKスペシャル21世紀の潮流 アフリカゼロ年~4人のカメラマンが見たアフリカ~(下)」『映画テレビ技術』12月(640):17-21。
- 古澤一(1989)「国際放送あれこれ 中南米のみなさんこちらは「ラジオ日本」です」アジア経済研究所発行『ラテン・アメリカレポート』6(4): 20-28.
- ルイス・デ・カモンイス著、池上岑夫訳(2000)『ウズ・ルジアダス ルーススの民のうた』白水社。
- Berend, Iván T. and György Ránki (1982) The European Periphery and Indstrialization 1780-1914, London: Cambridge University Press.(イヴァン・T・ベレンド、ジェルジュ・ラーンキ著、柴宜弘ほか訳(1991)『ヨーロッパ周辺の近代──1780~1914』刀水書房)
- NHK(2005)「 (3)──子ども兵を生んだのは誰か~モザンビーク・内戦の果てに──」( NHKスペシャル 21世紀の潮流 「アフリカゼロ年」)2005年7月24日(日) 午後09:00~午後09:52。
著者プロフィール
網中昭世(あみなかあきよ) アジア経済研究所地域研究センターアフリカ研究グループ主任研究員。博士(国際関係論)。おもな著作に「移民労働者の社会的保護とグローバル企業──モザンビーク人鉱山労働者の職業性疾患──」佐藤千鶴子編『移民の社会的保護──南アフリカ・モザンビーク・マラウイの制度と実態』アジア経済研究所(2024)、「憲法政治の力学──モザンビークにおける政党政治と派閥対立──」佐藤章編『サハラ以南アフリカの憲法をめぐる政治』アジア経済研究所(2024)など。