IDEスクエア

コラム

語学汗まみれ

第3回 日本語──ラオス生まれの私が「世界一難しい言語」と向き合って30年

Japanese: Why not the grammar nor the kanji make it the World’s most difficult language

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000008

2023年9月
(6,647字)

学習することが難しい言葉のリストはたくさんあるが、どれもほぼ決まって日本語がランクインしている。アジアの言葉なのに、文法が西欧の言語のように複雑で、文字の種類が多い、漢字を覚えるのが大変、などが理由とされる。日本語がペラペラ話せるのに、ローマ字表記の辞書しか使えずに書物が読めない外国人がたくさんいるので、日本語が難しい理由は「書き言葉」にある可能性が高い。

だが私は、30年以上向き合ってきた経験から、本当の理由は別のところにあると思う。このエッセイでは、これまでの語学学習の経験から、私なりに考えた日本語が難しい理由の仮説を提唱したい。

語学学習は幼少期から混乱気味

私は1972年の春半ばにラオスのポンサリーで生まれた。ベトナム戦争の陰でアメリカが秘密裏に爆撃を行って、「史上最も空爆を受けた国」といわれることになったラオス内戦終結の3年前である。そうした激動の時代だったためか、物心ついたばかりの記憶は、まったく知らない人、言葉が通じない人によく会ったりだとか、頻繁に長距離の引っ越しをしたりだとか、そういった目まぐるしいものしかない。また、親が仕事で遠出をすることが多かったため、首都ヴィエンチャンに引っ越してからの幼少期は祖父母と住んでいた。

写真1 「タート・ダム」という黒塔。

写真1 「タート・ダム」という黒塔。当時住んでいた
首都ヴィエンチャンの自宅の目の前にあった。

叔母から聞かされた話では、私はどうやら好奇心が旺盛な子どもだったらしい。多くの人が幼い時分にするように、本棚を物色して、写真や挿絵が面白そうな本を見つけると、よく大人に読んでほしいとねだった。しかし、私の場合、それだけでは必ずしも読んでもらえなかった。ラオス語で書かれた本は当時まだ少なく、どの言葉で書かれたどの本をどの大人に読んでもらうか、まずは考える必要があったのだ。祖父母の家には、海外留学から戻ってきた叔父、叔母の持ち帰ってきた本がたくさんあった。中国語やロシア語、フランス語の本が多かったが、当然自分では読めない。だから、この本は中国語だからあの人、ロシア語やフランス語の本ならこの人、といった具合に、ラオス語が読めるようになるよりも前から、言語の違いというものを理解していた。

まだ小さかったが、私自身もよく覚えていることがある。ありがたいことに寝る前、長編小説を毎晩のように読んで、即興でラオス語に訳して聞かせてくれた優しい叔母がいた。目で叔母の指を追いながら静かに待つ。叔母が黙って読み、話し出すまでの間は実に言い表しがたい、ドキドキする時間だった。他方で、お話がすべて頭の中に入っているかのように、本を一切見ることなく面白い物語をラオス語でしてくれる元気な叔父がいた。偉人伝や長めの謎かけが多かった。

今となっては考えすぎだとは思うが、子どもながらに「よく怒るから頼みにくいな」と思っていた人には、ピンポイントで写真のキャプションなどを読んでもらったりもした。書いてあることの意味が分かるのは嬉しかった。自分で読めたらどんなに楽しいだろうと思いながら、聞き入っていた。

叔母(中央)と兄弟・従姉妹。右から1番目が筆者(当時6歳)。

写真2 よく外国の本を読み聞かせくれた叔母(中央)と、当時一緒に
住んでいた兄弟・従姉妹。右から1番目が筆者(当時6歳)。

ややこしいのは外国語だけではなかった。母国語であるラオス語も、何かと不思議なことがたくさんあった。通じそうで、通じない。通じるけれど、なにか変だと思うラオス語と出会うのは日常茶飯事だった。こと子ども同士だと、どちらかがどちらかに合わせることが難しいので、遊び方ひとつ決めるだけでも意思の疎通が大変だった。しかも、私がまったく理解できない、少数民族の言葉を話す親戚や来訪者もたくさんいた。ただ、ラオス語で話しかければほとんどラオス語で答えてはくれた。

人間が発するありとあらゆる音に対して、意味を受け取ったり、親近感を抱いたり、混乱したり、理解したいと思ったりと、様々に「不思議だな」という感情を抱いたのが、私にとっての語学学習の始まりだったのだろう。

混乱は小学校に上がった後も

新しい国家建設に伴う公用語の変化で、ラオス語習得の難しさは小学校に入ってからも続いた。歴史的な背景の話になるが、ラオスは1893年からフランスの植民地となった。そうした事情から、書き言葉としてのラオス語は、宗教の教典や古典文学など、限定的な場面でしか用いられなかった。公立の小学校でも授業はフランス語で行われ、ラオス語は外国語としてしか教えられていなかった。1949年にフランス連合国内での協同国として独立を果たしたあとでも、小学校ではラオス語の授業時間以外でラオス語を使用することは禁じられていた。ラオス語教育や、ラオス語の公的な文書での使用が始まったのは、フランスがインドシナから撤退した1954年以後のことである。

この時のラオス語は、話し言葉、書き言葉ともに、首都ヴィエンチャンを中心に使われていた「ヴィエンチャン弁」が採用された。ところが、1975年に現在につながるラオス人民民主共和国が成立すると、ラオス語は再び変化する。今度は、単語はほぼヴィエンチャン弁そのままに、書き方、すなわち綴りだけがラオスの北部弁に合わせて、修正された。その後、学校で使う教科書も新しい綴りで発行された。私が小学校に通いはじめたのは、以前の綴りと新しい綴りの教科書が混在していた時期だった。

今となっても、忘れることができない苦い思い出がある。

ある日の国語の時間、先生が「今日は『マーク・プック』(ザボン)というところを読む」と言った。ザボンは東南アジア原産のミカン科の果物で、ブンタン(文旦)ともいう。教科書に書いてあった文章を声に出して読み上げなければいけないのだが、「でも、私の教科書には『マーク・キャンニャイ』(大きいミカン)しかない」と思って私は大いに動揺した。困ったことに、私の新しい教科書と他の人の教科書の内容が若干違っていたのである。隣の人に教科書を見せてもらったところ、タイトル以外の内容はほとんど同じということに気づく。そこで、固有名詞の部分だけを置き換えて読むことで私はなんとか乗り越えようとした。その方法は、最初はうまくいった。

しかしこれはすぐに破綻した。私のところに歩いてきた先生は、「『ザボン』と言ったのに何で『大きいミカン』を読んでいるんだ。馬鹿かお前は」と怒鳴った。私は恥ずかしかった。心の中で、「これは親が買ってきた新しいテキストで、多分これこれの理由で先生のテキストと少しだけ違うんです」と弁明するシミュレーションをしたが、私が何か言い出す前に先生は教室の前方に戻ってしまっていた。もちろん「これこれ」に当たる理由は、当時小2の私にはすぐには思いつかなかった。のちに、新しい教科書は外国の援助で最近印刷されものだったと親から知らされた。きっとどこかで行き違いがあったのか、あるいは担当者の方言、こだわりで変えられたのだろうなと思ったが、時すでに遅しであった。

ラオス語を公用語として使っている人口は約700万人だ。在外ラオス人や周辺諸国のラオス族を含めれば数千万人はいる。ユネスコの「絶滅危惧言語」とはされていないので、なくなる心配は当分ない。しかし多くの脱植民地化後の国の国語がそうであるように、ラオス語もいまだに話し言葉中心の言語であることも事実だ。

そうした環境で育った私にとって、のちに学ぶことになる書き言葉中心の日本語学習のハードルは、とてつもなく高かった。

フランス語・ロシア語・英語は順調

私は、どちらかといえば語学学習には自信がある方だった。小さい頃から多言語が飛び交う環境で育ったし、絶えず変わるラオスの外国語学習環境にも、うまく対応できたという自負があった。

高校で選抜クラスに入り、ラオス人民民主共和国の成立とともに当時の留学先がソ連や東ヨーロッパ諸国に変わったことに対応するため、外国語学習もフランス語からロシア語に転向することになった。3年間の勉強の後に、ロシア文化センターで試験を受け、私は一等賞となった十何人のなかのひとりに入ることができた。高校卒業後、冷戦が終焉するという国際情勢の大きな変化でソ連留学事業が停止されることになり、英語を勉強しなければならなくなった時はもっと短期間で習得した。

当時のラオスには英会話学校がほとんどなかったのだが、運よく、ラオスの中央銀行に赴任していたイギリス人の奥さんがボランティアで教える英語教室に通う機会を得た。通い始めて1年も経っていなかったときにオックスフォードの英語の模擬試験を受けた。びっくりしたのは、試験後に呼び出されて、「あなたはイギリスの大学で勉強ができるレベル」と手放しで褒められたことだ。日本に来る前、国際協力事業団(JICA、現在の国際協力機構)の青年海外協力隊員に日本語を習う機会があった。この時も、数カ月で簡単な会話ができるまでに上達した。

だが、私が語学でうまくいったのはここまでである。この後は、今日に至るまで会話や試験勉強では知り得ない外国語の書き言葉の難しさに苦しめられ続けている。

日本語との格闘、しかし戦意喪失寸前

ここで、私の日本留学のきっかけを振り返りたい。当時のラオスでは大学進学は外国政府の奨学金を獲得して留学することを意味した。しかし、ベルリンの壁崩壊後の混乱を報道で聞いたり、すでに留学をしている知人、親類から話を聞いたりした多くのラオス人は、奨学金の打ち切りを恐れ東側諸国への留学を取りやめた。

私もそうしたひとりだったが、日本の高専に留学する文部省(現在の文部科学省)の奨学金の試験を受ける機会を得て、その試験に運よく受かった。私は高専に入る国費留学制度の一期生として、もうひとりの同期と一緒に1991年に来日した。日本の国力は以前から知っていたが、ラオスに対する国費留学制度が再開されるまでは留学を実現する手立てがなかった。

当時ラオスで見聞きする高品質な工業製品はほぼ日本製だった。さらにいえば、よく読んだラオス語に翻訳されたソ連の書物には、日露戦争の話が書かれていた。当時の私は、ベトナムがフランスやアメリカに勝った話と同様、日露戦争で日本が勝った話を読んで、日本と同じアジア人としての誇りを感じた。

昨今の国際情勢では不思議な組み合わせだが、ソ連留学が現実的でなくなった後、私にとっての家庭教師のような存在だったロシア人の駐在員に日本留学について話をした。彼の「日本か。強い国だ」という返事が日本を目指す思いをさらに強くさせたのは確かである。このように、まだ19歳だった自分は、たくさんの人を通してさまざまな言語と出会い、言葉によってその後の人生を切り開く術を手に入れた。出会った人と言葉への感謝の念に堪えない。

しかし、いざ日本に来てみたものの、当時日本の高専に入る国費留学生には、6カ月しか日本語を勉強する時間が与えられていなかった。大学に入る国費留学生の半分の期間しかなかった。西欧の言葉みたいに複雑な文法に加え、これでもかと新しい文字を毎日覚えなければならなかった。

ある時、仲良くなったバングラデシュ人のクラスメートに衝撃的な話を聞いた。その人曰く、「自分の先輩は国費で日本に来たが、日本人の高校生でも読めない漢字がある」と聞いて、帰国を決心したと。あと10年頑張っても、まだ読めない漢字があるなら、今のうちに諦めた方がいい、というのが理由だった(その友人もコロナ禍でついに帰国した)。都市伝説の可能性は否定できないが、この話に当時の私は大いに共感した。

それでもがんばろうと、私は分厚い辞書や参考書、当時では最先端の電子辞書まで買ったが、わからない漢字を調べようにも、読み方がわからなければ、何も始まらない。部首や偏から調べる方法は確かにあったが、これをやっていると、本の内容に集中しながら読み進めることができなくなる。夢にまで見た「好きなだけ日本語の小説を読む」ことも、新宿の紀伊國屋書店本店で何度か立ち読みをして、諦めてしまった。

結局、参考書も小説も選択肢がある時は英語を選ぶようになり、会話以外の日本語の上達がますます遅れた。

なぜ日本語は「世界一」難しいのか

日本語を学び始めて30年経った今は、ネイティブに比べればまだ遅いものの、読む方も上達した。だが書くことは相変わらず苦手である。私は日本語が世界一難しい言語だと思っている。言語学の専門家ではないので、ここからの意見は私見の域を出ないが、「日本語ヘビーユーザー」の一意見として、考察をしたい。

日本は、経済・科学技術・文化ともに影響力がゆうに世界の5本指に入る国である。経済規模ではランクを1つ落として世界第3位となったが、対外資産は30年以上連続で世界一を維持している。日本企業が海外で雇用している労働者はアジアだけでも500万人を超える。ノーベル賞受賞者は28人を数え、工業製品でも「高品質」は日本の代名詞。日本文学、和食、ゲームやアニメといった分野の世界的人気は周知のとおりだ。

しかし、特に欧米諸国に比べ、日本語を第二言語として使用している比率(第二言語話者数/第一言語話者数)が少ない。3倍弱のフランス語・英語、2倍弱のドイツ語、約7割のロシア語に対して、日本語は1%未満だ。独立した旧植民地が公用語として採用したスペイン語・ポルトガル語は、母数である第一言語話者が多くなることで、第二言語としての利用の比率が低くなるにもかかわらず、まだ15%と10%ある。かつては日本も植民地があったにもかかわらず、なぜ日本語は「1%未満」なのだろうか。具体的な数値でみると、第二言語としての日本語話者数は約40万人とされている。一見、極端に少ない数値ともとれるが、日本に定住した二世以降の外国人にとって日本語が第一の言語とならない、また多くの日系人にとって日本語が第二言語になっていない点を考えると、現実に近いと思う。この比率の低さ、第二言語話者数の少なさは、習得することが難しい以外に、説明ができない数値だ。

私は日本語が難しく感じる最大の理由は、難解すぎる書き言葉にあると考える。しかし、難解な理由は、複雑な文法や、文字が3種類もあること、漢字の同音意義語が多いことではない。簡単だと主張しているわけではないが、文法と文字の難しさは他の言語を圧倒しているともいえない。ほとんど忘れてしまったが、文法ではロシア語の方が難しかったというのが実感だ。日本語を通して知った漢字も中国の本家の方が難しいと推測する。

学術論文、法律の条文、契約内容が難しいのは仕方がない。しかし、日本語は一般人が読解をしなければならない文章でも、超難解なものがたくさんある。海外で受け取った行政文書や海外の企業が送ってきた書類と比較してみるといい。私はそれらの文書の理解に困る記憶はない。ほとんど話せないスウェーデン語で書類が来ても、オンライン翻訳で簡単にその内容を把握できた。タイにいた時は書類がタイ語か英語で来る。どちらも理解するのに努力はほぼ必要なかった。

しかし、約30年いる日本では、今でもしばしば2回、3回目読んでもわかった自信が持てない。私が先に読んで、その後で20年以上日本にいる妻が読んでも、結局結論が出ないことがよくある。丁寧に場合分けされていたり、グラフ、用語の説明が添付されていたりすることがあるが、反対に混乱することもある。恥ずかしい話だが、私は今でも勤務先の有給休暇が何日あるか厳密にはわからない。種類が多く、取得できる期間もそれぞれ異なるので、結局、ある時点で自分の休暇が何日あるのか正確に把握できない。

日本語がこんなにも難しい理由は、複雑すぎる制度・規則や手続きと、それを反映したややこしすぎる文章による部分が大きいというのが私の仮説だ。困ったことに、この複雑すぎる現実は、企業や組織のように社会のほぼすべてのレベルで当てはまるようである。

自分の頭が悪いだけだからかもしれないが、外国人技能実習生、労働者や高度専門職が最近急速に増えていることから明らかなように、日本でも越境人材が重要になりつつある。一言語の文法を急に変えるのは難しい。しかしこのままでは、人材獲得競争に不利な状況は変えられない。仮に私が提唱している日本語が難しい理由の仮説が正しければ、制度や規則をわかりやすく設計するだけで、日本語学習のハードルをぐんと低くできることになる。私はそうすることにより、1、2年の日本語学習歴でも、ゴミ出しのルールや日本で働くための諸々の手続きの書類なども、ストレスなく読解できるようになると信じている。

【好きなフレーズ】

「石の上にも三年」
ラオス語には「九度堪えて、九度持ち越せば、金が手に入る(ເກົ້າອົດເກົ້າເຍື້ອນ ຫາກຊິໄດ້ທ່ອນຄຳ)」ということわざある。結果を急ぐ自分を意識的に抑制するためにこどもの時に覚えたが、そのためか、「石の上にも三年」が好きになった。困るぐらい普段の自分に影響が出ている。三年どころか30年が経ってしまった。そろそろ立ち上がって、もっと効率的な方法で、石を温めたいものだ。

「急がば回れ」
ラオス語には「急がば這え、遅れたくば走れ (ຢາກໄວໃຫ້ຄານ ຢາກນານໃຫ້ແລ່ນ)」ということわざがある。これは、焦って悪い結果を招いてしまいがちな自分を意識的に抑制するために子どもの時からのお気に入りだが、あまり効果が出ていない。最初に覚えた日本語のことわざが「急がば回れ」となったのは自然の流れと思った。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • 写真1 Stefan Fussan(CC BY-SA 3.0
  • 写真2 筆者の親戚提供
著者プロフィール

ケオラ・スックニラン アジア経済研究所開発研究センター経済地理研究グループ長代理。修士(経済学)。専門はメコン地域研究と人工衛星データを中心とした社会科学における大量データの活用。おもな論文は、“Monitoring economic development from space: using nighttime light and land cover data to measure economic growth,” World Development, Vol. 66(共著、2015年)、「『ビジョン2030』──達成できるか所得4倍増計画」(山田紀彦編『ラオス人民革命党第10回大会と「ビジョン2030」』2017年)など。