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コラム

語学汗まみれ

 
第4回 インドネシア語──および関連諸語との悪戦苦闘

Bahasa Indonesia: A struggle to study it and the related languages

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000007

2023年10月
(3,838字)

きっかけ

インドネシア語の勉強を始めたのは1969年、大学4年生のときである。きっかけは3年生のときに東南アジア周遊の旅をしたことだが、そのときはまだインドネシアに足を踏み入れたわけではない。シンガポールの丘の上から見えた島々がインドネシア領だと教えられ、あの先にはどんな社会が広がっているのか素朴な興味が湧いたのが発端のひとつである。語学はあまり得意ではなかったが好奇心だけは旺盛で、大学教養課程の第2外国語だったドイツ語の他にスペイン語も少しかじったことがあった。在籍していた大学にインドネシア語の授業はなかったから、語学専門の大学へもぐり聴講に出かけた。今そんなことをしたらつまみ出されるだろうが、当時は鷹揚なもので先生も学生も黙って目こぼしをしてくれた。

1971年にアジア経済研究所の正職員になり調査研究部に配属されると、東南アジア部門でインドネシアの農村経済という課題を与えられ、本気で言葉の勉強に取り組むことになった。そこで、自由に使える語学研修手当を活用して個人教授を受けることにした。インドネシア政府教育文化省のお役人で日本に研修留学中の方を見つけ、住んでおられた駒場の留学生会館に足を運んでレッスンを受けた。そのおかげで1976年から2年間の海外派遣では、ジャカルタに到着したその日からなんとかインドネシア語で会話ができるようになっていた。

ジャワ語も学ぶ

任地のジョクジャカルタ市(中部ジャワの古都)に赴任してからは、やはり現地の大学の先生のお宅に通い個人教授のレッスンを続けた。3カ月ほど経ち、先生からもうインドネシア語(国語)は卒業してジャワ語(地方語)の勉強に切り換えるよう提案された。中・東部ジャワの農村で調査をするには、ジャワ語の知識が必要不可欠だからだ。インドネシアにはマレー語を母体とする国語とは別に数百の地方語があり、そのなかでもジャワ語は総人口の4割前後の話者をもつ最有力言語である(地方語としてのマレー語すなわちムラユ語を母語とする人口はたぶん1割に満たない)。

外国人宣教師のために作られた謄写版刷りの教科書によるジャワ語のレッスンが始まったが、インドネシア語に比べると数段難しい。発音と文法がより複雑なばかりか、世界で最も発達しているといわれる敬語法が難物なのだ。日本語の丁寧語、尊敬語、謙譲語に相当するような敬語の区別があるのだが、それがたとえば数詞にまで及んでいるうえ、日本語のように接頭辞や接尾辞を付加して敬語を作る習慣はない。単語そのものが変わるので、覚えなければならない語数がインドネシア語よりはるかに多くなる。たとえば「来る」は、インドネシア語ではdatangの一語だが、ジャワ語ではただの「来る」はteka、丁寧語に当たる「来ます」はdhateng、尊敬語の「おいでになる」はrawuh、謙譲語の「参る」はsowan といった具合だ。

やはり3カ月ぐらいの勉強の後に、まず東部ジャワの村に調査で乗り込んだものの、最初はまるで要領を得なかった。学校教育が普及した今と違い、当時のジャワ農村では国語のインドネシア語が話せない住民がたくさんいた。村役人でさえ、国語が不得手な人が珍しくなかった。そのうえ、調査地のジャワ語の方言は、教科書で学んだジョクジャカルタなど中部ジャワの古都を中心とする地域の標準的ジャワ語とは語彙や語調がかなり違っていた。付け焼き刃の私のジャワ語では歯が立たないのである。幸い、調査にはこの地方出身の学生が助手兼通訳で付き添ってくれた。農家での聞き取り調査では、私が作ったインドネシア語の調査票をもとに彼がジャワ語に訳して質問し、記入は私自身がインドネシア語で行うという方法で調査を進めることができた。

インドネシアで入手した2つの単語帳。

インドネシアで入手した2つの単語帳。上は「実用会話:インドネシア語、
標準中国語、英語、タイ語、ジャワ語」(1990年刊)、下は「インドネシア
語─地方語(ジャワ、バリ、スンダ、マドゥラ)辞典」(1993年刊)。
(出所)筆者所蔵
その後のジャワ語体験

東部ジャワでの調査を終えたあと、今度はジョクジャカルタ市近郊の農村で調査を行った。幸い、この村のジャワ語は教科書で学んだものに近く聞き取りがだいぶ楽になった。それでも住民へのインタビューは中部ジャワ出身の学生に手伝ってもらい、私自身は原則として記入の役に回った。それから13年後の1990年に、ジョクジャカルタの大学の先生たちと一緒に同じ中部ジャワの北海岸地方で、6カ村500世帯の農家経済調査を行った。この共同調査のときも、インドネシア語で書いた調査票をもとに口頭の質問はジャワ語で行う方法に従った。

それからさらに22年を経た2012年に、同じ大学の教員・大学院生たちとチームを組み、上記6カ村の1000世帯を対象に農家経済の変化を探るかなり大がかりな共同調査を実施する機会に恵まれた。もうこの時代になると、学校教育による国語の普及のおかげでインドネシア語のできない住民は皆無になっていた。それでも、インドネシア側リーダーの進言に従い、聞き取りはジャワ語で行い調査票への記入はインドネシア語によるという、以前と同じ方法を踏襲した。農業など生業活動をめぐる概念や用語はジャワ語での表現がふつうで、インドネシア語では的確な質問ができないというのがその理由であった。聞き取り調査を行う大学院生の選抜にあたっては、ジャワ語の会話能力の事前試験まで行われた。

このように、国語と地方語(決してたんなる方言ではない)の共存と使い分けという、インドネシアの言語生活事情に基本的な変化はないのである。ただし1990年代末の首都ジャカルタでの滞在経験によると、同じジャワ人でもジャカルタで生まれ育った若者たちは、ジャワ語がよくできない場合が多い。全国各地から異なる種族の人々が集まり、もっぱらインドネシア語で日常生活が営まれるメトロポリスでは、地方語を話す機会は少ないからだ。まして両親が異なる種族出身の家庭では、子どもはインドネシア語しかできないのが普通である。

オランダ語でも苦労する

学生時代に経済史を勉強したこともあり、インドネシアについても社会経済の歴史的背景についてひととおりの理解をもちたいと考えた。歴史の勉強には、植民地時代に公用語だったオランダ語の文献や資料を読むことが必要になる。そこでアジ研就職後すぐにオランダ語の勉強も始めた。といっても、インドネシア語のように語学研修手当を活用したわけではない。日本語で書かれたオランダ語の入門書を自習しただけである。オランダ語はかつて「低地ドイツ語」とも呼ばれたように、ドイツ語に似た言語である。大学の教養課程の第2外国語でドイツ語をかじった経験を生かせば、独学でも何とかなるだろう。それに「読み・書き・話せる」レベルの達成を目指し気合いを入れて勉強したインドネシア語と違い、とにかく文章が読めればそれでよいのだ、と安直なことを考えたのである。

ともあれまず困ったのは、辞書が入手できないことである。今ではよくできたオランダ語─日本語辞典(講談社、1994年初版)が容易に入手できるが、当時はそういう辞典は出版されていなかった。戦前に編纂された蘭日辞典があるのだが、古書店で探しても見つからない。神田神保町の書店街を探し回ってやっと見つけたのは、オランダで出版されたオランダ語─ドイツ語辞典だけだった。これを手がかりにオランダ語文献を読み始めたが、さっぱり読む速度が上がらない。ドイツ語の訳語がわからないので、独和辞典で二度引きしなければならないからだ。第2外国語で学んだ程度のドイツ語の知識では歯が立たないと痛感した。それでも蛮勇をふるって各種文献を読みあさった。くだんの蘭独辞典はぼろぼろになったが、今でも青春の思い出として書棚に陳列してある。

そのうちやはりオランダで出た蘭英辞典が手に入り、これで楽になるぞとほくそ笑んだが、これまたぬか喜びだった。英語の訳語に知らない単語が続出するのでやはり二度引きが欠かせなかったのである。「自分の英語力はこの程度か」と情けなくなった。それでも悪戦苦闘を続けるうちに、相応の速度で文献が読めるようになった。1986年にオランダへ研究留学する機会に恵まれた。アムステルダムの空港から町に入ると、看板などに書かれたオランダ語の意味はすぐに理解できた。ところが、会話のオランダ語はさっぱり聞き取れない。「読めるだけでOK」という中途半端な学習態度の弊害が露わになったのである。結局、オランダ滞在の1年間、簡単な買い物などの他は英語で済ませてお茶を濁した。まあそれでも、オランダについて研究するのではないから、研究者としての致命傷にはならなかったと思う。

おわりに

職業としての研究のために3つの外国語を学ぶのは、もともと語学がそれほど得意とはいえない私にとってかなりの負担だった。しかし、それから得たものも大きかった。文字と音声から得られる研究材料の情報量が格段に増えただけではなく、社会的歴史的背景が異なる言語を通して世界を眺めることにより、複眼的多元的なものの見方、考え方が自ずから養われたように思う。

他方、言語の習得に時間と労力を割かれることによる損失も小さくはなかった。自分の研究に関連の深い人文・社会科学の分野における新しい理論的展開などを、きめ細かくフォローする余裕が失われるからである。語学と理論の学習に割り当てる時間と労力の配分比率について、一義的な解はあり得ない。各自の研究対象とスタイルに応じてそれぞれが独自の最適解を探り当てるべきだろう。それは、いつの時代にも地域研究者を悩ます問題なのかもしれない。

【好きなフレーズ】

Badai pasti berlalu.
インドネシア語で「嵐は必ず過ぎ去る」 ── 我慢だ待ってろ。

Alon-alon asal kelakon.
ジャワ語で「ゆっくり行こう、実現さえすれば」 ── 焦ることはないさ。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

参考文献
  • 加納啓良 2017.『インドネシアの基礎知識』めこん.
  • 舟田京子・高殿良博・左藤正範2018.『プログレッシブ インドネシア語辞典』小学館.
  • P. G. J. van Sterkenburg, W. J. Boot, 日蘭学会監修 1994.『講談社オランダ語辞典』講談社.
  • Robson, Stuart, and Singgih Wibisono 2002. Javanese English Dictionary. Hong Kong and Singapore : Periplus Editions.
  • Sutrisno Sastro Utomo 2009. Kamus Lengkap Jawa-Indonesia [ジャワ語─インドネシア語辞典]. Yogyakarta: Penerbit Kanisius.
著者プロフィール

加納啓良(かのうひろよし) 東京大学名誉教授。経済学博士。専門は、インドネシアを中心に東南アジアの経済・社会・現代史。主な著作に、『インドネシア──21世紀の経済と農業・農村』御茶の水書房 2021年、『インドネシアの基礎知識』めこん 2017年、『東大講義 東南アジア近現代史』めこん 2012年、など。

『インドネシア──21世紀の経済と農業・農村』

『インドネシアの基礎知識』