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コラム
第10回 アラビア語(イラク)――「田舎のアラビア語」ですが、なにか
Arabic (Iraq): So what with mixed Arabic in Iraq?
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001745
Keiko Sakai
2026年2月
(6,175字)
マルチリンガルは片手間じゃ無理
語学はイヤだ。英語ですら苦手なのに、アラビア語といったら。
にもかかわらず、学部時代の第二外国語は、ロシア語。第三外国語にフランス語までとった。多言語を操る格好いいグローバル人材、を夢見ていたくせに、努力が追いつかず、全部かじっただけに終わるという、典型的な黒歴史である。語学は、汗まみれになる根性がなければ会得できない。
とはいえ、仕事上、アラビア語は勉強しないわけにはいかない。4年間、徹底的に語学を仕込まれる外国語系大学の出身者と違い、私の学部時代は歴史を専門とする恩師が片手間に教えてくれた程度。「君たちも名前ぐらいはアラビア語で書けないとね」という恩師のモティベーションだったので、半期のゼミでは一向に進まず、過去形(アラビア語動詞の基本形)と現在形の変化をかじったところで、終わった。
それを「アラビア語、勉強しました!」と強弁して、40年以上前にアジア経済研究所に中東担当として採用されたのは、まあ就活を乗り越えるための若者の可愛いウソと大目に見てもらうにしても、入所後のアラビア語研修も、汗まみれになってやりました、というには、程遠い。かつてイギリス外務省が運営していたレバノンのMECAS(Middle East Centre for Arab Studies)の教科書を使って、某大学の先生に出張授業をやっていただいていたのだが、先生ご自身は語学の専門ではなかった。細かい文法構造などすっぽかして、慣れない社会人を始めたばかりの3年間の研修では、到底実地で役に立つものではなかった。
ちゃんとした語学の専門家にも教わる機会があったのだが、その時の先生の言葉が今でも耳に残る。「勘のいい人は語学には向かないんだよね」。相手の言葉が全部わからなくても、文脈や空気、表情やトーンで、なにをいったのか、だいたいわかる。その分、ごく少ない単語量と文法的知識でコミュニケーションがとれてしまう。日常会話ではいいが、正確に内容を知る必要がある仕事や研究では、それじゃだめだからね、と釘をさされたのだ。
イラクで最初に覚えたアラビア語は「ミサイル」
研究所に入所して4年後には、在イラク日本大使館の専門調査員としてバグダードに赴任するのだが、現地に行った以上「アラビア語できません」では済まされない。本格的に勉強するぞ~、と決意するも、当時はまだイラン・イラク戦争(1980~1988年)の最中だった。両国間で、ミサイル攻撃の応酬が日常茶飯事。戦争の影響がなくても、サッダーム・フセイン率いるバアス党政権による自由の抑制、治安機関による監視の厳しいなか、自由に語学を学べる環境でもなかった。情けないことに、イラクで最初に覚えたアラビア語は、サールーフ(ミサイル)である。
大学で勉強したい、語学の家庭教師をつけたい、という希望をイラク政府に提出し、1年がかりで許可を得て、なんとかバグダード大学の図書館を使わせてもらい、ムスタンシリーヤ大学の著名な先生を家庭教師に迎えることができた。教科書を使ってきちんと文法を学んだのは、このときが初めてだったと思う。
戦時中はあちこちに土嚢を積んでいた。壁には銃痕が残る
イラク口語、癖強すぎ
その一方で、正則アラビア語は日常会話でこうも通用しないものか、と愕然としたのも、イラク駐在時代の経験である。アラビア語は、文字で書く文語体はフスハーと呼ばれる正則アラビア語だが、口語(アーンミーヤ)は地域ごとに大きく分かれる。エジプトの口語がフスハーと似ても似つかないのは赴任前から知っていたが、イラクはアラビストとして生活、駐在された先人(特に研究者)が多くなく、イラク口語がどういうものなのか、前知識がなかった。
最初に驚いたのは、行きかう人々が「シャローム」と言い合っていることだ。シャローム! ヘブライ語じゃないか! しかもバアス党時代のイラクは、イスラエルとは徹底した敵国である。いくらイラクにかつてユダヤ人が多く居住していたとはいえ(イスラエル建国前はイラクの経済を担っていたのがユダヤ教アラブ人だった)、まさかヘブライ語を日常的に使うなんて!
だが、よくよく聞いてみたら、「シャローム」ではなく「シュローン」だった。shu lawn、「なんの色」という意味で、そのあとに人称代名詞が来て、「あなたの顔色はいかが」=お元気? となる。お元気? という初歩の会話の表現が、エジプトの「イザイエック」izayekやシリアやヨルダンの「キーファック」kayfakと、全然違う。アラブ世界の「中心」を自負するエジプトやシリアからすれば、イラクのアラビア語は「田舎者」の言葉に聞こえる。ヨルダンやエジプトでタクシーに乗ってイラク方言を話したとたん、運転手が振り返って「お前、(ペルシア)湾岸くんだりから来たのかよ」などと、小馬鹿にしたように笑われた。
イラク口語の特徴的なことは、正則アラビア語で「なに」を意味するマーma、あるいはマーザーmadhaが、shuになることだ。おそらくayy shay’ (いかなるもの)から来たものだろう。エジプトでは、エ・ダye da、つまり正則アラビア語のayy(いかなる)から来たエーeと、「これ」を意味するhadhaを縮めた言い方になる。エジプトもイラクも、「いかなる」+「もの/これ」が短縮して口語になったのだが、イラクでは後半のシューが残ったので、違う言葉になったというわけだ。イラクに限らずシリアや湾岸でもshuは使うが、イラクでは「なにそれ?」というとき、シュヌーshunu? という。Shuのあとに「それ」を意味するhuwaあるいは「種類」を意味するnu’aがついて、略されてshunuになったようだ。なので、イラク人の会話のなかでshunu?と頻繁に出てくるものだから、ついつい「死ぬ?」と聞かれているように聞こえる。
「アラビア語」らしくない外来語
イラク口語のもう一つの特徴は、正則アラビア語にない発音が多用されることだ。Kと読まれるべきところがchと発音される(存在動詞の三人称過去形は正則アラビア語だと「カーナ」だが、イラク口語だと「チャーン」。響きが可愛い)。点一つのアルファベットbに二つ点を追加してpの音を表現する。Qは濁ってgの音になる。いずれも正則アラビア語にはない音なので、イラク人が話しているのを聞くと、アラビア語とは思えない音が頻出する。
Chやpの音はトルコ語やペルシア語から来ており、トルコ語、ペルシア語の外来語も数多い。アフマド・チャラビーAhmad al-Chalabiというイラクの政治家が、湾岸戦争からイラク戦争後しばらくの間国際社会を騒がせたことがあったが、Chalabiという名前はアラビア語起源ではなく、オスマン帝国時代の貴族の称号でトルコ語由来である。アラビア語に堪能な同僚にとっては、外来語が混じっているなど思いもつかなかったのだろう、私が原稿でこの名前に触れたところ、「これはシャラビの間違いだろう」と直されてしまった。シャラビ、というアラブの名しか思いつかなかったようだ。
イラク戦争後に首相候補として取り沙汰されたアドナーン・パーチャチーAdnan al-Pachachiは、パーチャというイラクの伝統的もつ煮込みの料理屋の家系なのだろうが、この料理はイランやコーカサス、ひいてはバビロンやカルデアなど古代メソポタミアに由来するといわれている。
「アラビア語世界」に多様性を投げかける
このような言葉や発音の違いは、イラクというアラブの国の「アラブ性」に疑義が投げかけられる要因の一つになっている。正則アラビア語も話せない、ペルシア人の血の混じった人たちに違いない、オスマン帝国の末裔のトルコ人にすぎないじゃないか、などといわれ、その結果、アラブ世界の辺境にあるイラクは周辺非アラブ諸国の浸食に脆弱だ、との見方がされがちだ。そして、言葉の多様性が、シーア派対スンナ派という「宗派対立」やクルドをめぐる「少数民族問題」と重ね合わせるように語られ、イラク国家の分裂、国内社会の分断に繰り返し警鐘が鳴らされる。
だが、本当にそうなのか? イラクはイランとトルコに引き裂かれ分裂するのか? その答えは否だ、というのが、私がイラク駐在の3年間で学んだことだ。イラクの人口の過半数がシーア派で、民族的にはアラブ人といっても隣国イランと同じ宗派ネットワークを共有しているため、「アラブ性」が薄い――。スンナ派のサッダーム・フセインの独裁政権が倒れてシーア派中心の政権が成立したら、イランの傀儡になってしまう――。湾岸戦争後、イラク戦争に至るまでの間、そんなわかりやすい構図に欧米諸国の政治家や研究者は飛びついたし、周辺のアラブ諸国も同様に考えた。アラブの国といいながら、アラブ世界の東の端のイラクでは変てこなアラビア語を話しているじゃないか、トルコやペルシア語の言葉が混ざっているじゃないか、と。
しかし、イラク社会は歴史的に、アラビア語起源でない言葉を当然のように受け入れてきた。イラク戦争以前から、bに点三つのペルシア文字をpとし、jに点三つでchとし、kに一本棒を加えた文字をgとするアルファベットが、活字として印刷物で使用されていた。1970年にバアス党政権が一方的に発表したクルド自治制(三月宣言)ではクルド語を公用語と認めたので、ペルシア系のクルド語アルファベットも当たり前のように使われていた。
この多様性、他言語への歴史的な寛容は、他のアラブ社会、特に東アラブ諸国ではあまり見られない。なにがなんでも純粋なアラビア語文字に落とし込まないといけない、というアラビア語至上主義は、イラクには当てはまらない。
エジプト人知識人と喧々諤々
さて、1980年代後半の3年間をイラク国内で過ごしたものの、相変わらず語学は上達しなかった。大使館という日本人コミュニティのなかにいては、どっぷりアラビア語だけに漬かるわけにいかない。日本から派遣された外務省の語学専門官の方が、自身の語学研修時代の生活を話してくれた。エジプト研修だったのだが、昼は寝て、夜にひたすら語学を勉強する生活をしていたという。日中はエジプト人がひっきりなしに訪ねてきて、こてこてのエジプト口語でしゃべりかけてくるので、通訳官としてはきちんとしたアラビア語を崩されてしまうといけないと思い、ひたすら自分の時間を確保した、というのだ。
私の場合は、その経験は逆の形で役に立った。1990年代後半、エジプトのカイロに赴任した際は、日中ただひたすらエジプト人(研究者や学生や出版社勤務などの知識人。基本的に議論が大好きな人たちだ)の間に混ざって、喋りまくった。アジ研時代の先輩にいわれたことだが、語学の出来不出来よりも、自分がいいたいことを持っていれば、無理してでも相手に伝えようと話す。90年代半ば、湾岸戦争後のもやもやしたアラブの空間にいて、エジプト知識人と議論することは山ほどあった。
イラク人ディアスポラから学ぶ「お国訛り」
さらにエジプトで貴重だったのは、カイロを拠点に世界各地のイラク人ディアスポラにインタビューをして回った経験だ。今度こそちゃんと語学を勉強しようと思い、家庭教師を探していたら、カイロに亡命していたイラク人が見つかった。彼にアラビア語の個人授業を頼んだのだが、毎回イラク情勢についての議論になってしまう。そのうち、シリアや英国やレバノンにいる亡命イラク人の連絡先を彼に教えてもらい、聞き取り調査をすることにしたのである。
この聞き取り調査が、すごかった。彼から教えてもらった反体制派の元締めみたいな人たちを各地で訪ね、さらにそこから雪だるま式に総勢80人近い反体制派にインタビューをしたのだ。今(2025年現在)となっては首相だの外相だの党首だの政界の裏役だの、イラク政権中枢の座に鎮座している要人に、1990年代、湾岸戦争後のロンドンで、ダマスカスで、ベイルートで、不遇をかこう弱小政党のしょぼいオフィスや自宅で、話を聞きまくったのである。
そのほとんどが、アラビア語だった。録音を認めてくれる人はいいが、たいていは拒否したり、録音し終わってからが本領発揮でべらべらしゃべりだすことが多かった。しかも、録音なしとなると好き勝手に話しだすので、お国訛り丸出しだし、特に年配の隠居政治家や軍人などの語りは発声も悪いし話は脱線するわで、正直ほとんど聞き取れなかった。あれが全部聞き取れていたら今ごろどんな名著が書けていたことかと、自身の語学力のなさを、これほど嘆いたことはない。
さらには、なんとか録音した会話を聞きなおしても、よくわからない。そこでカイロに戻った後、イラク人個人教師の助けを得て、文字起こしをした。自分なりに起こした文章を、先生に添削してもらう。ものすごい時間をかけてテープを聞いては書き起こすが、その大半が先生の赤字で直された。先生ですら、「これは訛りがきつすぎてわからない」と匙を投げることがたびたびあった。カイロ滞在時代の二年間は、イラク人の亡命先とカイロのイラク人の先生宅の間を行き来して、ひたすらイラク人との会話を聞きまくったのである。
イラク国内で聞き流していたアラビア語イラク口語だが、ここに至って、ようやく本当の「語学まみれ」になったのだ。
戦後のバグダードでアラビア語の拙著をアラビア語でお披露目するに至る
今、イラク人たちと(いまだにいい加減だが)アラビア語でコミュニケートできるようになったのは、30年も前になるこのエジプト駐在経験が大きい。エジプト人並みに、どんどん議論をしていくこと。海外に散ったさまざまな亡命イラク人の、地方色豊かで深い歴史的背景を持つ会話に、なんとかついていくこと。これらが、今の私の語学、というよりは研究対象と意見と気持ちを通い合わせることのできる能力を支えている。
Chの音を多用し、イラク人じゃなければわからないベタな訛りを交えて話すと、多くのイラク人が少し口角を挙げて、「お前、なんでイラク人並みに訛ってるんだ」とばかりに、こっそり目くばせしてくれる。ライフルを脇に抱えた警備兵も、筋骨隆々の民兵も、お国言葉で「イラク性」を感じ、祖国意識を再確認しているのである。
【好きなフレーズ】
شِنو نِشَاوِي؟
シュンサーウィ what shall we do?
「どうしよう、どうすりゃいいってのよ」
イラク・バグダードに赴任した1986~1989年、最初の2年間はイランとの戦争が泥沼化する日々だった。戦争初期は、戦争しても国民生活に影響を与えない、というのが当時の政府のスローガンだったが、年々戦況は悪化し、家計は厳しくなり、出征した父や夫や兄や息子が、遺体になるか障害を抱えて戻ってくる。いつ終わるともわからない苦境に、人々が口癖のように交わしていたのが、この言葉だ。
本来ならば、ふつうに「なにして遊ぶ?」とか、「今日の予定どうしよう」という意味で使われる言葉なのに、戦争と経済制裁と内戦が連続するイラクでは、「どうしようもできないわよねえ」という反語表現で使われる。女性たちの井戸端会議の〆の言葉がたいていこれだったことが強く印象に残っていて、イラクの近現代史を象徴している表現だと思う。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- 写真1 筆者撮影
- 写真2 バグダード国際ブックフェア主催者による撮影
参考文献
- 酒井啓子『イラクは食べる――革命と日常の風景』岩波新書、2008年。
- 酒井啓子・吉岡明子・山尾大編『現代イラクを知るための60章(エリア・スタディーズ115) 』 明石書店、2013年。
- 酒井啓子「亡命者が媒介する「他者のまなざし」――亡命イラク人と域内・国際政治の関係」五十嵐誠一・ 酒井啓子編『ローカルと世界を結ぶ(グローバル関係学 第7巻)』岩波書店、2020年。
- Wallace M. Erwin, A Basic Course in Iraqi Arabic (Georgetown Classics in Arabic Languages and Linguistics), Georgetown Univ Press, 2004.
著者プロフィール
酒井啓子(さかいけいこ) 千葉大学 国際高等研究基幹/大学院社会科学研究院特任教授、同グローバル関係融合研究センター長。英ダラム大学修士、京都大学博士(地域研究)。専門は中東地域政治(イラク)、国際関係論。主要業績として『フセイン・イラク政権の支配構造』(岩波書店、2003年)、『9.11後の現代史』(講談社現代新書、2018年)、Keiko Sakai and Philip Marfleet (eds.), Iraq since the Invasion: People and Politics in a State of Conflict, (New York: Routledge, 2020); Hiroyuki Suzuki and Keiko Sakai (eds.), Gaza Nakba 2023-2024: Background, Context, Consequences, (Singapore: Springer, 2024)がある。
