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コラム
第1回 湾岸アラブ諸国のエチオピア人労働者――脆弱な労働環境のなかで
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051820
2020年8月
(4,566字)
エチオピアから湾岸アラブ諸国への出稼ぎ労働者
エチオピアは、湾岸アラブ諸国に多くの出稼ぎ労働者を送り込んできた。特にサウジアラビアには国連のデータによると、15万人のエチオピア人の移住者がおり、アメリカへの移住者22万人に次いで多い1。公式データでは捕捉できない非正規移民も多く、2017年3月の時点でサウジアラビアには50万人のエチオピア人移民がいるという報告もある2。ただし、サウジアラビアは、世界各国から多くの移民労働者を受け入れているため、エチオピア人のプレゼンスは必ずしも高くない。サウジアラビアに居住する外国人総数のなかでエチオピア人は1.2%を占めるにすぎず、国別では15位である3。
その一方で、サウジアラビア政府は、自国民雇用促進政策(Saudization)にあわせて、2013年以降外国人の非正規労働者への規制を強化している。サウジアラビア政府は、大量のエチオピア人の非正規滞在者を強制帰還させており、2017年3月から2019年12月までの2年9カ月の間でも約34万人がサウジアラビアからエチオピアに帰国したと報告されている4。これに対して、エチオピア政府は、強制帰還の始まった2013年に、不法な人身取引や移住先での人権侵害への対策を講じることができるようになるまで、湾岸アラブ諸国への就労目的の渡航を一時禁止した。2019年には、各国と二国間協約などを締結して再開の準備が整い、ようやく渡航を再開させたところであった5。その矢先に新型コロナの感染が世界規模で広がったのである。
サウジアラビアでは、2020年3月2日に最初の新型コロナウイルス感染者が報告され、8月20日の時点で累計感染者30万3973人、死亡者3548人となっている6。3月から多くの湾岸アラブ諸国で渡航・移動の制限が行われてきた(ただし5月より制限緩和の方向にある)7。一方、エチオピアでは3月13日に最初の感染者が報告されたのち、感染拡大防止のため4月8日に非常事態宣言を発令して人々の移動を制限した。現在でも感染は急拡大しつつあるが、サウジアラビアより感染者も死者も少なく、8月23日の時点で、累計感染者4万671人、死亡者678人である8。
新型コロナの感染拡大のなかで、湾岸アラブ諸国にいるエチオピア人たちはどのような問題に直面しているのであろうか。
強制帰還の過程における感染リスク
多くの湾岸アラブ諸国では、非正規の外国人労働者は、摘発後、強制送還までの間収容所に入れられることになる。湾岸アラブ諸国にいるエチオピア人移民と新型コロナウイルス感染の喫緊の問題として、収容所において感染拡大のリスクにさらされていることが挙げられる。
感染拡大当初の2020年4月上旬に、サウジアラビア政府は、非正規労働者として摘発したエチオピア人約3000人を、新型コロナウイルスに感染しやすい状況にあるとして、感染の有無を確認することなく帰国させた。それに対してエチオピア政府は、大量の帰還者を受け入れる準備ができておらず、当面強制帰還を行わないようサウジアラビア政府に要請し、現在サウジアラビアからの帰還事業は停止している9。
しかし、その間も湾岸アラブ諸国では非正規滞在者の摘発は続いており、これまで以上の数の非正規滞在者が現地の収容所に入れられることになる。もともと収容所については、非衛生的な環境や不十分な食事提供などが指摘されており、新型コロナウイルス感染に対して脆弱な状況にあることを考えると、収容所の中で感染が拡大する危険性はひじょうに高い10。
不当解雇
移民たちはまた不当解雇の危機にも直面している。湾岸アラブ諸国では、外国人労働者はカファーラ制度と呼ばれる保証人制度のもとに雇用されており、雇用主が保証人となることで就労が可能となる。そのため、雇用主側に有利な雇用関係となっており、低い給与や過重労働、虐待などの問題が生じやすく、外国人労働者には十分な法的庇護もない。
このような雇用関係は、雇用主の経済状況が悪化したときには、簡単に崩壊してしまう。
たとえば、クウェイト政府は、2020年7月9日にコロナ危機の間は雇用主による被雇用者の「逃亡」(absconding)の届け出を認めないと発表した11。「逃亡」の届け出とは、雇用主が被雇用者が「逃亡した」と行政機関に届け出ることであるが、被雇用者側が法的措置を取るのを事前に封じるための方策として使われていることも多く、従来から批判されてきた12。今回、政府が「逃亡」の届け出を認めない理由は、これらの届け出の多くが、給与の支払いや食事や住居の提供、帰国費用の支払いなど、雇用主の義務とされていることを免れるための虚偽であったためだという。政府が「逃亡」の届け出を一時的にせよ禁止するということは、政府も看過できないレベルの数の雇用主による虚偽の届け出があったことを示唆している。
さらなる不可視化がすすむ労働環境
新型コロナウイルス感染拡大以前から、湾岸アラブ諸国における外国人女性の家事労働者の抱える問題として、個人の家という閉じられた空間の中で労働に従事することによる虐待や性暴力の問題が指摘されてきた(Esim and Smith 2004)。家事労働者は、外の社会から孤立しがちであり、連帯して労働条件改善の行動を起こすことも難しい。アラブ首長国連邦では、エチオピア正教会の信者は、教会の礼拝時に他のエチオピア人と会うことができるが、毎週礼拝に来られるというわけではない13。サウジアラビアでは、礼拝自体が禁止されており、エチオピア人同士の情報交換の機会は限られる。
国際機関や国際NGOは、新型コロナウイルス感染防止のための移動規制によって、外国人労働者の雇用環境が悪化することを懸念している。雇用主の家族全員が自宅に常時いるために、家事労働者の負担が増え、虐待のリスクは高まっている14。移動が制限されているなかで支援団体も迅速に対応することが難しい。家事労働者の存在はもともと不可視化されやすく、より閉鎖的な労働環境のなかで、生命を脅かすような深刻な事態にもなりかねない。
エチオピア国内では就業機会が乏しいために、多くのエチオピア人たちは湾岸アラブ諸国への移住を選択してきた。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によって湾岸諸国のみならず、全世界の経済が停滞状況にある。そしてエチオピアも例外ではなく、エチオピアに帰国したとしても、仕事があるわけではない。湾岸アラブ諸国にいるエチオピア人たちは、エチオピアへの帰国を選ぶのか、そのまま湾岸アラブ諸国に留まるのか、ひじょうに難しい決断を迫られている。
(付記)本記事はJSPS科研費 JP20H04415の成果の一部です。
写真の出典
- すべて筆者撮影。
参考文献
- Esim, Simel and M. Smith 2004. Gender and Migration in Arab States: The Case of Domestic Workers, Beirut: ILO Regional Office for Arab States.
著者プロフィール
児玉由佳(こだまゆか) アジア経済研究所新領域研究センタージェンダー・社会開発研究グループ長。博士(地域研究)。編著書に『アフリカ女性の国際移動』アジア経済研究所(2020)など。
注
- 2017年。UNDESA, International migrant stock: The 2017 revision(2020年7月13日閲覧)。
- IOM Ethiopia, Return of Ethiopian Migrants from the Kingdom of Saudi Arabia(2020年8月6日閲覧)。
- UNDESA, International migrant stock: The 2017 revision(2020年7月13日閲覧)。
- IOM, Emergency Post-Arrival Assistance to Vulnerable Ethiopian Migrants Returning from Saudi Arabia, IOM Ethiopia, Return of Ethiopian Migrants from the Kingdom of Saudi Arabia(2020年8月7日閲覧)。
- 2Merkato.com, Ethiopia Resumes Sending Domestic Workers to Saudi Arabia,(2020年8月7日閲覧)。
- Ministry of Health, Saudi Arabia, Daily Report 20 August 2020, twitter on 20 August,2020(2020年8月24日閲覧)。
- 外務省「サウジアラビアにおける新型コロナウイルス対策(7月12日)」(2020年8月11日閲覧)。
- 在エチオアピア日本国大使館「【緊急】エチオピア国内における新型コロナウイルス日本人感染者の発生について」(2020年8月13日閲覧), Addis Fortune, Covid-19 Updates: All the Stories and Commentaries on Coronavirus, in One Place(2020年8月24日閲覧)。
- Samuel Getachew, Ethiopian Workers are Being Expelled from Saudi Arabia and UAE on Coronavirus Suspicions, Quartz Africa(2020年8月11日閲覧), Financial Times, Saudi Arabia Repatriating Thousands of Migrants Back to Ethiopia(2020年7月14日閲覧)。
- Human Rights Watch, Gulf States: Ease Immigration Detention in Pandemic(2020年8月11日閲覧)。
- Migrant-Rights.org, Kuwait Drops All "Absconding" Cases Reported During Covid-19 Crisis(2020年8月11日閲覧)。
- Migrant-Rights.org,"The System is Down": Entrapment and the Arbitrary Power of Absconding Reports(2020年8月11日閲覧)。
- エチオピアにおける宗教の内訳は、エチオピア正教会44%、イスラム34%、プロテスタント19%、伝統宗教3%、カトリック0.7%となっている(2007年エチオピア国勢調査)。
- Rothna Begum, Domestic Workers in Middle East Risk Abuse Amid COVID-19 Crisis, Human Rights Watch(2020年8月11日閲覧)。
- 第1回 湾岸アラブ諸国のエチオピア人労働者――脆弱な労働環境のなかで
- 第2回 サウジアラビア――コロナ禍が直撃する移民労働者の生存戦略
- 第3回 コロナ禍が日本の介護領域における移民に与えた影響
- 第4回 沙漠の国のエクソダス――コロナ禍に揺れる湾岸アラブ諸国の外国人労働者たち
- 第5回 台湾――コロナ禍は家庭介護における外国人労働者・雇用主・仲介業者の関係改善の転機になるか
- 第6回 アジア移民ハイウェイと新型コロナウィルス
- 第7回 シンガポール――移民労働者への新型コロナウイルス感染拡大と市民社会
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