IDEスクエア

コラム

新型コロナと移民

第7回 シンガポール――移民労働者への新型コロナウイルス感染拡大と市民社会

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052039

2021年3月
(6,201字)

シンガポールは、外国人が人口の約4割を占める、高度人材から半熟練・非熟練労働者にいたるまで移民の労働力に大きく依存する国である。2020年のコロナ禍の下での状況について注目されるのは、移民労働者が住むドミトリー(宿舎)においてクラスターが多数発生し、国内感染者の大多数が移民労働者という状況に至ったことである。

筆者はこれまでシンガポールの移民政策と国民(市民)と移民の関係について研究を行っており、コロナ禍の政治社会的な影響に関心を持っている。本稿では、シンガポールにおける移民労働者への新型コロナウイルスの感染拡大に、政府および市民社会がどのように対応したか、またコロナ禍により移民労働者のシンガポール社会における位置付けがどのように「再考」されつつあるのかをみていきたい。本稿の考察は、主に現地報道、政府、NGO等のウェブサイトおよびSNSでの発信内容に依拠している。

ドミトリーの移民労働者への感染拡大状況

シンガポールにおいて、移民労働者の新型コロナウイルスの感染が最初に報告されたのは2020年2月初旬のことだった。最初の感染者であるこのドミトリーに住むバングラデシュ人建設労働者は、入院する前にリトル・インディアにある人気ショッピング・センターのムスタファ・センターを訪れていた。その後ほどなくしてドミトリーにおける感染拡大状況が明らかになっていき、3月末にはドミトリーでのクラスターの発生が報じられた。感染者数は増加の一途をたどり、5月にはシンガポールの累計感染者2万7541人(5月21日時点)のうち、9割がドミトリーの移民労働者であると報じられた1。ドミトリーに居住するバングラデシュ、インド、中国などからの30万人を超える移民労働者が感染の危機にさらされたのである2

写真:リトル・インディアの街並み(2017年11月)。

リトル・インディアの街並み(2017年11月)。インド、バングラデシュなど南アジア出身の移民労働者も休日を中心にここに集う。
コロナ禍でドミトリーの移民労働者が外出できなくなり、観光客も激減するなか、商店の苦境が伝えられる。

ドミトリーにおける「密」な居住状況が感染症に対して脆弱であり、日々多数の人びとが感染していくなか、政府は人材省と保健省を中心に、全力でドミトリーの感染拡大防止策に取り組むことになった。感染人数の多さ、国土の狭さと人口密度、移民労働者への依存度から考えれば、政府にとってこれは国家全体の問題であった。4月以降、シンガポール全域でサーキット・ブレーカー(部分的ロックダウン)が施行されるなか、ドミトリーの移民労働者の外出は禁止され、ドミトリー内の感染拡大防止のための保健衛生対策が実行されていった。また、密な状況の改善のために、仮設のドミトリーや改装された建物への移民労働者の移転も行われた3。感染拡大封じ込めの努力は実を結び、8月以降感染者数は減少していった。2021年1月末現在、国内での感染はほぼ抑えられた状態にある4

政府、NGO、移民労働者の協働

ドミトリーの感染拡大防止策においては、NGOやボランティアも大きな役割を担った。ドミトリーは生活の場であり、外出できなくなった移民労働者の生活支援、精神的な不安への対応は重要な課題であった。人材省は複数のNGOと協働し、ドミトリーの移民労働者への食料、日用品の配布、メンタルヘルスのサポートを実施した。こうしたNGOの活動は、主要メディアでたびたび報じられた5。2020年末には、主要英字紙『ストレーツ・タイムス』(Straits Times)の、「2020年に活躍したシンガポール人」の8人の候補の一人に、人材省と協力して移民労働者の感染拡大防止に尽力した30歳のNGO活動家がノミネートされている6。政府との直接の協働以外にも、たとえば移民労働者の問題解決に取り組んできたあるNGOは、コロナ禍のなかでドミトリーの移民労働者が抱える問題点について独自に自分のウェブサイトや主要紙上で発信し、積極的な支援活動を展開している7

また、移民労働者自身がボランティア活動を行っていることも報じられている。たとえば、あるバングラデシュ人労働者は、仕事を終えた後に、ベンガル語に翻訳された有益なニュースを自身が立ち上げた5000人以上のフォロワーがいるFacebookページにアップロードするほか、NGOと共に衛生用品など必需品の移民労働者への配布活動にも関わっている。また別のバングラデシュ人労働者は、移民労働者の福祉に関わるNGOの安全相談員として日に約30本の電話相談に答え、学校の生徒たちのボランティアの移民支援グループと協力して移民労働者に配布する必需品を集める活動にも従事した8

移民労働者のこうした姿が報じられることは、移民労働者が単に支援、保護されるだけの存在ではなく自らエンパワメントを図っていることを広く読者に知らしめ、シンガポール国民と一致協力して新型コロナウイルスと闘っているイメージを生み出すものであろう。それは、シンガポール社会における国民と移民の分断を退けることにもつながるのではないだろうか。

分断を阻止する――「我々の社会のメンバー」としての移民労働者の位置付け

報道内容において筆者が関心を持つのは、ドミトリーでのクラスター発生が移民労働者の存在と居住実態をめぐる問題を可視化させ、これまでの移民政策、移民労働者のシンガポール社会のなかでの位置付けを、国民(市民)の側があらためて問い直そうとする方向性が見えることである。たとえば、2020年5月に『ストレーツ・タイムス』に掲載された記事では、建設業の移民労働者の居住に関する歴史を追ったうえで、移民労働者を「見えない人々(invisible people)」として扱ってきたことへの反省が示された9。2021年1月の同紙の記事では、記者が移民労働者支援ボランティアの友人とともに、ドミトリー居住の移民労働者の気晴らしのために企画されたバスツアーに同乗した経験を語り、移民労働者の生活環境の改善の必要性を訴えている。そして、新型コロナウイルスは、「彼らと我々」がいるのではないことを我々に教えているとする。いるのはただ「我々」であり、皆相互につながっているというのである10。このどちらもアソシエート・エディターによる署名記事である。こうした意見の掲載は、世論への影響も考えてのことではないだろうか。

また、若く優秀な学生や院生が移民労働者の状況理解に関わる姿も伝えられている。2020年10月には、南洋工科大学でジャーナリズムを学ぶ学生たちが、通常の海外取材実習の代わりに実施した移民労働者へのインタビュー記事が『ストレーツ・タイムス』に掲載された 11。11月には、同紙の記事において、イギリス・オックスフォード大学のローズ奨学金を獲得した大学院生が、移民労働者の権利について博士課程で研究しようとしていること、ドミトリーにおける新型コロナウイルスがもたらした移民労働者の危機に怒りを覚えると共に考えるところがあったこと、自分の研究をよりよい状況をもたらす政策のために役立てたいという思いについて語っている12

2020年12月18日の国際移住者デーには、リー・シェンロン首相が英語のビデオメッセージでコロナ禍での移民労働者の信頼、忍耐、サポートに感謝を述べ、シンガポール人と同様に移民労働者のケアを行っていくことを保証した。また、移民労働者が我々の社会の歓迎されるメンバーであるとも述べた13。このビデオメッセージは、中国語、タミル語、ウルドゥー語、ミャンマー語、ベンガル語、ヒンドゥー語の字幕付バージョンもアップロードされた。移民が直接理解できる言語で発信するということは、移民の立場を考えているという政治的メッセージとしてとらえられるだろう。主要メディアも、このビデオメッセージの内容を報じた14

おわりに

新型コロナウイルスの感染拡大は、はからずも移民労働者を社会的に「見えない」労働者から、生活者として「見える」存在にした。そして、NGOやボランティアなどの市民活動を通じて、国民が移民労働者と直接関わり、新型コロナウイルスと共に闘おうとする姿が主要メディアで肯定的に報じられていること、移民労働者自身がリーダーシップを持ってボランティアを行う姿もメディアに取り上げられていることは、移民労働者の人権擁護のみならず、国民と移民の「顔の見える」関係性の構築、市民社会の一層の成熟をめざす方向性を示すものではないだろうか。

また、感染者の中心となった移民労働者への差別、移民労働者のスティグマ化を避けるためのメッセージが首相から発せられていることは、新型コロナウイルス感染拡大が移民労働者という脆弱な存在を直撃したことを国家の危機と受け止めたうえで、保健衛生上の対応と同時に社会的な危機と国民と移民の分断を退け、国民に市民としての成熟した対応を促し、シンガポール社会の安定性を保持しようとする政府の意思を示すものであろう。こうした政治社会的な方向性が、実際の移民労働者の居住、就労環境の改善や人権擁護にどう結び付いていくのか、また国民-移民関係に実際に変化をもたらすものであるのか、今後の動向に注目したい。

(付記)本記事はJSPS科研費JP20H04415の成果の一部です。

写真の出典
  • 筆者撮影。
著者プロフィール

石井由香(いしいゆか) 静岡県立大学国際関係学部教授。博士(社会学)。専門は国際社会学、地域研究(マレーシア、シンガポール、オーストラリア)。おもな論文に、「東南アジアの移民受入国――移民政策と国民-移民関係の類型化――」松尾昌樹・森千香子編『グローバル関係学6 移民現象の新展開』岩波書店(2020年)pp. 91-112、「序論 移民、難民をめぐるグローバル・ポリティクス」『国際政治』第190号(2018年)pp. 1-16など。

  1. Rei Kurohi, Kenny Chee, Timothy Goh and Salma Khalik, "9 in 10 Coronavirus Patients in Singapore Are Linked to Worker Dormitories," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  2. Rachel Phua and Ang Hwee Min, "In Focus: The Long, Challenging Journey to Bring COVID-19 under Control in Migrant Worker Dormitories," Channel News Asia(2021年1月24日閲覧)。シンガポールにおける感染状況については、本記事のほか、各時点でのThe Straits TimesおよびChannel News Asiaの記事も参照。
  3. 政府の対応については、現地報道および政府の関連ウェブサイトを参照。
  4. 本稿執筆時の2021年1月23日時点では、累計感染者数は5万9260人で、23日の新規感染者数はすべて新規入国者で10人、国内での発生は0人と、市中感染はほぼ抑えられている状況にある(保健省発表)。
  5. Ministry of Manpower, "Inter-agency Taskforce Coordinating NGOs’ Efforts to Support the Well-Being of Foreign Workers,"(2021年1月24日閲覧)。人材省と協働したNGOとしては、Migrant Workers’ Centre、HealthServe、Alliance of Guest Workers Outreach、It’s Raining Raincoats、Geylang Adventures、Crisis Relief Allianceなどがある。メディアの報道については、たとえば次の記事を参照。Rachel Phua, "NGOs Launch Initiatives to Help Migrant Workers Amid COVID-19 Outbreak," Channel News Asia; Rachel Phua and Ruth Smalley, "COVID19: No Spike in Number of Migrant Worker Suicides, Says MOM," Channel News Asia(2021年1月24日閲覧)。
  6. "ST Singaporean of the Year 2020: Raising Awareness about the Plight of Migrant Workers," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  7. Transient Workers Count Two (TWC2) ウェブサイト(2021年1月24日閲覧)。 あわせて次のNGOの活動も注目される。Humanitarian Organization for Migration Economics (HOME) ウェブサイト(2021年1月24日閲覧)。
  8. Natasha Ganesan, "Stepping Up in a Crisis: How Migrant Workers Took on Leadership Roles During Covid-19," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  9. Ho Sheo Be, "Reflections on Attitudes Towards Migrant Workers," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。Hoは主要紙を出版するSingapore Press HoldingsにおけるChinese Media GroupのNewsHubのアソシエート・ニュース・エディターで、本記事は『華字紙联合早报』に5月10日に掲載された記事の英訳として掲載された。
  10. Chua Mui Hoong, "Home Truths in the Year of Coronavirus," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  11. "Go-Far: Journalism Students Uncover Stories of Migrant Workers in Lockdown," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  12. Malavika Menon, "Pursuing Passion for Migrant Worker Issues: Rhodes Scholarship Winner Plans to Delve into Subject in Her PhD Studies at Oxford," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。
  13. Govsg, "(English) PM Lee Hsien Loong’s International Migrants Day 2020 Message,"(2021年1月24日閲覧)。
  14. Rei Kurohi, "PM Lee Thanks Migrant Workers for Their Trust and Support on International Migrants Day," The Straits Times(2021年1月24日閲覧)。