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コラム

新型コロナと移民

 
第9回 インド――そしてまた村に誰もいなくなった?

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052125

2021年5月
(4,994字)

はじめに

時計の針を新型コロナウイルス感染症パンデミック以前に戻そう。国連統計によれば、インド出身の移民は約1751万人(2019年)にのぼり、インドは世界最大の移民送出国であった1。インドはまた、海外からの送金受取額が約833億ドル(2019年)で世界最大の送金受け取り国でもあった2

そうしたなかで新型コロナパンデミックが発生したのである。ほかの移民送出国と同様、インドでも湾岸諸国など海外からの労働者らの帰還や送金受取額の低下予測について報道されている。しかし、海外送金はインドのGDPの2.9%(2019年)を占めるに過ぎない3。いくつかの海外移民の多い州を除くと、労働者らの帰国がマクロ経済に与えたマイナスの影響はさほど大きくないようにみられる。むしろインド国内でより注目を集めた移民は、国内の出稼ぎ労働者である。

国内労働移動の増加

インドの国内移動の規模は、先進国が産業化の過程で経験したよりも小さい。そのため、労働移動が労働者の送金などを通じた地域間経済格差の是正に貢献していないことが指摘されてきた。しかしながら、1990年代以降、国内労働移動の増加が明らかになっている。2007/08年時点でインドの移動労働者は約1億7500万人にのぼり、労働力の28.3%を占める4。さらに近年では短期の季節労働移動を含めた労働移動がますます増加し、年間900万人が州を越えて移動をしているとの報告もある5

とりわけ、人口規模が大きく、経済的に後進的な州であるウッタル・プラデーシュ州(2011年センサス人口1億9981万人)、ビハール州(同1億380万人)からの州外労働移動の増加(とくに男性)が著しい(図1)。男性の農村から州外都市への移動に限定すると、その半数が全国593県中わずか53県からの移動に集中しており、そのうち48県がこれらの2州の県に該当する6

図1 ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州からの 男性州外国内労働移動者数(千人、ストック)

図1 ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州からの 男性州外国内労働移動者数(千人、ストック)

(注)雇用、ビジネスを目的として前住地(ビハール州、ウッタル・プラデーシュ州)から州外に移動した男性。両州ともに2000年に分割されているが、1971年時点での州区分に基づく。センサスは10年に1度しか実施されないため、短期的な労働移動を把握するのが困難であり、移動者数は過小評価になる。
(出所)Census of India Tables D-3 various yearsより筆者作成。

では、なぜ近年になってこれらの州からの国内労働移動が増加したのだろうか。労働者の多くが向かう都市部には、教育や雇用機会、相対的高賃金職、インフラの整った生活といったプル要因がある。同時に労働者の出身地におけるプッシュ要因として、最貧州のひとつであるビハール州農村での筆者らの調査から得られる答えは、農地に対する人口圧力の上昇と村へのリクルーターの出現である(Tsujita and Oda 2014)。人口増加と男子均分相続の慣習によって農地の細分化が進み、農業だけでは十分に生活の糧を得られなくなった層の多くが、家計の生存戦略として非農業雇用の機会を州外に求めるようになった。また、下請け、あるいは二次、三次下請けリクルーターによる活動が村の集落レベルまで浸透したことで州外労働移動が加速度的に増加したとみられる。

そうした矢先、新型コロナウイルスのパンデミックが発生した。インド政府は、感染拡大防止対策として、2020年3月下旬から経済活動の制限、交通機関の運行停止を含む厳格な全国ロックダウンを2カ月以上にわたって導入した7。医療、食料、金融などの生活に必要なサービスを除き、公的機関、民間企業、教育機関は原則的にすべて閉鎖され、その影響を最も深刻に受けたのが、都市部において労働法や社会保障で守られず、しばしば低賃金で働く労働者らである。職を失った多くの出稼ぎ労働者らは、移動手段もないなか、遠い故郷まで徒歩で向かうことを余儀なくされたのである8

写真:2020年6月に特別列車で帰郷した一部の労働者たちは、降車駅で新型コロナの テストを受け、行政の用意した施設に14日間隔離された(ビハール州カガリア県)

写真:2020年6月に特別列車で帰郷した一部の労働者たちは、降車駅で新型コロナの テストを受け、行政の用意した施設に14日間隔離された(ビハール州カガリア県)

写真1(上)、2(下) 2020年6月に特別列車で帰郷した一部の労働者たちは、降車駅で新型コロナの テストを受け、
行政の用意した施設に14日間隔離された(ビハール州カガリア県)
帰郷の現実

ではそもそも農村では生活の糧を得られず、非農業雇用機会も限定されているために都市部で就労していた人々は、農村に戻って生計を立てることができるのだろうか。その鍵のひとつとなるのが、全国農村雇用保障法(2005年)であろう。同法では、農村全世帯に対して年間100日間以上の非熟練肉体労働の機会が保証される。労働者が希望してから15日以内に雇用が提供されなければ、失業手当が支給されることになっており、労働の権利と社会保障を目的としていることが特徴である。コロナ禍ではセーフティーネットとしての同法の重要性が増しており、2020年度の同法予算は、パンデミック発生後に貧困層救済策のひとつとして増額されたため、過去最高の1兆1150億ルピーとなった9。同法により提供された雇用延べ人日数はピーク時(2020年6月、7月)には前年度比で約2倍まで増加している10。しかし、これは主に既存の受益者の雇用人日数の増加によるもので、帰郷した出稼ぎ労働者のようなあらたな受益者の拡大によるものではない(Narayanan, Oldiges and Saha 2020)。すなわち、出戻り労働者には村での雇用機会が十分に与えられていないことが示唆されるのである。

しかしながら、帰郷した多くの移動労働者には長期間失業している経済的な余裕はない。いくつかの調査11からは、ロックダウン中に故郷に戻った移民労働者のうち、70%近くが都市部に戻ることを希望していることを示しており、すでに一度農村に戻った労働者たちの多くが都市に戻ったとも報じられている12。事実、失業率はロックダウン中ピーク時の23.5%(2020年4月)から感染第二波が猛威を振るい始める直前には6.5%(2021年3月)13まで回復している。

写真:コロナ禍での全国農村雇用保障法の下で働く労働者たち(ビハール州カガリア県)

写真3 コロナ禍での全国農村雇用保障法の下で働く労働者たち(ビハール州カガリア県)
おわりに

現在インドでは国境を越える移動は制限されており、また「医療崩壊」の危機に直面するほどの急速な感染拡大が続いているため、国内労働移動も再び減少する可能性が高い。しかし、13億を超える人口の半数近くを占める24歳以下の若年層が、今後労働市場に出てくる潜在的労働力として控えている。国内の農村から都市へ、あるいはインド国内から海外を目指す労働移動は、コロナ禍での中断はあっても今後も長期的に続くであろう。


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この連載の始まった2020年8月には、新型コロナウイルスの感染拡大がここまで世界規模で深刻な状況になるとは予想していなかった。当時200万人弱だった感染者数は、2021年5月1日の時点には1億5千万人を超えている(WHO)。今回をもって本連載は最終回となるが、新型コロナウイルスの問題が解決したわけではもちろんなく、ワクチン接種などでの新たな格差問題も明らかになってきている。このような状況が人々の移動にどのような影響をもたらすことになるのか引き続き注視していきたい。(児玉由佳)

(付記)本記事は、JSPS科研費16H01896および20H04415の成果の一部です。

写真の出典
  • すべてビハール州カガリア県庁提供
参考文献
著者プロフィール

辻田祐子(つじたゆうこ) アジア経済研究所新領域研究センタージェンダー・社会開発研究グループ主任研究員。PhD。近著に、Human Resources for the Health and Long-term Care of Older Persons in Asia(共編著、ERIA、2020年)、"An Analysis of Factors Influencing the International Migration of Indian Nurses"(共著, Journal of International Migration and Integration, 19 (3) pp. 607-624, 2018)など。

  1. 国連統計インド外務省によると在外インド人(Non-resident Indian)とインド系移民(Persons of Indian Origin)を合わせた移民は約3210万人(調査年不明)である(いずれも2021年4月12日閲覧)。
  2. World Bank Data(2021年4月12日閲覧).
  3. 注2に同じ。
  4. Irudaya Rajan S. and Bernard D’Sami (2020) "The Way Forward on Migrant Issues," Frontline, Vol. 27 No. 10, pp. 29-33(2021年4月13日閲覧)。データの出所である2007/08年全国標本調査では、1カ月以上、6カ月未満故郷を離れて就業した経験のある者を含めて移動労働者としている。
  5. Government of India, Economic Survey 2016-17(2021年4月13日閲覧).
  6. Ministry of Housing and Urban Poverty Alleviation (2017) Report of the Working Group on Migration, Appendix 1A(2021年4月12日閲覧)。旧ウッタル・プラデーシュ州、旧ビハール州の県も含める。雇用、ビジネス以外を目的とする移動も含める。
  7. 政府が厳重な措置に踏み切った背景にあるインドの医療政策の課題については、辻田祐子「インド:新型コロナで浮き彫りになる医療政策の課題」(『国際開発ジャーナル』2020年6月号、pp. 40-43)を参照。
  8. 新型コロナ対策のロックダウンに伴い、都市部における15歳以上の失業率は、9.1%(2020年1~3月期)から20.8%(2020年4~6月期)まで悪化した(National Statistical Office, Periodic Labour Force Survey (April -June 2020))(2021年4月18日閲覧)。
  9. Highlights of Finance Minister’s Simulus Package – VおよびUnion Budget(2021年4月17日閲覧).
  10. Government of India, Implementation of MGNREGS during COVID-19 Pandemic(2021年4月23日閲覧).
  11. NGOによる調査として、例えばSurvey on Migrant Workers: A Study on their Livelihood after Reverse Migration due to LockdownHow is the Hinterland Unlocking?(いずれも2021年4月15日閲覧)を参照。
  12. 例えば、Migrants Return to Delhi as India’s COVID-19 Deaths Top 50,000などを参照(2021年4月18日閲覧)。
  13. CMIE(2021年4月12日閲覧).