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(世界はトランプ関税にどう対応したか)第8回 タイ――経済と安全保障のリンケージ
Thailand: The Economic-Security Nexus
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001722
2026年2月
(4,513字)
2025年に発足した第2次トランプ政権は、米国の巨額な貿易赤字を「国家安全保障に対する脅威」と位置づけ、世界各国に対して「相互関税」(Reciprocal Tariff)を軸とする強硬な通商圧力を展開した。タイも当然のようにその標的となり、また相互関税をめぐる交渉の過程ではタイとカンボジアの国境紛争がとりあげられ、経済と安全保障に関する複雑なリンケージが顕在化した。本論では、タイの対米貿易黒字、交渉の経緯と枠組み合意に対する国内評価、米国が関税交渉と地域の国境紛争を結び付けた背景などを論じることで、タイの置かれている状況を整理したい。
米中貿易戦争を契機とした対米貿易黒字の増加
米国の発表によると、2024年のタイの対米貿易黒字は約460億ドルに達し、米国にとって世界で11番目に大きい貿易赤字相手国となった。2025年4月の大統領令および国際緊急経済権限法に基づく相互関税の賦課において、当初、タイに36%という高い税率が設定されたのは、このような貿易関係の不均衡が背景にあった。36%という相互関税は、インドネシア(32%)やマレーシア(25%)のそれを上回るものであったため、タイでは少なからず衝撃を持って受け止められた。タイ中央銀行は、タイからの総輸出の18%を占める米国向けが直接の影響を受けるほか、他国よりも相対的に高い相互関税が実施された場合、生産拠点がタイから移転する可能性を指摘し、潜在的な負の影響に警鐘をならした1。ただし、この時点では90日間の相互関税猶予が適用されたため、将来の見通しは依然として不確実であった。
タイと米国の貿易は、過去一貫してタイの貿易黒字であったものの、現在の規模まで拡大したのは、米中貿易戦争以降のことである。図1は、タイの対米輸出入額の推移を示したものである。2018年に米中貿易戦争が始まって以降、輸出の伸びが輸入の伸びを大きく上回るようになった。米国市場における中国のシェアが低下する一方、これを代替するように、ベトナム、マレーシア、タイなどの第三国のシェアが増加したためである。表1は、タイの対米輸出および輸入の上位10品目を示したものである。2024年時点で、対米輸出の主力は電子・電気機器と機械類であることがわかる。これと同じタイミングで、中国からタイへの直接投資が急激に増加した。とりわけ製造業に対する直接投資の増加が顕著であり、主な投資目的として、電気自動車(EV)、データセンター、プリント基板、エアコン、その他電子部品などの製造が含まれる2。米中間の貿易が縮小するなか、中国企業が本国以外で生産拠点を強化してきた様子が確認される。このことは、中国からの(中間財)輸入が増加していることとも整合的である。相互関税に先立つこれらの状況をまとめると、2020年代前半のタイでは、(1)米国の強硬な対中関税政策をきっかけに対米貿易黒字が拡大した、(2)タイ国内への投資増加や輸入拡大を背景として中国との経済的な結びつきはさらに深まった、同時に(3)タイを経由した中国製品の米国市場流入(迂回貿易)の懸念も高まった、ということができる。
図1 タイの対米貿易額(輸出および輸入)の推移
表1 対米貿易(輸出および輸入)における上位10品目(HS4桁分類)
19%にいたる交渉過程
タイの相互関税36%が公表されて以降、ペートンターン政権(当時)は、政府を挙げて米国との交渉に臨んだ。交渉の焦点は、相互関税の引き下げを実現するかわりに、米国が不満を抱いている分野で、包括的かつ説得的な譲歩パッケージを提示できるか否かにあった。タイが2025年5月に提示した交渉枠組みでは、(1)タイの関税および非関税貿易障壁の削減、特に果物や飼料用トウモロコシなど農産品の市場開放、(2)米国産物品の購入(エネルギー製品、防衛装備品、航空機・部品など)、(3)迂回貿易防止のための原産地規則の厳格化、(4)タイ企業による米国投資の拡大などを実施するとの内容が示された。しかし、ピチャイ副首相兼財務相(当時)が渡米し、米通商代表部と初の公式協議を行ったのは7月上旬であり、他国と比べて交渉の出足が遅かったという印象はぬぐえない。これは、ペートンターン首相(当時)が、カンボジアとの国境紛争の再燃と武力衝突のさなかに、前線を担当するタイ国軍司令官を批判し、カンボジア側におもねる発言を行ったことが批判され、憲法裁判所から職務一時停止処分を受けたことも影響しているだろう。
とはいえ、7月中旬には2回目の公式協議が実施され、交渉枠組みの見直しが実務者レベルで進展した。そこでは、対米貿易黒字削減へのコミットメント、エネルギー製品および航空機の追加購入などが議論された。この時点では、交渉の最終期限である8月1日までに、相互関税の引き下げについて合意がなされることを楽観的に予想する向きもあった。しかし、タイとカンボジアの国境紛争が解決しないなか、トランプ大統領は両国の停戦合意が実現しない限り、関税交渉を停止するとの判断を明らかにした。最終的には、トランプ大統領が両国の首脳に電話をかけ、双方とも停戦と和平を望んでいるとの言質を得て、停戦の方向性が定まった3。米国はタイの「誠意」を評価する形で関税交渉を再開し、7月31日の土壇場でタイの相互関税は19%となることが決定した。
枠組み合意に対する国内の評価
タイの相互関税19%は、マレーシア、フィリピン、インドネシア、カンボジアの相互関税と同等の税率であり、ベトナム(20%)を僅かに下回るものである。政府は、タイ経済の競争力を維持し、米国との密接な関係を確認するものとして、これを外交的成果と位置づけた。このことは、本質的な関心が、税率の水準そのものよりも、競争関係にある周辺国と比較した税率の高低にあったことを端的に示している4。
相互関税を含む協議の合意内容は、その後、相互貿易協定の枠組み合意として10月に公表された。米国が公表したファクトシートによると、合意内容は以下のように整理することができる5。(1)タイは米国製品の99%について関税を撤廃する一方、タイに対する相互関税は19%とする。(2)米国の工業製品および農産物に対する非関税貿易障壁を削減するとともに、デジタルサービス貿易に対する障壁を取り除く。(3)米国産品の購入額を具体的に示す。(4)知的財産、労働環境、環境の保護に対してタイが取り組む。(5)第三国による不正取引の監視など経済安全保障での連携強化、などである。タイにとって厳しい内容である一方で、経済の構造改革や環境改善を促す内容も含んでいる。一般に、相互関税の税率だけに注目が集まりがちだが、相互貿易協定には二国間の包括的な連携協定と類似の側面がある。
枠組み合意に対する国内の反応には、当然のことながら、懸念や批判的な見方も存在する。第一に、相互関税は中小の輸出企業に対する影響が大きいことである。相互関税19%という水準は周辺国と同等であったとしても、関税分の利益を確保できない中小の輸出企業は、米国市場での値上げにより競争力の低下が避けられない。第二に、農業など一部産業では、市場開放や関税撤廃による国内価格低下の圧力が大きい。例えば肉類の市場開放は、小規模で独立の養豚農家などに深刻な影響をもたらす恐れがある。影響の大きい特定の産業に対する対策が、政府には求められることになろう。また、デジタルサービス税の導入禁止など、いくつかの合意事項については、政策の柔軟性や主体性を制限しかねないとの指摘もある6。
本論執筆の2026年1月時点で、相互貿易協定はいまだ締結にいたっていない。協定締結の時期に加えて、今後の焦点は、原産地規則の厳格化に関する詳細など、現段階で具体的に定まっていない運用や基準の問題に移っていくものと考えられる。原産地規則の目的は、中国などが第三国を経由して米国に輸出を行うことで、高い関税を回避する可能性を排除することである。原産地を特定する基準としては、域内付加価値率、生産における中国産原材料の割合、国産原材料の割合などの要件がありうる。タイの主要な輸出品目である電子・電気機器、輸送機械・機器を見ると、国内付加価値の割合が60%を下回っており、中国産原材料の輸入も近年増加している7。そのため、議論の行方によっては、こうしたタイの輸出製品が、関税で不利な取り扱いを受けることにもなりかねない。輸出企業は状況の変化に応じて、生産工程や原材料の輸入先を柔軟に見直すことが必要になるだろう。
経済と安全保障のリンケージ
トランプ外交の特徴は、関税賦課をレバレッジ(てこ)として用い、経済や安全保障の分野で自国の利益を最大化するように取引を行うことである。今回、関税交渉の継続条件として、タイとカンボジアの停戦を要求した背景には、東南アジアの秩序と安定に果たす米国の役割を再認識させると同時に、東南アジアでも親中とされるカンボジアの国境問題解決に介入し、中国との関係にくさびを打つ目的があったと考えられる。米国の仲介行動は、7月28日の無条件停戦協定につながり、10月に開催されたASEAN首脳会議で、関係国の賛辞のなかトランプ大統領が和平調印式に招かれたことで、当初の目的を達したといえよう。
しかし、この停戦は長く続かず、11月に国境付近でタイ人兵士が地雷によって負傷した出来事をきっかけに、両国の非難の応酬と戦闘行為が再開し、わずか2週間で和平プロセスは中断することとなった。タイでは、国民のナショナリズムが高まり、和平への道は一層厳しいものとなっている。政権が国軍を統御できず、外交交渉主体と紛争実行主体との連携がとれていないことも、関税を交渉ツールとした地域安定化の試みが機能しなかった要因であろう。同時に、かつて自由貿易のルールを構築してきた米国が、これと正反対の立場で地域の秩序に関与することの副作用も指摘されている。トランプ外交に批判的な立場からは、経済と安全保障が取引主義のもとで短期的なリンケージ持つことにより、経済政策の不確実性はますます高まり、かえって中国の安定感に対する信頼が高まることにつながる、との指摘がなされている8。
相互関税の問題に際して、東南アジアの国々は迅速に米国との交渉を開始し、大幅な譲歩を含む合意をまとめた。これは、米国市場が重要であり、交渉の遅れが他国よりも不利な条件につながることを避ける狙いがあった。同時に、増大する経済の不確実性を解消しようとするリスク回避的な行動だったといえる9。タイに関していうと、経済と安全保障のリンケージが生じたことで交渉はより複雑なものとなった。相互関税と停戦に関する合意がいったんは実現したものの、停戦協定の枠組みが早急に破綻したことで、経済と安全保障の不確実性は解消できないままになっている。一方で、中国への依存を過度に高めることは、大国間のバランスを重視してきたタイにとって、新たな不確実性をもたらすことになろう。タイは、これらのリスクを最小化しながら、安定的な発展を模索することになるが、それが簡単でないことは誰の目にも明らかである。
写真の出典
- The White House(Public Domain)
著者プロフィール
塚田和也(つかだかずなり) アジア経済研究所開発研究センター経済モデル研究グループ長。専門はタイ経済、農業経済学、開発経済学。近年の著作は、「タイ経済と日本――日系企業の集積は続くか」(濱田美紀編『ASEAN と日本――変わりゆく経済関係――』アジア経済研究所、2024)、“Ensuring fertilizer quality in Vietnam's Mekong Delta: The role of government and market initiatives,” Development Policy Review 43(2), 2025 (共著)など。
注
- Bank of Thailand, “Media Briefing: Preliminary Analysis of the Impact of Global Trade Policies on the Thai Economy,” 17 April 2025.
- Thailand Board of Investment (BOI), Annual Foreign Direct Investment Report 2024 (in Thai).
- Nation Thailand, “Thailand fears missing 1 Aug trade deadline as Trump links deal to border conflict,” Nation, 28 July 2025.
- 磯野生茂「第1回総論――第2次トランプ政権の関税政策の衝撃と世界経済」IDEスクエア、2025年10月.
- Office of the United States Trade Representative (USTR), “Fact Sheet: The United States and Thailand Reach a Framework for an Agreement on Reciprocal Trade,” October 2025.
- Nation Thailand, “TDRI Warns of Major Risks in Thailand’s Reciprocal Trade Deal with US,” Nation, 27 October 2025.
- Supasyn Itthiphatwong, “Trade War 2.0: Lingering Risks on the Horizon,” Krungsri, 8 December 2025.
- Amy Searight, “In Southeast Asia, the promise and pitfalls of tariff diplomacy are on full display,” Atlantic Council, 12 December 2025.
- Gregory B. Poling, “Southeast Asia Navigates Trump’s Return: Quick Deals, Lasting Dread,” Center for Strategic and International Studies (CSIS), 6 October 2025.
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