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コラム

中国貴州・ミャオ族の村々から

第5回 村の匠たち(2)――文化を受け継ぐ人々
Village Artisans: Successors of the Ethnic Craftsmanship

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052208

2021年8月
(5,352字)

今回は、前回の黔東南ミャオ族トン族自治州丹寨県の隣、雷山県の村々を訪ね、銀飾(銀製の装飾品)と祭事用の蘆笙(笛の一種)の技術を受け継ぐ職人たちを紹介する。本稿の内容は、筆者らが2018年8月に実施した現地での聞き取りと提供資料および藤田ほか(2020)に基づく。

銀飾の匠

色鮮やかな刺繍や繊細なろうけつ染めとならぶミャオ族の伝統的な装いの特徴として、豪華な銀飾が挙げられる。伝統的な信仰のなかで銀飾は邪気を払い、平安を保つ吉祥の象徴と信じられてきた。そして、装飾品の大きさや数は、美しさだけではなく持ち主の家の経済的な豊かさを示すとされる1。婚礼などの儀式には欠かさず用いられ、銅鼓、蝶、魚、龍などの伝統的なデザインをモチーフとした、精巧な細工が施されている。

写真1 盛装した貴州ミャオ族の女性。

写真1 盛装した貴州ミャオ族の女性。

ひとくちに装飾品と言っても、盛装時に女性が身に着ける冠や首飾りといった大きなものから、腕輪やイヤリング、指輪、服や帽子に縫い付けられた小さな飾りに至るまで、さまざまな種類がある。なかでも女性がハレの日にかぶる銀の冠には4kgに達するものもあり、首飾り、腕輪などをフルセットで身に着けると、あまりの重さで身動きがとれないほどだという。

筆者らは雷山県の中国雷山苗族銀飾刺繍博物館を訪れ、銀飾の国家級伝承人の楊光賓さんに話をうかがった。同博物館は、地元のものを中心に貴州ミャオ族の銀飾や刺繍、織物などの工芸作品を数多く展示している。

写真2 中国雷山苗族銀飾刺繍博物館に展示されていた、銀製の冠(左)と首飾り(右)。

写真2 中国雷山苗族銀飾刺繍博物館に展示されていた、銀製の冠(左)と首飾り(右)。

楊光賓さんは1963年、600年以上の銀飾作りの歴史をもつ雷山県西江鎮控拝村に生まれた2。幼少時の村は非常に貧しく、13歳の時に父親から技術を学び始め、15歳で独立、16歳から弟子と共に周辺の村々を回りながら銀飾の製作を続けてきた。当時は慣習にしたがい、銀飾の技術は各家庭の息子にのみ伝えられ、村外に漏れないよう守られていた。ミャオ族は男系家族で、土地や家屋は息子が継承する。娘が生まれると父親は少しずつ銀飾を準備していき、結婚して家を出る時に嫁入り道具として持たせる。母親が自分の嫁入り道具を娘に譲ることもあるという3

楊さんの技術は高い評価を受け、2007年に国の無形文化遺産の伝承人に任命された。以来、製作のかたわら伝統文化の保全に関する各種委員会や大学での人材育成などの活動にも携わっている。博物館には銀飾や刺繍の工房が併設されており、各分野の伝承人が製作の実演や作品の展示販売など、来館者への啓蒙・普及活動を行っている。

楊さんは終始にこやかで、銀飾の製作工程や作品を紹介した後、工房で自ら製作工程を実演してくださった。工房の隅にしつらえた炉に火をおこし、楊さんが空気を吹き込むと、オレンジ色の鮮やかな火花が飛び散った(写真3、左上)。炉の中で真っ赤に熱せられた銀の塊を取り出し(右上)、木製の台にのせて金づちで叩いて成形する(左下)。首飾りなどの比較的大きなパーツは、あらかじめ鋳型でおおまかな形を作っておき、のみで細かな彫刻を施していく(右下)。銀飾の製作工程については、動画(「黔東南苗族(銀飾制作工芸)」『好看視頻』、中国語)に詳しい。

写真3 楊さんによる実演風景。細かい作業が多いため、老化で視力が落ちるとできなくなるとのこと。

写真3 楊さんによる実演風景。細かい作業が多いため、老化で視力が落ちるとできなくなるとのこと。

続いて、冠などに使われる小さな花飾りの製作工程を見せていただいた。細い銀糸と、薄く延ばして花びらの形に切り抜いた銀片を台の上に置き、楊さんが口にくわえた細いバーナーの火で熱しながらピンセットで成形すると、手の中にあっという間に花の形の飾りが現れた(写真4、上)。写真下は、銀糸を作るための工具である。上から順に少しずつ穴の大きさが小さくなっていて、線状に延ばした銀を順に穴に通していくことで、細く均等な太さの銀糸を作ることができる。巻いたり折り曲げたりした銀糸を重ねていくことで、デザイン性の高い、非常に繊細な細工が作られる。冠などをよく見ると、銀糸で作られた花や鳥などのパーツが多用されていることがわかる。すべての工程が細かい手作業で、一つの作品の完成までに膨大な手間と時間が費やされる。西江鎮では現在も銀飾業に携わる若者は多く、楊さんの息子も大学を卒業後、故郷に戻って仕事をしているという。

写真4 銀の花飾りの製作工程(上)と銀糸を作る道具(下)。

写真4 銀の花飾りの製作工程(上)と銀糸を作る道具(下)。
蘆笙の匠

楊さんの工房を後にし、雷山県の「排卡」(ミャオ語で「蘆笙づくりの村」の意)という村で蘆笙を製作する国家級伝承人、莫厭学さんの工房を訪れた。排卡村は80戸余りからなる小さな村で、12戸の蘆笙職人が工房をかまえる4。莫さんの工房の入り口には、国家級無形文化遺産に登録された蘆笙の技術伝承の場であることを示す木製の看板が掲げられていた。莫さんは、貴州省で唯一の蘆笙の国家級伝承人である。飾らない気さくな人柄で、材料の竹や半完成品が無造作に並んだ仕事場で話を伺った。

写真5 蘆笙の工房の看板(左)と、国家級伝承人の莫厭学さん(右)。

写真5 蘆笙の工房の看板(左)と、国家級伝承人の莫厭学さん(右)。

莫さんは1951年、排卡村の蘆笙職人の家に生まれた。16歳から父親に製作技術を習い始め、4代目を継承した。文化大革命による貧困と苦難の時期を経て、1980年代の市場経済化後、本格的に製作を再開した。2006年に蘆笙が国の非物質文化遺産のリストに入り、2007年に莫さんが伝承人に認定された。

蘆笙は、ミャオ族の冠婚葬祭や若い男女の社交の場である「游方」などで演奏される、伝統的な吹奏楽器である5。木製の本体とそこに縦に挿し込まれた6本の竹管、竹管に付けられた金属の薄いリードから構成され、リードを振動させることで音を出す。蘆笙作りには全部で60もの工程があり、本体に穴をあける工程で電動ドリルを使う以外はすべて手作業である。製作工程は動画(「独孤狼带你走進国家級非遺伝承人 莫厭学的苗族蘆笙制作技芸」『好看視頻』、中国語)に詳しい。

改革開放後の観光ブームや少数民族レストランの増加にともない、蘆笙の売れ行きは大きく伸びた。莫さんの工房では娘夫婦や弟子が働いている。一つの蘆笙を仕上げるのに二日半ほどかかり、販売価格は500元程度(1人民元=16円程度)である。地元を中心に、全国の民族レストランなどから注文があり、年間30万元ほどの売上があるという。

かつてはミャオ暦の小正月(グレゴリオ暦の11~12月)から田植えまでの間に蘆笙を吹くと稲が不作になるとされ禁じられており、オールシーズン型の観光の障害となっていたが(曹 2009)、今は観光地や都市部の民族レストランで時期を問わず演奏されている6。貴州省、広西省、湖南省などミャオ族の多い地域の小中学校や職業訓練校などで民族教育の一環として蘆笙の授業が行われており、学生や非ミャオ族の学習者も多い。しかし、莫さんは「伝統文化に関する学校での教育の過程で多くのことが失われていくように感じている」と語っていた。親から子へと家庭の中で行われてきた技術の伝承と、学校での伝承にはどのような違いがあるのだろうか。以下では後継者への伝承について、もう少し詳しくみてみよう。

後継者問題

前回から2回にわたり、紙漉き、銀飾、蘆笙の製作技術を受け継ぐ伝承人たちを紹介してきた。紙漉きの伝承人の王さんのように実子が後継者とならないケースもあるが、事例の村々では政府の人材育成プロジェクトや学校教育、観光業の発展などにより、それなりに後継者の確保には成功しているようにみえる。

ミャオ族社会があらゆる面で市場経済と分かちがたく結びついた現在、もともと家族や地域のためだけに製作されてきた作品に値がつけられ、商品として取引されることは、出稼ぎに代わる新たな経済機会として人々に歓迎されているようだ。むしろ、いまや十分な収入が保障されなければ、専業的に伝統工芸に携わる後継者を確保することは難しいだろう。担い手の利益を保護するためには、生産者組合や作り手と市場を結ぶ企業(詳しくは第1回第2回)、政府や援助機関の支援(第3回)に加え、近代的な知的財産権制度の整備によってコピー商品の氾濫などを防ぐことが不可欠だが、比較的年配の伝承人には知財権に関する意識が希薄な傾向があるという(文・衛2012)7

文化の伝承にまつわる問題は、経済的なものだけではない。蘆笙の匠の莫さんの懸念にもあるように、技術そのものは継承できたとしても、その技術が息づいてきた伝統的な生活スタイルを総体として伝えることは難しく、どうしても文化的な要素は次第に抜け落ちていく。加えて教育水準の向上、進学や就職を機にした都市への移住により、作り手の価値観や感性が変化し、本来の芸術性が失われていく恐れがある。

この問題は、主に女性によって担われ、家庭内で母親から未婚の娘に伝承されてきたろうけつ染めや刺繍などの技術において特に深刻にあらわれている。第1回で詳しく述べたように、1990年代以前に生まれたミャオ族の女性の多くはほとんど地域の外に出ず、女性への教育を軽視する伝統的な価値観や貧困のため義務教育も十分に受けていなかった。他の技術と比較してより習得に時間のかかるこれらの技術は、幼少時から結婚までの長期間にわたり娘が母親と家庭内で共に過ごすことによって伝承が可能であったため、近年の女性の就学率の上昇により十分な習得の時間が確保できず、存続の危機に瀕している。村リーダーの話では、2000年代に実施された義務教育費の無償化や少数民族の就学に関わる優遇政策の効果もあり、2000年頃は村から1人しか大学に進学しなかったが、調査時点でどの村も男女問わず5、6人は大学に進学するようになったという。

さて、筆者らが村での調査を終え省都の貴陽市に移動し、今回の滞在中最後の夕食をとるために貴陽市名物「絲娃娃」8のレストランに行くと、たまたま丹寨県基加村の藍染生産者組合(第1回参照)の副会長の息子とそのガールフレンドに会い、一緒に食事をすることになった。二人は同郷で、それぞれ河南省と貴州省の大学を卒業し、貴陽市の企業で働いている。24歳の息子は藍染の企業に勤めているとのことで、指先が染料で黒っぽく染まっていた。二人はどこか素朴な雰囲気を残しながらも、都会での生活を謳歌している様子だった。村にいたころから知り合いだったが、最近交際し始めたという9。食事をしながら、村で出会った人たちや見聞きしたことなどについて話をした。

店を出て空を見上げると、街の灯りに邪魔されてほとんど星は見えなかった。彼女に、村では満天の星がとてもきれいだったと言ったところ、あまり興味なさそうな表情をしていたのが印象的だった。厳しい競争を勝ち抜いて都市で就職し、目の前に広がるたくさんの可能性とその先にあるより豊かな生活に向かって突き進んでいく若者にとっては、村での生活は退屈で色あせて見えるのかもしれない。

これからミャオ族の社会はどのように変化し、伝統文化はどのように受け継がれていくのだろうか。予測することは難しいが、近い将来世代交代によって大きな岐路に立たされるであろうことはひしひしと感じられた。文化を受け継ぎ伝える人々と、彼らを支援しながら時代の変化に即した新しい文化のあり方を模索する人々の取り組みを、これからも見守っていきたい。

写真6 ミャオ族の少女。この子が大人になる頃、 ミャオ族の社会はどんなふうに変わっているだろうか。

写真6 ミャオ族の少女。この子が大人になる頃、 ミャオ族の社会はどんなふうに変わっているだろうか。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1 黄嚴逵、一位身着苗族服飾的女性(CC BY-SA 2.0
  • 写真2、4、5 2018年8月29日、筆者撮影。
  • 写真3 2018年8月29日、藤田香氏、右上のみ筆者撮影。
  • 写真6 Michael Mooney, 貴州黔東南的苗族女孩(CC BY 2.0
参考文献

(日本語)

  • 王慧琴(1996)「ミャオ(苗)族」厳汝嫻主編『中国少数民族の婚姻と家族 中巻』第一書房、237~254ページ。
  • 鈴木正崇(2012)「ミャオ族の歴史と文化の動態――中国南部山地民の想像力の変容」風響社。
  • 曹士才(2009)「西南中国のエスニック・ツーリズム」鈴木正崇編『東アジアの民衆文化と祝祭空間』慶応大学出版会、281~301ページ。
  • 藤田香・大塚健司・山田七絵・松永光平(2020)「地域資源をいかした持続可能なコミュニティ構築のための都市・農村間連携」『近畿大学総合社会学部紀要』第8巻第2号、39~69ページ。

(中国語)

  • 文永輝・衛力思(2012)「少数民族非物質文化遺産伝承人知識産権保護問題研究——以貴州為例」『貴州民族研究』第33巻総第143期、14~20ページ。
著者プロフィール

山田七絵(やまだななえ) アジア経済研究所新領域研究センター研究員。農学博士。専門は中国農業・農村研究。主な著作に、『現代中国の農村発展と資源管理――村による集団所有と経営』東京大学出版会 2020年。

追記
本連載は、科学研究費助成事業基盤研究(C)「日本と中国の地域資源をいかした都市・農村間連携モデルと持続可能コミュニティの創出」(17K2055、代表者・藤田香、平成29年度~平成31年度)の成果の一部である。研究会で実施した現地調査の詳しい記録は、藤田ほか(2020)に整理した。
  1. 鈴木(2012)によれば、かつて貨幣として流通していた銀はミャオ族が漢族商人との取引で代価として得た財産であった。かなりの銀は鋳潰されて銀飾となり、装飾品であると同時に持ち歩き可能な財産として定着した。かつてミャオ族は焼畑耕作を営み、常時移動していたことも、装身具に加工して身に着けた所以である。紙幣の普及により銀は決済通貨としての地位を失い、装飾品あるいは商品とみなされるようになった。
  2. 中国銀匠第一村――控拜」『黔東南新聞網』2019年12月16日によれば、控拝村は現在人口1000人余りの村である。明・清代は現在の雷山、丹寨、台江、剣河、雷公山などに通じる交通の要衝として栄えたが、清の雍正年間に中央政府による「改土帰流」(辺境の少数民族の統治政策を、それ以前の同民族による間接統治から、中央政府が科挙で選抜した官僚の派遣による直接統治へ移行した明・清時代の制度改革)に激しく抵抗したため、清軍によって村は破壊され、多くの村民は村を追われた。このような経緯により同村民は農業以外の生活の糧を必要としたため、農閑期に男性は銀飾の工具箱を担いで村々を回る、という就業スタイルが定着したという。
  3. 守芸人楊光賓:把苗族銀飾鍛制伝統技術伝承下去」『衆望新聞』2020年10月28日。同記事によれば、改革開放以前、職人は数カ月にわたり自分の村を離れて村々を回り、依頼を受けてその場で装飾品を製作していたという。当時は村のほぼすべての男性が銀飾の技術を習得していた。改革開放後は多くの職人が銀飾を放棄して大都市へ出稼ぎに出たが、楊さんは村に留まり製作を続けた。
  4. 『苗寨里的蘆笙匠』莫厭学」『捜狐』2017年11月15日。
  5. 王(1996)によれば、ミャオ族には若い未婚の男女の社交活動がある。黔東南ではこれを游方と呼び、地域により呼称は異なる。游方の目的は結婚相手を探すことで、農閑期に行われる祭事やその他の集団的な活動のある日に行われる。伝統的な游方の作法では、村外れなどにある游方坡(游方場、とも)で男性側が口笛や蘆笙を吹いて女性を誘い、日本でもかつて行われていた歌垣のような掛け合い歌や語らいを通して交流し、愛情を育んでいく。これらの活動は数人のグループで行われることが多く、必ず人から見える場所でオープンに行われる必要があるという。
  6. ミャオ暦では、農作物の収穫が終わる陰暦の10月(グレゴリオ暦の10~11月頃)が「苗年」とよばれる正月である。莫さんによれば、蘆笙の演奏がタブーとされているのはミャオ暦の小正月(苗年の半月後)から田植えの始まるミャオ暦の7月(グレゴリオ暦の5~6月頃)までの間である。曹(2009)によれば、1980年代以降ミャオ族の官僚や文化人などの民族エリートが中心となってミャオ族村の観光開発を進めていくなかで、観光地化を阻むタブーの多くは放棄され、伝統的な習俗や儀礼は観光客向けのパフォーマンスとして演じられるものへと変化していった。なお、苗年は一年を通して苗族の最も重要な祭日であり、闘牛、競馬、闘鶏、蘆笙や太鼓などの民族楽器の演奏、舞踊などの伝統的な催しが行われる。2008年に無形文化遺産に認定された。
  7. 同論文は、本稿に登場する楊光賓さんと莫厭学さんを含む貴州ミャオ族の無形文化遺産の伝承人42人に対するインタビューに基づき、年配の伝承人の多くはブランドや特許について知ってはいるが、知財権に関する理解は曖昧であると述べている。例えば、楊光賓さんの名前が刻印された銀飾作品は他の職人の銀飾の約4倍の価格で取引されているが、楊さんは自身の商標を登録するという考えは持っていない。また、莫厭学さんの名前を他の職人が断りなく使用して自分の蘆笙を販売したことがあるが、莫さんは先祖から受け継いだ技術から得られる利益をミャオ族コミュニティ全体に帰するものとみなしており、このような行為を問題視していないという。逆に2003年、莫さんが音域を広げるために竹管を本来の6本から18本に増やした蘆笙を販売したところ、すでに同様の蘆笙で特許を取得していた演奏家から起訴されるという事件が発生した。
  8. 貴陽市名物の小吃(軽食、おやつ)。詳しくは次回紹介する。
  9. 鈴木(2012)によれば、近年ミャオ族の若年層には掛け合い歌による恋愛を恥ずかしがる者が増え、この風習は消滅しつつあるという。この二人からも、都市部の今どきの若者とあまり変わらない印象を受けた。