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コラム

文化ののぞき穴

 
第9回 いま、大地の子たちが伝えてくれること――一心とビクトルの物語

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051354

2019年5月

(5,576字)

二つの訃報に接して

昨年9月15日、中国の名優・朱旭が療養先の北京で88年の生涯を閉じた1。それから1カ月余り後の11月3日、戦後の日本の柔道界やアマチュア・レスリング界に多大な貢献をした世界的なサンボ選手、ビクトル古賀(日本名:古賀正一)が85歳でこの世を去った2。全く異なる世界で活躍した二人だが、ひとつ共通のキーワードがある。それは、かつて中国東北部に存在した日本の傀儡国家、満洲国である。

朱旭は1930年生まれの遼寧省出身の舞台俳優で、中国内外で数々の賞に輝いた名優である。日本でその名が広く知られるようになったのは、NHKと中国の中央電視台の共同製作による1995年のテレビドラマ「大地の子」で演じた、主人公の日本人戦争孤児・陸一心(演・上川隆也)の養父・陸徳志役である3。日本人であることによる差別や偏見に苦しめられる一心を、実子同様に命がけで守る彼の慈愛に満ちた姿に、涙を流した視聴者も少なくなかっただろう。晩年は映画やテレビドラマに多数出演しており、日本でも公開されたテレビドラマ「ラスト・エンペラー」では晩年の愛新覚羅溥儀役を、映画「澡堂」(邦題「こころの湯」)では北京の下町で銭湯を営む温厚で愛情深い父親役を好演している。

ビクトル古賀は、1935年満洲国北部のソ連国境に近い軍都ハイラルで生まれた。父は北満で毛皮商人として成功を収めた日本人実業家の古賀仁吉、母は亡命コサックの娘クセーニアである4。母方の祖父フョードルはかつてロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世の近衛騎兵を務めた人物で、革命後は満洲に亡命し関東軍の庇護を受けながらコサック村の頭目(アタマン)として生活していた。ビクトルは10歳の時に終戦を迎えるが、ソ連軍のハイラル侵攻の戦火のなかで家族と生き別れ、ハルビンから引揚船の出発港のある錦州まで1000キロもの道のりをたった独りで歩き通し、父の祖国である日本へ帰還を果たした。

本コラムでは二人の巨星を偲びつつ、終戦後の満洲を舞台にした二人の少年の物語が私たちに投げかけるメッセージについて考えてみたい。以下はドラマ「大地の子」および山崎豊子による原作小説と随筆・インタビュー集(山崎 1991; 1996)、ビクトルの引き揚げ体験をまとめた石村(2012)に基づく。

日本人戦争孤児、陸一心

「大地の子」は日本人戦争孤児・陸一心(日本名:松本勝男)の半生を、父子の恩愛と二つの祖国という二つの軸で描いた壮大な人間ドラマである。主人公と朱旭演じる中国人養父の陸徳志の関係を中心に、あらすじを振り返ってみたい。

日本政府の呼びかけで長野県から満洲に渡った満蒙開拓団の子として、勝男はソ満国境に近い村で家族と暮らしていた。日本の敗色が濃くなった1945年、大本営と関東軍は対ソ戦略として密かに満洲の大部分を放棄して南へ退却し、多数の民間人がソ満国境付近に置き去りにされた5 。当時7歳の勝男は、過酷な逃避行と侵攻してきたソ連軍の虐殺によって祖父、母、生まれたばかりの妹を相次いで喪い、最後に生き残った妹のあつ子とも生き別れとなってしまう。その後人買いに騙されて長春の道端で売られていたところを、小学校の教師であった陸徳志に引き取られる。

徳志と妻の王淑琴は彼を一心と名付け、つつましい暮らしの中で深い愛情を注いだ。やがて国共内戦の激化により長春が共産党軍に包囲され、一家は長春郊外へと脱出を図るが、検問所で兵士に不自由な中国語を咎められた一心を徳志は身を挺してかばう。この時一心は初めて徳志を父と呼び、二人は強い親子のきずなで結ばれる。

一心は刻苦勉励し、大学卒業後は技術者となって北京の鉄鋼公司に配属される。ところが文化大革命が始まると、日本人であることを理由に迫害の対象となり、無実の罪で辺境の労働改造所に送られてしまう。徳志は息子の冤罪を晴らすため、危険を冒して北京の人民来信来訪室(地方在住者が中央政府に直訴するための窓口)まで出かける。奇跡的に釈放された一心が北京駅で5年ぶりに父と再会する場面は、このドラマの最も印象深いシーンのひとつである。

時代は改革開放へと移り変わり、一心は日中合作の製鉄所建設プロジェクトのメンバーに抜擢される6。そこで偶然にも日本側の上海事務所長を務めたのが、実父の松本耕次(演・仲代達矢)であった。松本も満洲に残した家族を捜しており、二人は河北省の農村であつ子を見つけ出すが、長年嫁ぎ先で酷使されていた彼女はすでに死の床にあった。プロジェクト終了後、日本への帰国を望む実父の言葉に一心の気持ちは揺らぐが、中国の父の深い恩愛を思い、自分を育んでくれた中国の大地で生きていく道を選ぶ。

本ドラマの原作は、山崎豊子が3年間の現地取材を含め1984年から8年がかりで書き上げた長編小説である。当時中国での取材は極めて困難であったが、山崎は幸運にも胡耀邦国家主席のバックアップを得たことで、未開放地区であった農村部や労働改造所での取材、日本人孤児へのインタビューを行うことができた。

このドラマの成功の秘訣は、原作の良さはもとより日中双方の配役の素晴らしさにもあるだろう。当時まだ無名の舞台俳優であった上川は、過酷な運命のなかでまっすぐに生き抜いていく一心を熱演しており、精悍さの中に憂いをたたえたまなざしが印象的である。そして主人公を包み込むような人間的な温かさに満ちた養父役の朱旭、深い悲しみと孤独を背負った実父役の仲代、という組み合わせはぴったりだった。ドラマの中で上川は流暢な中国語を披露しているが、実は当時中国語が全くできず、セリフは全て丸暗記であったということにも驚かされる。

当時の中国の情勢を考えるとドラマ化が実現したこと自体が奇跡的であるが、本作は文革や農村の貧困問題など政治的に敏感なテーマを扱っていることから、当局から脚本に対してかなり厳しい介入があったという。そして残念ながら、本作はいまだに中国で放映されていない。日本の読者からは陸一心のその後を描いた続編を望む声も多かったというが、これも実現することはなかった。

ユーラシアの歴史を運んできた少年、ビクトル

陸一心と同じく満洲で終戦を迎えたビクトルは、日本に無事生還できた幸運な少年のひとりである。日本人の満洲引き揚げ者の記録は大量に残されているが、たとえば幼い子どもを抱え帰還した女性の記録である藤原(2002)のように、多くは悲惨さに満ちている。ビクトルの物語のなかにも日本の引き揚げ隊に置き去りにされたり、体調を崩して死を意識したり、避難民の凄惨な虐殺現場を目撃したりといくつも暗い場面はある。それにもかかわらず、彼の個性なのかコサックの性分なのか、不思議と冒険譚のようなカラッとした明るさと力強さが感じられる。

ビクトルは古賀家の長男として生まれたが、祖父フョードルにとりわけ可愛がられ、コサックの兵士としての生き方を教え込まれた。幼いころから自分の馬を与えられ、たびたびコサックの仲間たちと郊外のホロンバイル草原に繰り出し、自然の中で生き抜く技術を体得した。ビクトルは堅苦しい日本人社会よりもおおらかなコサックの生活を好み、二つの世界を行き来しながらたくましく成長していく。人懐こく好奇心が旺盛で、様々な民族が混住するハイラルの町で母語の日本語とロシア語以外にも中国語、モンゴル語などを覚えていった。

写真1 20世紀初頭のコサック騎兵

写真1 20世紀初頭のコサック騎兵。

写真2 ビクトルがコサックの仲間たちと駆け回った、ホロンバイル草原

写真2 ビクトルがコサックの仲間たちと駆け回った、ホロンバイル草原。

ソ連軍がハイラルに侵攻した1945年8月9日の朝も、ビクトルは仲間たちと草原で馬を駆っていた。母や兄弟を見失い、ハルビンで再会した父は共産党の要請で残留することになり、ビクトルは単独で日本の引き揚げ隊と共に帰国することになる。ところが、ロシア的な容貌が災いして引き揚げ隊から排除され、荷物を奪われ荒野に投げ出されてしまう。ここから、ビクトルの2カ月以上にわたる単独行が始まったのである。

ビクトルは物盗りの潜む危険な線路から一定の距離を保ち、太陽の位置、川のせせらぎ、風や雲の動きに注意しながら慎重に進んでいった。ほとんど所持品がなかったにもかかわらず、コサックのサバイバル術のおかげで飢えや渇きに苦しんだ記憶がないという。得意のロシア語を駆使して食べ物を分けてもらったり、靴を死体から失敬したり、放置された遺体に祈りを捧げたりしながら、ビクトルは南へと進んだ。耳元には時おり祖父や母の言葉、仲間たちの歌声が蘇り、彼を励ました。  

ビクトルは1000キロ以上の道のりを踏破し、1946年12月に無事に佐世保港に到着した。とはいえ父は不在、母は消息不明という孤児の境遇であった。彼は東京で親戚の家を転々としながら孤独な青春を送り、コサック出身の作家ショーロホフの「静かなるドン」を読んでは懐かしいハイラルに思いを馳せた。ようやく一家が日本で再会を果たすのは、8年後の1953年のことであった。

ビクトルは大学時代から本格的に格闘技に取り組み、日本人初にして最強のサンビストという栄誉に輝く。それでも彼は自分の人生でいちばん輝いていたのは10歳の時だった、と繰り返し語っている。ソ連成立後、コサックの共同体は徹底的に弾圧され、葬り去られた。ビクトルはまさに最後のコサックとして、その血と歴史を日本に運んできたのである。

写真3 ビクトル古賀

写真3 ビクトル古賀。写真には署名とともに、ロシア語で
「ソビエト連邦スポーツマスターの称号が1975年11月26日授与された」とある
苦しみは終わらない

本コラムでは、終戦後の満洲で孤児となった二人の少年の物語を紹介した。一心は昭和恐慌で疲弊した日本の農村から開拓移民として、ビクトルはロシア革命という大きな歴史の流れにのって満洲へ運ばれてきた。そして終戦後の混乱に巻き込まれ、生い立ち、外見、年齢などの属性や引き揚げ時の状況といった偶発的な要因によって数奇な運命をたどることになった。彼らは時代のうねりに抗うすべもなく、自分たちを待ち受ける過酷な運命をただ受け入れるほかなかった。

二人の体験は壮絶であるが、辛くも生き延び、高等教育を受けることができ、肉親に再会できたという意味では一握りの幸運な孤児であったといえる。多くの戦争孤児にインタビューを行った山崎によれば、戦争孤児の大部分は一心の妹のあつ子のように教育の機会も与えられず自分が何者であるかも分からないまま、広大な農村のどこかで朽ちていった。彼らはまさに「大人たちの侵略の罪業を幼い背中に背負わされた」(山崎 1996、212)、見捨てられた子どもたちであった。

戦後日本は目覚ましい復興を遂げたが、繁栄の陰で満洲に取り残された人々の存在は次第に忘れ去られていった。満洲からの集団帰国事業は1958年に打ち切られたが、日本政府は1972年の日中国交回復後も戦争孤児や残留婦人に援助の手を差し伸べることはなく、肉親探しは民間ボランティアが行っていた7。ようやく1981年に政府による肉親探し事業が再開されるが、時間の経過により身元判明率は回を追うごとに低下していった。運良く身元が判明し帰国できたとしても、多くの孤児が周囲の偏見や言語の壁などから中国と日本いずれの社会にも適応できず、二つのアイデンティティの間で苦しんだという8

第二次世界大戦を体験した世代が次々と世を去り、戦争の記憶は急速に風化しつつある。二つの作品が示すとおり、国家間の戦争が終結しても直ちに平和が訪れるわけではなく、終戦はむしろ一部の人々にとっては新たな悲劇の始まりにすぎない。そのような混乱の中で犠牲になるのは、多くの場合子どもや女性などの弱い人々である。そして、苦しみや憎しみの記憶は幾世代にもわたり消えない傷跡を残す。残されたメッセージから何を学び取り、次の世代に伝えていくかは、私たちの手に委ねられている。

写真の出典
参考文献
  • 石村博子(2012)『たった独りの引き揚げ隊』角川書店。
  • 陳天璽・大西広之・小森宏美・佐々木てる編(2016)『パスポート学』北海道大学出版会。
  • 藤原てい(2002)『流れる星は生きている』中公文庫。
  • 安冨歩(2015)『満洲暴走 隠された構造-大豆・満鉄・総力戦』 角川新書。
  • 山崎豊子(1991)『大地の子 (上・中・下)』 文藝春秋。
  • ―――(1996)『「大地の子」と私』文藝春秋(文春文庫版は1999年)。
著者プロフィール

山田七絵(やまだななえ) 。アジア経済研究所新領域研究センター研究員。農学博士。専門は中国農業・農村研究。最近の著作に、「都市・農村発展の一体化に向けた農村改革の到達点と課題」(岡本信広編『中国の都市化と制度改革』アジア経済研究所、2018年)、「中国における「農業産業化」と小農経営の変容――農業専業合作社による大規模畑作経営の事例」(清水達也編『途上国における農業経営の変革』アジア経済研究所、2019年)。

書籍:研究双書「中国の都市化と制度改革」

書籍:研究双書「途上国における農業経営の変革」


  1. 「中国の俳優・朱旭さん死去 日中合作『大地の子』養父役」『朝日新聞デジタル』2018年9月15日。
  2. サンボは旧ソ連で開発された格闘技。柔道やレスリングと共通点が多く、関節技を多用することが特徴である。「『最後のコサック』ビクトル古賀の壮絶人生」『現代ビジネス』2018年11月18日に、ビクトルの晩年の様子が記されている。
  3. NHKオンデマンドで視聴可能(有料)。山崎は自分の意志で「残留」したのではなく国によって置き去りにされた人々であるとして、一般的に用いられる「中国残留孤児」という言葉ではなくあえて「戦争孤児」という呼称を使っている。本稿での表記も、これに従う。
  4. コサックは、ロシア皇帝に忠誠を尽くす軍事集団であった。平時はロシアの辺境で農耕や牧畜に従事し、有事には騎兵として戦闘に参加した。
  5. 終戦までに27万人の日本人が開拓団として満洲に渡っており、終戦時の満洲には150万人の日本人がいたという(安冨2015)。
  6. 新日本製鐵による上海宝山製鉄の日中合作事業がモデルとなっている。
  7. 1945年9月以降、中国に残された日本人の移動(特に日本への永住・定住)は基本的に日本国籍・戸籍の有無を通じて管理された(陳ほか編 2016)。1959年の「未帰還者特別措置法」によって7年以上生死不明の未帰還者に対する一方的な戦時死亡宣告が認められると、対象者は戸籍から抹消され帰国の道を閉ざされた。この状況は1980年代以降身元引受人制度の実施により改善していくが、終戦時に12歳以下だった残留孤児には民間の身元引受人がいれば永住帰国が認められる一方、13歳以上だった残留婦人に対しては肉親しか認めないなど厳しい制約が設けられた(安冨 2015)。
  8. 山崎は「大地の子」の印税を使って奨学基金財団を設立し、日本に帰国した戦争孤児が高等教育を受けるための支援を行った。

*ロシア語の解読に際して同僚の岡奈津子氏に協力いただいた。記して感謝したい。

【連載目次】

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