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コラム
第3回 国境を越える看護師と医療体制確保との両立――インドのジレンマ
The Dilemma of International Nurses Migration and Assuring Health Care System in India
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053492
2022年10月
(3,847字)
今日も世界中のいたるところで新型コロナウイルス感染症拡大防止や患者の治療に当たる医療従事者の奮闘が続いている。しかし、ストレスや燃え尽き症候群による退職、休職、時短勤務への切り替えなどにより、多くの国では医療従事者の不足が深刻化している。そこで、資格を持ちながら医療現場を離れている人材への復職の呼びかけのほか、先進国では外国人の採用が行われてきた。具体的には、海外での新規採用、自国で就労する外国人医療従事者への就労許可や滞在資格の自動延長、本来就労国での資格が必要でも外国の免許を一時的に認めるなどの措置である(OECD 2020)。以下、医療従事者のなかでも最大のシェアを占める看護師に絞って話を進めよう。
看護師の不足と偏在
多くの国ではコロナ禍以前から看護師不足が顕在化していたが、コロナ禍でその状況が一層深刻化している。WHOによると、2030年までに全世界であらたに900万人の看護師が必要とされる1。外国人看護師の受け入れ国である先進国の多くでは、人口当たりの看護師数はコロナ禍以前の20年間で微増している(OECD 2021)。それでもなぜ看護師は不足しているのだろうか。
先進国では人口高齢化により慢性疾患や認知症などが増え、それに伴う看護や介護の需要が増加している。さらに国によっては民間部門の医療サービスの拡大や外国人に医療サービス提供を謳った医療ツーリズムを促進していることが、看護師の需要増加に拍車をかけている。ところが、看護師予備軍の若年層は少子化で減り続けており、現役看護師の高齢化や退職なども相まって、自国での看護師養成による供給が追い付かなくなっているのである。
その結果、多くの先進国ではコロナ禍前から人手不足の解消手段として外国人の採用が行われてきた。2015/16年時点で、先進国平均で看護師の15.8%が外国生まれと報告されている(OECD 2020)。先進国にくわえて、医療従事者を恒常的に外国人に依存する中東湾岸諸国も主要な看護師受け入れ国である。これらの受け入れ国では、保健医療、労働、入国管理の各政策に基づきつつ、国内の雇用情勢を見極めながら、外国人看護師の受け入れ規模を調整してきた。コロナ禍では、国際的な人の往来を厳しく制限していた時期でも、医療従事者の大幅な需要増に伴い彼(女)らの入国を優先的に認めていた国も少なくない(OECD 2020)。
一方で、看護師送り出し国の多くはアジアやアフリカの途上国である。途上国の人口当たりの看護師数は先進国よりも大幅に少ない(図)。さらに都市などに看護師が偏在するなど国内格差も大きい。すなわち、コロナ禍で各国ともに医療従事者の確保に奔走するなかで、看護師はより数の少ない途上国からより数の多い先進国に向かっており、途上国の医療制度をさらに弱体化させる可能性が高いのである。
先進国で就労する外国人看護師の最大の送り出し国は、フィリピン(23.8万人)、次いでインド(8.8万人)である(OECD 2020)。両国をはじめとして途上国の看護師は、自国の低賃金、厳しい労働条件、劣悪な労働環境、訓練の機会の不足などの要因により、先進国や湾岸諸国に向かう。受け入れ国の給与水準、安全な労働環境、最新の技術や知識の習得機会、高い生活水準などが看護師を引き付けているともいえる。以下に、看護師が送り出される背景を、インドの事例からもう少し詳しくみてみよう。
図 人口1万人当たりの看護師数(人)
看護師送り出し国――インドの事例
インドで看護師は社会的地位の低い職業と位置づけられてきた。伝統的な浄・不浄の観点から看護師は血液、体液、排泄物などに触れるため「穢れている」だけでなく、看護師の圧倒的多数を占める女性にとって不特定多数の男性患者との接触が不可避であるがゆえにジェンダー規範にも反するからである。看護師が患者に対して家庭で家事使用人が行うような世話をすることも、取るに足らない職業とみなされる要因となった。それに対して、インドにおける近代看護の普及にはイギリス領時代のキリスト教会病院の果たした役割が大きく、キリスト教徒にはカーストやジェンダーに関する禁忌が比較的少ないこともあり、人口のわずか2%程度を占めるキリスト教徒が看護職を主に担ってきた。
こうした状況は、海外就労機会の拡大とともに少しずつ変化してきた。20世紀前半からフィリピン人と同様に一定数のインド人看護師が海外で就労していたが、1970年代からの湾岸諸国での就労を契機に海外就労が増加した。現在、インド人看護師にとって最大の渡航先であるこれらの国を含めると、約64万人のインド人看護師が海外で就労しているとみられる(Irudaya Rajan and Nair 2013)。海外就労の機会の拡大は、経済力上昇のための戦略として、主にインド南部でキリスト教以外の世帯からも子どもを看護師にすることにつながった。
海外就労の増加と並行して、看護師養成機関も増加した。とりわけ、2000年以降にその傾向が著しい。この背景には、私立病院の増加がある。看護教育機関は、原則として臨床実習を行う病院により経営されるからである。2000年時点では全国に4年制看護学学士課程はわずか30機関、3年制ディプロマ課程も285機関しかなかったが、2021年にはそれぞれ2127機関、3285機関にまで増加した(Indian Nursing Council 2021)。
それでもインドでは看護師が不足している。人口1万人あたりの看護師数は17.3人で、フィリピン(49.2人)と比べても少ない(WHO 2020)。とくに医療へのアクセスが困難な農村部の看護師不足は深刻で、全国640県(2011年センサス時点)のうち、73県に資格を持った看護師がひとりもいない状況にある(Anand and Fan 2016)。
こうした看護師需要超過の状況にもかかわらず、看護師の賃金は非常に低い水準にとどまっている。とくに、公立病院より私立病院にその傾向が強くみられる。その主な要因のひとつとして、卒業後2年前後の期間、系列病院において無償もしくは食事代程度で勤務する「お礼奉公」の慣習が挙げられる。この慣習は管轄当局により禁止されているが、医療現場では依然として残されている。
近年、看護師の労働組合はこうした状況を打開しようと、ストライキの実施や司法に訴えるという手段をとってきた。インド看護協会は、司法の勧告を受けて、私立病院勤務の看護師の最低賃金を、ほぼ大卒最低賃金水準に相当する月額2万ルピー(約3万5000円)以上に定めるよう各州政府に求めている。各州政府は2018年頃から最低賃金に関する通達を出しているが、筆者らが行った2019年の看護師への調査では、最低賃金以下しか払っていない私立病院がいくつもみられた。また、最低賃金制度を遵守している病院でも、全体的な人件費を抑えるために看護師の数を著しく減らしたという(Tsujita and Oda 2023)。
こうした状況で迎えたコロナ禍で、患者対応を奨励するとともに、感染リスクのある業務につくことへの報酬として、連邦・各州政府は看護師を含めた医療従事者向けに医療・死亡保険の拡充、心の健康のためのヘルプライン、特別慰労金などの支援を打ち出している。それでも、感染リスクに見合わない雇用条件や労働環境がネックとなり、慢性的な人手不足を解消できていない2。
さらにインド政府は、コロナ禍でも看護師の海外就労を禁止していない。フィリピン政府がコロナ禍初期に医療従事者の海外就労を禁止し、現在でも年間渡航者数を制限しているのとは対照的である。それもあってか、コロナ禍でも看護師の海外就労の募集や渡航に関する報道も少なくない。国内の給与水準、諸手当などの雇用条件や労働環境が改善しない限り、看護師の海外就労志向は変わらないであろう。
途上国からの看護師のリクルート
今後、先進国の看護師への需要はさらに高まることが予想されている(Buchan, Catton and Shaffer 2022)。それに伴い、外国人看護師も増加するだろう。例えば、イギリスでは、2021年度(2021年4月~2022年3月)に4万8438人が看護師として新規登録されたが、その48.3%にあたる2万3408人が外国人であった(うちインド9769人、フィリピン5763人、ナイジェリア3010人)(Nursing & Midwifery Council 2022)3。これらの数値は、コロナ禍直前(2019年度)の新規登録者数3万8317人(うち外国人33.8%)を上回っている。まさに今この瞬間にも、報酬や労働条件のより良い国での新たなキャリアを求めて、途上国を旅立つ看護師がいるのであろう。
看護師を含めた医療従事者の先進国への偏在に対して、国際社会は手をこまねいてきたわけではない。2010年のWHO世界保健総会で採択された「医療従事者の国際リクルートに関するグローバルな実践規範」では、医療従事者の受け入れ国と送り出し国の双方が利益を得ること、とくに送り出し国の医療制度の持続可能性を強化する形で医療従事者を倫理的にリクルートすることが謳われている(WHO 2010)。コロナ禍で先進国、途上国を問わず医療現場の状況はより厳しくなっており、医療従事者の移動の自由と途上国の医療体制の確保との両立という難問に世界はあらためて直面しているのである。
(付記)本記事は、アジア経済研究所「人の移動に関する総合研究・発信プロジェクト」およびJSPS科研費20K12362の成果の一部です。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
- 筆者撮影。
参考文献
- Anand, S. and V. Fan (2016) The Health Workforce in India, Geneva: World Health Organization.
- Buchan, J., H. Catton and F. A. Shaffer (2022) Sustain and Retain in 2022 and Beyond, Philadelphia: International Centre on Nurse Migration.
- Indian Nursing Council (2021) Annual Report 2020-2021, New Delhi: Indian Nursing Council.
- Irudaya Rajan, S. and Nair, S. (2013) Assessment of Existing Services for Skilled Migrant Workers: India Project Site, ILO Promoting Decent Work Across Borders: A Pilot Project for Migrant Health Professional and Skilled Workers, Draft Report submitted to International Labour Organization.
- Nursing & Midwifery Council (2022) The NMC Register April 2021-March 2022, London: Nursing & Midwifery Council.
- OECD (Organisation for Economic Co-operation and Development) (2020) Contribution of migrant doctors and nurses to tackling COVID-19 crisis in OECD countries, OECD Policy Responses to Coronavirus (COVID-19), 13 May, Paris: OECD Publishing.
- ――― (2021) Health at a Glance 2021: OECD Indicators, Paris: OECD Publishing.
- Tsujita, Y. and H. Oda (2023) “Nurse Education, Employment, and International Migration: The Case of India,” Adhikari, R. and E. Plotnikova eds. Nurse Migration in Asia, Emerging Patterns and Policy Responses, London: Routledge, forthcoming.
- WHO (World Health Organization) (2010) WHO Global CODE of Practice on the International Recruitment of Health Personnel, WHA63.16, Geneva: WHO.
- ――― (2020) State of the World’s Nursing 2020: Investing in Education, Jobs and Leadership, Geneva: WHO.
著者プロフィール
辻田祐子(つじたゆうこ) アジア経済研究所新領域研究センター社会・ジェンダー研究グループ主任研究員。PhD。近著に、“Decision-Making of International Migration: A Case Study of Indian Nurses in New Zealand”(共著、India Migration Report 2022, Routledge, 2022年)、“An Analysis of Nurses’ Intention not to Migrate: Evidence from Nurses in Tamil Nadu”(共著、India Migration Report 2022, Routledge, 2022年)、など。
注
- WHO “Nursing and Midwifery,” Fact sheets, 18 March 2022.
- Jacob, N., V. Inamdar, A. Saha, and S. Bharadwaj “Hospitals struggle to get healthcare workers as Covid-19 cases spike,” Business Standard, 31 July 2020; Johari, A. “India is hiring nurses on monthly contracts to fight Covid-19. The jobs have few takers,” Scroll.in, 9 May 2021.
- これらの数値には少数ながら助産師、看護助手が含まれる。
今回と同じテーマの関連コラム『新型コロナと移民』(2020-2021年)もぜひお読みください。