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コラム

[インタビュー連載]シリコンバレーのアジア人企業家

第8回 技術者が起業家になるとき:アンバレラ(Ambarella Inc.)創業者Fermi Wang氏の歩み

PDFダウロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049727

2015年11月

写真:Fermi Wang(王奉民)氏

Fermi Wang(王奉民)氏

Fermi Wang(王奉民)氏は1963年、台北県生まれ。台湾大学電機系を卒業後、コロンビア大学で博士号(電子工学)を取得。在学中に指導教授とともに取得した画像圧縮技術(MPEG2)の特許では、コロンビア大学に推定1.2億ドルの収入をもたらした。大学院修了後、シリコンバレーの複数の半導体ファブレス企業での勤務を経て、1999年にプロセッサー・ベンダーのAfara Websystemsを創業。同社の売却後、2004年にAmbarella Inc.を創業(2012年に株式公開)。同社は傑出した高精細画像処理技術をもつトップランナーとして半導体業界で広く知られており、近年は車載カメラ、監視カメラ向けに加えてドローン向けにも画像圧縮システムを提供しており、広く注目を集めている。

Wang氏の話からは、「私は生まれながらのエンジニアだ」と思っていた留学生が、シリコンバレーのスタートアップで働くなかで、起業への関心と適性に目覚め、創業に必要な資源を獲得していった過程が読みとれる。また、スタートアップの組織のなかに、そこで働く人々による起業を誘発する仕組みが備わっていることが見て取れる。インタビューは2015年7月20日、サンタクララのアンバレラ本社で行った。

渡米まで

【問】まず、Wangさんが米国に留学されるまでの経緯をお聞かせください。

私は1963年、台北県(現・新北市)で生まれました。台湾大学電機系を卒業後、兵役を終えて1987年にニューヨークのコロンビア大学に留学し、電子工学の修士号(1989年)、博士号(1991年)を取得しました。コロンビア大学での日々は、私が映像処理技術の世界でキャリアを築いていく基礎となりました。画像圧縮技術は今にいたるまで技術的困難の多い領域ですが、私は以後20数年にわたって、この領域で仕事をしてきました。

大学院時代には画像圧縮技術の研究をし、指導教官とともに特許を取得しました。このパテントは映像処理技術分野の重要な特許となり、コロンビア大学に累計1.2億ドルの収入をもたらすこととなりました。

【問】1.2億ドルの特許収入!? それはすごいですね。1987年にアメリカに渡った時にはどのような将来像を抱いていましたか。いつか起業したいと思っていたのですか?

私の世代は、大学の同級生の8割がアメリカに渡る時代でした。1987年の台湾といえばまだ蒋家父子の時代で、社会は政府の厳しいコントロールのもとにありました。ですので、みな「外の世界を見てみたい」という気持ちを持っていました。私はアメリカに留学する時には、学位をとってアメリカで就職をして、最先端のハイテクの仕事をしたい、と思っていましたが、起業をしようなんて考えはまるで頭にありませんでした。コロンビア大学の卒業生に人気の就職先も、IBM研究所やベル研といった大研究所でしたね。私もIBMの研究所でサマーインターンをして、素晴らしい環境だと、気に入りました。

【問】でも、Wangさんは「素晴らしい環境だ」と思った大企業のラボの世界には進まなかったのですね。

はい。就職を考えていた頃に、妹がスタンフォード大学に留学することになり、彼女の生活の立ち上げを手伝うためにシリコンバレーにくる機会があったのです。シリコンバレーで、古くからの友人たちと話をしているうちに、彼らが皆、小さな企業のこと、創業してすぐにすごい勢いで成長した企業のことを盛んに話題にしていることに気がつきました。このときに初めて、自分の将来には、大企業の研究所以外にも選択肢があるということに気がついたんです。

IBMの研究所では「ここには6000人の博士と何人ものノーベル賞受賞者がいる」と言われました。すごい!と思うと同時に、「僕がそんなところに入ってどうする?」とも思いました。黙々と論文を書き続けるという仕事が自分の肌に合っているのだろうか、とも思いました。

そんなわけで、就職の時には、大企業の研究所とシリコンバレーのスタートアップの両方で面接を受けた末に、後者の世界を選ぶことにしました。そちらの環境のほうが自分に合っていると思ったからです。

スタートアップで働く

【問】最初に就職したスタートアップでの仕事はいかがでしたか?

1991年に私が最初に就職したのは、シリコンバレーのVitelというスタートアップ企業でした。でもこの会社は、私が入った翌年に倒産してしまいました(笑)。まあシリコンバレーではよくあることですけれどね。こんな時、多くの人は大企業を選ぶのでしょうが、私は次の勤め先にもスタートアップを選びました。Vitelにいたときに、その仕事の幅の広さに魅せられたからです。

【問】次の就職先はどこでしたか?

1992年に、画像圧縮チップのスタートアップ、C-Cube Microsystemsに就職しました。これは、台湾出身のEdmunt Sunとフランス人が共同創業した会社で、私が入った頃は40-50人の規模でした。

当時、C-Cubeは、日本のJVCと組んで第一世代のカラオケマシーン用のチップを開発している最中でした。ちょうどカラオケマシーンの世界でテープからCD-ROMへの移行が起きていたころで、C-CubeではCDカラオケマシーン向けのデコーダチップの開発をしていたのです。C-Cubeは、中国で爆発的に流行したVCDプレイヤーのチップでも、一世を風靡しました。

ちなみに、Edmunt Sun氏が離職したあと、C-Cubeでは共同創業者のフランス人がCEOになるのですが、彼は後に私たちがアンバレラを創業した際に、出資してくれました。

【問】C-Cubeでの仕事はいかがでしたか?

私が入社した1992年から離職することなった99年頃にかけてのC-Cubeの成長は極めて急激でした。この急成長は、この時期のデジタルビデオ技術の商品化のスピードを反映したものでした。この時期、VCDに続いてDVD、セットアップボックスと、次々と新たなデジタル画像製品が生まれたのです。1999年頃には、同社の市場価値は30億ドルくらいに達していたと記憶しています。

私は、C-Cubeで遠距離会議システム開発の仕事もしましたが、このプロジェクトが一段落したところで、ある新製品の開発チームを率いることになりました。これは、新しい画像圧縮用のチップを開発するプロジェクトで、このチームが開発した商品は世界の多くのケーブル・衛星テレビの会社に採用されました。この成功により、我々の開発チームは部門に格上げされ、私はこれを率いることになりました。

こうして私は一つの部門の責任者(ゼネラル・マネージャー)になったわけですが、これはあたかも、小さな会社を経営するようなものでした。私は自分の部門の製品の製品定義、セールス、顧客との交渉、収益管理までをまるごと引き受けることになったのです。

このとき私が率いることとなったチームが、実は今のアンバレラのコアとなっています。アンバレラのCTOであるレス・コーン(Les Kohn)もこのときからの仲間です。このゼネラル・マネージャーとしての経験を通じて、私は自分がビジネスに向いていることに気づきました。

【問】でも、Wangさんは学生時代の優れた業績から明らかなように、とても才能のあるエンジニアですよね。いつからビジネスの世界に関心と適性が向いたのでしょうか?

学生の頃には、自分は生まれながらのエンジニアだ、と思っていました。でも、C-cubeで一つの部門のゼネラル・マネージャーを務めたことで、自分の関心と適性がビジネスにあることに気がついたんです。やってみたら「これはおもしろい!」と思いましたし、「自分にもできる」とも思いました。さらにいえば、「自分はこの仕事に向いている」とも思いました。

こういう発見は、スタートアップにいたからこそ可能になったと思います。大企業では、専門を超えて畑違いの仕事をするということは、なかなかありません。しかし、シリコンバレーのスタートアップでは、会社が急速に成長していくときに、内部の人間を抜擢して、新しい領域の仕事にチャレンジさせるということが普通に行われています。

もちろん、この転換のプロセスは、本人にとっても大変です。技術者としてある程度実績を積んだあとで、新たにマーケティング等を勉強するときには、一時的にキャリア面での後退が避けられませんから。でも、こういうチャレンジのなかで、自分にはそれができる力がある、ということを示すことも大切だと思います。

【問】スタートアップに勤めることで、起業への意欲と関心が高まり、起業に必要な知識の幅を獲得していくことにもなるのですね。

いつか起業したいと思っている人は、小さなハイテクスタートアップから仕事を始めるのがいいと思います。大企業の内部で昇進してから起業する人も少なくないのですが、そういう人は、チームにサポートしてもらうことに慣れてしまっています。そうすると、何でも自分でやらなければならないスタートアップの環境のなかでは苦労します。

Afara Websystems社の創業――9.11に打ち砕かれた最初の起業

【問】Wangさんとレスさんは、1999年に最初の創業として、Afara社を設立しました。その経緯を教えてください。

1999年、起業に向けてC-Cubeを去る時点で、私は、同社の従業員の半分、収入の3分の2を生み出す最大部門の責任者になっていました。私はこの会社のなかで自分が上れるところまで上った、と思いました。

それ以前から私は、早晩自分が創業することになると思っていました。時はちょうどシリコンバレーがバブルに沸く1999年。誰もが創業したがっている状況でした。私とC-Cubeの同業だったレス・コーンは、起業にむけて、C-Cubeを退職しました。

【問】Afaraの主な製品は何でしたか?

レスはCPU技術の専門家です。彼は、ある人の紹介で、スタンフォードの電子工学科のProf. Kunle Olukotunと知り合っていました。クンレイはちょうど新しいCPUアーキテクチャの優れたアイディアを温めていたところでした。そして彼のアイディアをもとに、私がCEO、レスがCTO、クンレイがchief engineerという分業関係で設立したのがAfaraでした。

Afaraはサーバーに最適化したCPUの開発のためのスタートアップで、今は誰もが耳にするようになった「マルチコア」概念の最も先駆的な提唱者でもありました。しかしタイミングがあまりに悪かったのです……。

【問】あまりに悪すぎたタイミング、といいますと、具体的には?

2001年9月11日――。あの日、私たち3人は、資金調達のため、飛行機でニューヨークに向かっていました。世界貿易センターに飛行機が突入したとき、私たちもニューヨークへと向かっていたのです。あの一週間のことは決して忘れられません。コロンビア大学出身で、ニューヨークに深い思い出のある私にとって、あまりに悲惨な一週間でした。

そして9.11を機に、ベンチャーキャピタルの資金がいっせいに姿を消し始めたのです。結局私たちは、Afaraをサン・マイクロシステムズに売却するほかありませんでした。

【問】そうでしたか……。売却先はサン・マイクロシステムズという著名企業だったわけですが、やはり不本意でしたか?

もちろん不本意でしたよ! 会社を売却したこと自体は、まぁ投資家に顔向けができることにはなりますが、やりたかったことができず、とても残念でした。Afaraの技術は優れたもので、サンマイクロがオラクルに買収されたあとも、オラクルの製品のなかで採用されています。

再起を期す――Ambarella社の起業へ

【問】その後、Wangさんとレスさんは二度目の創業へと向かいますね。

Afaraの買収先であるサンマイクロに1年間勤めましたが、やはり、大企業文化は肌に合わず、もう一度創業したいという思いが強くなりました。

私とレスは2003年にサンマイクロを退職しました。私たちは、二度目の創業にあたって、半年間をかけてじっくりプランを練りました。Afaraでの挫折をもとにいろいろと考えました。まず、十分な市場規模が見込まれるような製品でなければならないこと。危機に直面してもつぶれないだけの資金を集めることが重要なこと。半年間の集中的なブレーンストーミングを経て、再び画像圧縮の世界に戻ることを決め、2004年初頭にアンバレラを創業しました。

【問】最初の出資者はどこでしたか?エンジェル投資家の支援は受けましたか?

半導体分野での起業は、エンジェル投資家の資金規模では難しいので、Afaraもアンバレラも、エンジェル投資家からの支援は受けていません。Afaraではセコイア・キャピタルともう一社、今ではもう存在しないベンチャーキャピタルから、アンバレラではベンチマークとWalden Internationalから出資を受けました。

ちなみに、アンバレラのファーストラウンドは1000万ドルでしたが、数ページの資料でのプレゼンテーションでこれだけの出資をするというのは、ベンチャーキャピタルでないとできないことですね。

【問】いずれも著名なベンチャーキャピタルですね。二度目の創業であるアンバレラは極めて順調に成長してきましたね。

C-cubeからアンバレラには約20人が合流しました。アンバレラ創業の話を聞いて再結集してくれたのです。

創業には運も必要だと思います。高精細画像圧縮技術の応用市場が本格的に急成長しはじめたのはこの5年くらいなんですが、我々はこの急激な市場発展の前に参入することができました。私たちはこの20年の間、画像圧縮処理に関するありとあらゆる問題を扱ってきているので、その優位性を活用することができます。

アジアとのつながり、シリコンバレーの強み

【問】シリコンバレー企業、特にアジア人が創業者に名を連ねる企業は、アジアの研究開発リソースを積極的に活用しています。アンバレラの場合はいかがですか?

アンバレラは2004年2月にシリコンバレーで創業し、同じ年の7月には台湾に拠点をオープンしました。現在は、アメリカに150人、台湾に300人(うち200人がソフトウェア開発)の従業員を擁しています。また上海に70~80人、シンセンにも60人規模のデザインセンターを設立しています。

台湾の総経理は、私のコロンビア大学の後輩です。元・交通大学の教員で、画像処理技術の専門家です。中国の総経理はC-cube時代の知り合いです。

【問】アジアとのリンケージを活用しているのですね。

レスと私は、会社の名前を決めるにあたっていくつかの条件を決めました。まず、Afaraもそうでしたが、Aから始まる社名にすること。アルファベット順で上に並びますからね。次に、会社名のドメインがとられていないこと。そして、太平洋の西と東で仕事をすることになると分かっていたので、太平洋と関係のある名前をつけること。アンバレラというのは太平洋地域に自生する木の実の名前です。この三つを満たしますし、私たちの理念を表すのにぴったりの名前です。

【問】超高コストであるシリコンバレーにも多数の開発人員を擁しつづけている理由は何ですか?

アルゴリズムの最高の人材はシリコンバレーにしかいないからです。アルゴリズムを理解し、書けるだけではなく、それをチップに実装することができる優れた人材は、ここにしかいません。

【問】Wangさんは、シリコンバレーに来なくても何らかのかたちで創業していたと思いますか。

もし私がシリコンバレーに来ず、ニューヨークに残っていたら、今でも大企業の研究所に勤めていたでしょうね。台湾に帰国していても、創業は難しかったでしょう。台湾での起業環境はどんどん厳しくなっていますから。振り返ってみると、私の場合、C-Cubeの時代に自分の目標とする方向を見つけ、それに向けて自分のキャリアを調整できたことがよかったと思います。最近は台湾からの留学生が減り、シリコンバレーと台湾のつながりも薄れてきています。私は機会があるたび、アメリカに来るよう、台湾のエンジニアを激励していますよ。

【問】Wangさんのお話をうかがい、シリコンバレーにおいて、エンジニアが起業家に転進していく過程、林立するハイテクスタートアップのなかからさらに多数のスタートアップが輩出されていくメカニズムがよく分かりました。本日は、興味深いお話をありがとうございました。