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コラム

[インタビュー連載]シリコンバレーのアジア人企業家

第3回 シリコンバレーの「メンター型CEO」:連続起業家Hsing Kung氏の歩み

PDFダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049732

川上 桃子

2014年5月

写真:Hsing Kung氏

Hsing Kung氏

Hsing Kung(龔行憲)氏は1945年、中国・重慶市生まれ。1946年に家族とともに台湾に移る。成功大学電機系を卒業した後、テキサス大学オースチン校で修士号、カリフォルニア大学バークレー校で電子工学の博士号を取得し、1974年にHP社に入社。1983年にHP社を退職し、高出力半導体レーザーダイオードチップのメーカー、Spectra Diode Labの創業に参加した。同社を退職した後は、シリコンバレーの若いエンジニアらが起業したハイテクスタートアップ、LuxNet社とPine社のCEOを務めた。

Kung氏は、自らの歩みを振り返って、「台湾出身の留学生の典型的なキャリアを歩んできた」と語る。大企業のなかで感じた「ガラスの天井」や、華人エンジニアへのステレオタイプへの戸惑い。一度目の創業には技術者として、二度目以降の創業には、若手エンジニアのチームの舵取りをするメンター型のCEOとして関わった経緯。2000年以降のアジア市場の興隆が、シリコンバレーの華人起業家にもたらした新たなチャンス――。Kung氏がインタビューのなかで語るこれらの要素は、過去40年のシリコンバレーのアジア人移民起業家たちの経験に共通するものである。その「典型的」な歩みからは、シリコンバレーのアジア系起業家たちの相互支援のネットワークの役割や、グローバルな事業観が見て取れる。

本インタビューは2014年2月17日に、サンタクララのAcorn Campus Venturesの事務所で行った。

留学とHPへの就職

【問】まず、留学のために渡米し、HPに就職された経緯からお聞かせください。

私は台湾の成功大学の工学部を卒業し、1967年にテキサス大学オースチン校の修士課程、69年にUCバークレーの博士課程に進学しました。私の時代の台湾の名門校の理系の学生は、みなアメリカ留学を希望したものです。私の同級生も、6~7割がアメリカに留学したのではないでしょうか。

1974年に博士号を取得してHPに入社しました。大学院を終えてアメリカで就職するというのは、当時の台湾出身の留学生の典型的なパターンでした。

【問】HP社でのエンジニアとしてのお仕事はいかがでしたか?

HPでは、光半導体デバイスの研究開発の仕事をしました。私は「優れたエンジニアになりたい」と思い、仕事に励みました。当時のHPは、「HPウェイ」と呼ばれる、従業員の自主性と革新を重んじる社風で知られた素晴らしい会社で、優れた技術者が多数集まり、互いに切磋琢磨していました。あの時期、多くの華人エンジニアが私と同じように、アメリカの企業で仕事に邁進し、それを喜びとしながら、成長を遂げていったと思います。

一方で、華人は自己アピールをあまりしなかったこともあり、「技術者としては優れているが、マネジメントには向かない」というレッテルを貼られがちでした。華人の多くが積極的に昇進を勝ち取ろうとしなかったことも、「華人はマネジメントには関心がない」と誤解されてしまった背景だったでしょう。言葉の壁もありました。会社のなかに「ガラスの天井」があると感じました。

【問】当時のHPには華人のエンジニアはどのくらいいましたか?

1974年に私がHPに入社した頃は、R&Dチームの人員の1割くらいだったと思います。その後の10年で3割程度まで増えたのではないでしょうか。シリコンバレーのハイテク企業に占める華人エンジニアの比率は非常に高いものでした。

【問】にもかかわらず、華人には「ガラスの天井」があったのですね。そのような状況に華人はどう対応したのでしょうか。

同じ時期に、シリコンバレーでは、大企業からのスピンオフ企業が現れ、ベンチャーキャピタルが成立して、起業への機運が高まりました。華人の中からも、起業して成功する人が現れ、多くの人がそれに刺激を受けて、創業するようになりました。華人はリスクをとることをあまり怖れないし、人に雇われるより、独立することをよしとする文化もあります。そしてこれはシリコンバレーの非常に重要な文化ですが、ここでは失敗することは恥ずかしいことではありません。創業して失敗しても、「それはいい経験をした」といって喜んで雇ってくれる企業があります。これは、そういう文化のないところとは非常に大きな違いをもたらします。

SDLの創業に加わる

【問】Kungさんは1983年にHPを辞め、SDL社の創業に加わりました。なぜ新しい会社の創業に参加したのですか?

Xerox LabとSpectraが共同でSpectra Diode Labを設立し、その創業メンバーを募集していると知って、私は大喜びで参加しました。周囲からは「なぜHPのような良い会社をやめるのだ」と聞かれましたが、私は新しい企業に参加したくてたまりませんでした。この会社はゼロックスのPARC研究所の高出力半導体レーザーダイオードチップの商品化に挑む新企業で、私の専門からしても、ぴったりでした。

この会社は後にMBO(management buyout、経営陣による株式買い取り)によってSDLと改名しました。SDLは、高出力レーザーチップのメーカーとして順調な成長を遂げ、市場も初期のプリンター用、外科手術用、軍事用といったものから、1990年代以降は光通信市場へと順調に広がりました。上場にも成功しました。

SDLの3名の共同創業者のうち、華人は私だけで、白人中心の会社でした。しかし私はそういう環境にも慣れていましたので、何ら問題はありませんでした。

メンター型のCEOへ

【問】Kungさんは1995年にSDLを退職して、次のキャリアのステップに進まれました。

私はSDLで製造担当の副社長を12年務めたのち、1995年に同社を退職しました。1998‐99年頃のシリコンバレーは、空前のインターネットバブルに沸いていました。毎日、多くのインターネット関連企業が生まれ、会社は競って社名を「ドットコム」系に変更し、人々は投資ブームに乗り遅れてはならないと大いに焦るといった具合で、とにかく大変な状況でした。インターネットの拡大はブロードバンドの整備を必要とするので、このブームは当然、光通信ビジネスにも波及しました。私はSDLという成功した会社での経験があったので、多くの人が私の創業を期待し、投資したがりました。しかし私は、経営は個人ではなくチームでやらねばだめだ、という考えでした。

一方、この時期には、華人エンジニアの創業チームが次々と誕生し、私のところに協力を求めてやってきました。私は若い世代の人々と一緒に働くのが大好きなので、多くの共同創業チームと働き、彼らを手助けしました。非常に楽しかったです。そのなかから深く関わることになった会社が二つありました。LuxNetとPineです。

【問】Kungさんは1999年にLuxNet(華星光通)、 2000年にPineと立て続けに2社の会社の創業に携わり、両社のCEOになりました。両社の創業の経緯を教えて下さい。

シリコンバレーで科学者やエンジニアが創業する際に必要となるのは、「経験」です。若いエンジニアのチームが私に求めたのもまさしくこの「経験」でした。若いエンジニアのチームと議論をし、「よし、会社を始めるぞ」ということになり、彼らを連れて出資者回りをし、創業後は引き続き彼らを指導する、というのが私の役割でした。私も彼らと仕事をすることが非常に楽しく、情熱を注ぎました。

この時期、私に協力を求めてきたチームの1つがLuxNet(華星光通)でした。その共同創業者らは、HPが事業の一部をスピンオフさせてつくったAgilentに勤めていた若いエンジニアたちのチームでした。中核メンバーが仲間を募り、4-5人の共同創業者が集まってできたチームで、私はCEOとして、彼らの会社の立ち上げと資金集めを手伝いました。

翌2000年からはPineの経営にも、CEOとして関わるようになりました。こちらは光通信トランシーバーの会社でした。

ドットコムバブルの時代には、資金集めに何ら苦労はありませんでした。ベンチャーキャピタルだけではなく、不動産会社までがエンジェルグループを作ってインターネット関係に投資をしていました。その結果、あの時期には、会社を設立してしばらく経つと、本業で何もしていなくても評価額が上がっている、ということが起きました。こうして人々は虚像に囚われてしまいました。

ところが2001年に、そのインターネットバブルが弾けました。しかもその年の秋に9.11大規模テロ事件が発生しました。数カ月で状況が一変してしまい、業界は完全に冷え込みました。

【問】LuxNetとPineは、大変な時期に創業することになってしまったのですね。その後の展開はいかがでしたか。

LuxNetのほうは幸運なことに、2001年1月までにラウンドをクローズすることができ、数年分の資金が調達できました。Pineのほうは本当に苦労しましたが、1年近くをかけ、全ての運を使って、なんとか資金調達ができました。これでPineも数年分の事業資金を確保できたわけですが、産業の状況は依然として極めて厳しいものでした。

その後、Pineのほうは、トランシーバー製品技術が評価されて、2003年に日立グループ傘下の通信用光部品メーカーOpNextに買収されました。裕福な両親のもとに養子に送り出すことができたようなもので、ほっとしました。

LuxNetはこれとは違う道を歩むことになりました。2003年頃には資金も底を尽き、厳しい判断を迫られることになったのです。結局、創業チームはアメリカのオペレーションを完全に閉じ、台湾に移転して新たに一から始めることを決めました。アメリカ拠点を完全に閉鎖するというのは、苦渋の決断でした。

【問】LuxNetは台湾に移転したとのことですが、創業者はみな台湾出身だったのですか?

いえ、5人のコアメンバーのうち、4人が台湾人で、1人がインド人でした。このうち3人の台湾出身者が、2003年に会社とともに台湾に帰りました。

他方、Pineのコアメンバーは、多様な人種から成り立っていました。先にお話ししたように、シリコンバレーの企業では人種的なステレオタイプがありますが、一方でここでは、華人・インド人・白人が何の垣根も差別もなく、打ち解けて働ける環境もあるのです。アジアの国では、アメリカ人ならともかく他のアジアの出身者がこういうふうに対等に扱われるのは難しいでしょうね。

こうして台湾に移転したLuxNetですが、その後、急成長を遂げることになります。2000年代にアジア、特に中国の通信市場が急速に拡大したからです。2011年には台湾でのIPOにも成功しました。PineとLuxNetの経験からは、チームワークの重要性と、互いを信頼し、苦楽をともにすることの大切さを痛感しました。

【問】LuxNetはその後、中国でのFTTH(fiber to the home)の流れを捉えて順調に成長を遂げているようですね。シリコンバレーの創業環境についてもお尋ねしたいのですが、LuxNet、Pineの創業者たちは自己資金を出資したのでしょうか?

いいえ、最初に創業に参加したSDLの時も、その後の2社でも、自分の貯金から出資するということはしていません。シリコンバレーでは、起業と出資ははっきり分離しており、経営者は出資をしないのが一般的です。しかし、台湾では創業者が出資をしない創業というのは非常に少ないですね。

シリコンバレーでこういった創業スタイルが可能なのは、一つにはfounder stockの制度が整っているからでしょう。創業者は労力と時間を投入するだけで十二分の貢献をしている、と考えられています。

そもそも、起業するというのは非常に大変なことです。そのうえ、日本や台湾のように創業者が自分の貯金を出資することが求められるのであれば、起業が困難になります。それに、個人の出資金は所詮は大した額にはなりません。企業が成長すれば、どのみち創業者の持ち株比率は著しく低くなります。

こういった創業を促進する環境は、アメリカというよりシリコンバレーに特有のものでしょう。私の学生時代、憧れの職場はベル研究所でした。しかしベル研から企業が次々と生まれることはありませんでした。それに対してシリコンバレーでは、半導体という新しい産業から多数の成功事例が生まれ、起業を促す仕組みが整いました。これは他国がコピーすることの難しい環境です。ここには、リスクを取る文化と、人種差別の極めて少ないエンジニア社会とがそろっています。

【問】Kungさんを始めとするシリコンバレーの連続起業家のお話を聞いていると、創業回数を経るとともに起業家としての役割と拠り所を変えていっているようですね。若いうちはエンジニアとしての知識を、その後は経営者としての能力を活用して創業に携わっているという印象を受けます。

その通りだと思います。創業の主体はチームで、その中での役割分担があります。私が最初に創業に参加したSDLでは、会長がビジネスの方向付けをし、私は製造の担当でした。そこで得たビジネス経験を活かして、二度目、三度目の創業では、私が技術者らのチームに「経験」を提供しました。二度目以降は技術的な役割は果たしませんでした。

「経験」の具体的な内容ですが、基本的には「自分たちの強みは何か、それをどのように活かして、獲得すべき顧客を獲得できるか」を分析する力です。人はどうしても「自分たちは何でもできる」と思いがちですからね。

【問】シリコンバレーの起業家に占めるアジア人の比率は非常に高いですが、大企業での「ガラスの天井」の存在が、アジア人の起業を促していると考えてよいでしょうか?

アメリカのトップ500社の役員に占めるアジア人の比率が低いことは、よく指摘される通りです。ただ、華人が多い企業では華人のほうが出世しやすいように、白人中心の企業では華人より白人のほうが出世しやすい、ということなんだとも言えます。「ガラスの天井」の状況も変ってきていると思います。

そして、アジアが経済的に興隆した現在、アジア人起業家がビジネス展開上で持つアドバンテージは明らかです。私たちが2000年代初頭のネットバブルの崩壊の際に学んだことの1つは、生産の最適地、開発の最適地は世界レベルで考えねばならない、ということでした。要はグローバルでなければならないのです。今日では、多くの企業家がシリコンバレーとアジアを行き来しながら仕事をしています。

華人コミュニティとしては、不利益を改善すべく戦いながら、我々が持つ優位性を活用していくことが大切でしょう。私は、起業を志す若い世代の台湾人を、メンターとして支援していきたいと思っています。

【問】Kungさんは、留学生として渡米した時にはどのような将来像を描いていたのですか? アメリカにこれほど長く留まることになると考えていらっしゃいましたか?

今振り返ってみると、私は、台湾出身の留学生の実に典型的なキャリアを歩んできたと思います。本当に典型的だと、自分でも思うんです。

留学のため渡米したときには、優れた大学で学べることが、ただ嬉しくて、特に長期的なプランはありませんでした。立派な学位をとろうとだけ思っていました。勉強はそこそこにできましたが、UCバークレーの大学院には極めて優秀な学生がたくさんいて、この人たちにはとてもかなわない、と感じました。同時に、自分はごく普通の能力の学生なんだ、でも与えられた環境の中で全力を尽くそうと、そう思いました。

私が幸運だったのは、バークレーで学び、シリコンバレーにとどまることになった点でしょうね。長期的なプランがあったわけではなく、様々な偶然が重なり、また与えられた環境のなかでベストを尽くそうと考えてきたことで、まずまず成功したキャリアを歩んでくることができたと思っています。

【問】お話をうかがって、台湾出身の若き留学生が、連続起業家へと成長するにいたった道のりがよく分かりました。本日はありがとうございました。