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コラム

[インタビュー連載]シリコンバレーのアジア人企業家

第2回 留学生からコモディティ化革命の挑戦者へ:シリコンバレーの台湾人起業家James Liao氏の歩み

PDFダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049733

川上 桃子

2014年2月

写真:James Liao氏

James Liao氏
【インタビューにあたって】

James Liao(廖春毅)氏は1968年、台中市生まれ。台湾大学卒業後、スタンフォード大学でコンピュータサイエンスの修士号を取得。メインフレーム大手のTandem社、ネットワーク技術系のスタートアップ企業での勤務を経て、2009年に、SDN(software-defined networking)1とよばれる新たなネットワーク制御技術のスタートアップ企業Pica8社を創業した2。先に紹介したChun Chiu氏(川上[2014])と同様、Liao氏も、大学院留学のために渡米し、米系の大企業で働いたのちに創業するというシリコンバレーの台湾人起業家の典型的なキャリアパスをたどってきた。

Liao氏の話からは、「コモディティ化」の波がエレクトロニクス産業のサブセクターに次々と押し寄せていくダイナミズムと、この趨勢のなかでのシリコンバレー企業の位置づけと戦略が浮かび上がってくる。また、この地域での起業の初期局面を支える個人出資者のネットワークとその役割も見て取れる。Pica8では、Liao氏が自宅のガレージで起業してまもなく、自らも豊富な起業経験を持つ連続起業家が出資者として現れ、同社の初期の発展に大きな貢献をした。Liao氏の経験からは、年配の企業家が、自らの経験とネットワークを活かして、投資者兼メンターとして若い世代を支援するシリコンバレーの起業コミュニティのダイナミズムが見て取れる。

Liao氏の話からはまた、2000年代以降、シリコンバレーのアジア人起業家による東アジアの活用のあり方に起きた変化が見て取れる。1990年代に半導体産業で創業したChu氏は、台湾を半導体生産拠点として活用しようと試みた。これに対して、2000年代初頭以降、Liao氏らは、中国を技術開発拠点として活用している。シリコンバレーの移民起業家にとって、母国ないしその近隣地とのリンケージの活用は、重要な競争戦略であるが、その活用の仕方は、東アジアの急速な興隆とともに変化している。 インタビューは2014年1月17日に、パロアルトにあるPica8の本社で行った。

留学から最初の就職まで

【問】まず、Liaoさんが大学院留学のために渡米するまでの経緯を教えてください。

私は1968年に台中市で生まれました。ごく普通の家庭で育ち、普通の子ども時代を過ごしました。ただ勉強のために、中学生の時から親元を離れて宿舎生活を始めたことが、私の独立心を強めたかもしれません。

大学入試統一試験の結果が出たとき、私の成績ならば台湾大学の医学部、電子工学科、コンピュータサイエンス学科に進めることが分かりました。両親は、医学部への進学を強く望みましたが、私は親の反対を押し切って、新しい学問だと感じたコンピュータサイエンス学科に進みました。そして授業の初日に、私はこの学問との恋に落ちました。私は複雑な問題を分割し、解析するのが得意な性分なので、この分野はぴったりだったのです。

大学在学中にはいろいろな仕事にチャレンジしました。大学3年の時には自分で会社を起こし、顧客向けにコンピュータのプログラムを書く仕事もしました。

1990年に大学を卒業し、2年間の兵役を終えたのち、コンピュータ科学の最先端を学ぶために、スタンフォード大学に留学しました。この大学が私を大きく変えました。

【問】スタンフォード大学のどういうところが衝撃的だったのですか?

アメリカの働き方の文化です。私は、学生時代の蓄えだけではとても留学費用がまかなえなかったので、大学内の人工知能のラボの仕事に応募しました。採用されたので教授のところに行き、「私は何をすればいいでしょうか?」と聞いたら、「指示されるのを待つのではなく、自分が何をしたいかを決めて、言いに来てくれ」と言われたのです。台湾では考えられないセリフでした。驚いて「それなら、私は人工知能については知らないので、その勉強から始めるべきでしょうか?」と尋ねたら「それはあなた自身が決めることだ」とも言われました。これは私にとって大きなカルチャーショックでした。結局、私は在学中の2年間、授業とラボでの仕事以外の時間は、ひたすら授業とラボの仕事のための勉強をして過ごしました。ほとんど寝る間のない毎日でした。

そして、1992年のスタンフォードというところは、インターネット興隆期のただ中にありました。後から振り返ると、あの大学でコンピュータサイエンスを学ぶのに最良の時期だったと思います。Yahoo!が生まれたジェリー・ヤンの寮部屋は、私の部屋のすぐ近くでした。同級生には、後に創業して大成功した人がたくさんいます。しかし私はといえば、就職する時に大間違いをやらかしてしまったんです(笑)。

【問】就職時の進路選択で大失敗をした?いったいどうしたのです?

卒業時の私は、Yahoo!に初期メンバーとして加わるというオファーのほか、複数のスタートアップ企業やオラクルから5つの内定をもらっていました。その中から私が選んだのは――これは台湾の学生の多くが選んだ選択肢だと思いますが――会社の規模が最も大きく、給与水準の最も高かったメインフレーム大手のタンデム社でした。

私は1994年から7年間、タンデムに勤めました。最初の数年は順調に昇進しましたが、5年目くらいに「ああ、この会社は潰れてしまうのだ」と感じ始めました。

タンデム崩壊の原因はパソコンでした。タンデムは長いこと「こんなにパワフルな性能を持つメインフレームが、まさかパソコンなんかにやられるはずがない」と信じていました。しかし、そのまさかが、実際に起きてしまったのです。タンデムは、1997年にコンパックに買収され、そのコンパックは2001年にHPに買収されました。私はそれを機に転職しました。 けれども、タンデムでの経験は私の性格を大きく変えてくれました。内向的で保守的な性格だった私が、はっきりと意見をいい、怖がらずにリーダーシップをとれるようになったのは、ここでの経験がきっかけです。

【問】タンデムでの経験の何がLiaoさんを変えたのですか?

アメリカの職場文化の経験です。日本も同じでしょうが、台湾では、会議で上司の意見に面と向かって異論を言うことはあまりしません。タンデムで働きはじめた当初の私は、会議で他人の意見に異論を唱えるのが苦手で、後から、自分の意見をメールに綴ってメンバーに送るということをしていました。そんなことが何度か続いた後、上司がやってきて「なぜその場で意見を言わないのか?」と聞かれました。「私は人に異論を言うのが苦手なんです。後からメールで自分の見方を伝える方がやりやすいのです」と言ったら、彼女は「分かった。それなら次回から、会議の時に必ずあなたに時間をあげるから、その時に意見を言いなさい」と言ってくれ、実際、そのようにとりはからってくれました。そして皆が私の意見に耳を傾けてくれました。この経験を通じて私は、その場ではっきり意見を言うことがいかに大切かを学びました。

ハイテク・スタートアップで働く

【問】タンデムを辞めた後、シリコンバレーのスタートアップに転職し、開発担当の部長を務めたのですね。

はい。いくつかのオファーのなかから、3UPというブレードサーバーのスタートアップ企業の部長(vice president)の職に就き、2001~05年と務めました。ブレードサーバーは、メインフレームビジネスを崩壊に至らせた製品群の1つでしたから、私にとってこの領域に進むことは自然な選択でした。

この会社の創業者は3人の台湾人と1人の白人から成るエンジニア4人組でした。大口の出資者に、シリコンバレーの著名な台湾人連続起業家であり、ベンチャーキャピタリストでもあるWufu Chen(陳五福)氏がいました。3UPは2005年に台湾のサーバー大手・インベンテックに買収されました。

【問】続いて参加したのがスタートアップ企業のWoven社ですね。

Woven社を創業したのは、白人と日系アメリカ人のペアでしたが、彼らは資金探しに力を発揮してくれるCEOを探していました。そこで選ばれたのが3UPの元CEO、つまり私の上司でした。私は彼に誘われ、私の下で働いていた3人のエンジニアとともにWovenに参加し、60人規模のソフトウェア開発チームを立ち上げました。

Wovenはネットワークファブリック技術の会社でした。私たちはこのチャレンジングな技術を何とか軌道に乗せようと必死で働きましたが、ネットワーク業界におけるシスコの強大な存在感を打ち破ることはできませんでした。結局、Wovenは、2009年にFortinet3に買収されました。Fortinetは2009年に上場したので、投資家にとっては悪くない話だったと思います。

【問】Liaoさんは、3UP勤務時に、中国での開発チームの立ち上げを率いた経験をお持ちです。シリコンバレー企業が、なぜ中国に開発拠点を必要としたのでしょうか?

3UPは、シリコンバレーの同業者のなかでも、2000年代初頭という極めて早い時期に中国での開発チームの立ち上げに挑んだ企業だと思います。大口出資者で台湾出身のChen氏が「中国の人的リソースの活用を試みるべきだ」という強い意見を持っていました。そこで3UPでは、アメリカから中国にエンジニアを送り、現地のエンジニアの訓練をしましたが、これは失敗に終わりました。当時の中国の人々は、アメリカ企業と一緒に働くことには全く不慣れで、うまくいきませんでした。

私は諦めて、Chen氏に「今の中国はまだ(シリコンバレー企業が活用できる)段階にはない。とても無理だ」と告げました。Chen氏の答えは「誰もが無理だと思っているからこそ、挑戦すべきだ。無理だといっていたら、他人に遅れをとるだけだ」「重要なのは現地でリーダーシップをとれる、中国生まれ・中国育ちの優秀な人材の発掘だ」と言いました。

しかしそのような人材を見つけるのが大変でした。2000年代の初めの中国では、リーダーとなるのに適した世代の人たちは文革世代にあたっていたからです。技術的な能力に加えてシリコンバレー企業と協業できるようなマインドの持ち主がぜひとも必要でした。そんななかで出会い、「この人しかいない」と思ったのが、中国社会科学院でコンピュータサイエンスの教授をしていたLin Duさんでした。

彼は最初、私たちが説得しても、安定していて高給の中科院の仕事をやめるのは嫌だという考えでした。私たちは、彼のチームに難易度の高いプロジェクトを委託し、予算もたっぷりつけて、挑戦的な仕事を達成することの醍醐味を味わってもらうよう努めました。最終的に、彼は安定した職をやめ、3UPに転職してくれました。彼はその後、Woven、Pica8と、ずっと私と一緒に働いてくれています。Pica8は私と彼の共同創業です。

【問】中国に開発チームを持つことの意義は何ですか?エンジニアの人件費が安いという理由だけではなさそうですね。

シリコンバレーの企業は、とにかく猛烈な速度で前進しなければならず、そのためには十分な規模の開発チームが不可欠です。それには中国の活用が必要だ、という考えでした。また、この産業では人材のハングリーさも重要です。日本でも台湾でも、人々のハングリーさは失われつつありますが、今の中国は、Wild Westさながらです。

シリコンバレーは、1980年代は日本、90年代は台湾、そして今ではインドや中国というように世界と強いつながりを持ってきました。シリコンバレーが今日のシリコンバレーたるゆえんは、そのグローバル性にあると思います。

Pica8の創業とネットワーク機器産業におけるコモディティ化の潮流

【問】Pica8が取り組んでいるSDN(software-defined network)技術の商業化の流れは、いつ頃から始まったのでしょうか?

Wovenに勤めていた時に、スタンフォード大学の大学院生Martin Casadoが、Open Flowと呼ばれることになる非常に画期的なアイディアを開発中であることを知りました。これは私が考えていたことと非常に近いものだったので、私は、スタンフォードとのコラボを開始しました。本当はWovenとしてスタンフォードとコラボしたかったのですが、Wovenはスタートアップ企業の常でいくつものプロジェクトを抱えており、会社レベルでコミットすることはできませんでした。Martinは2007年にニシラという会社を興しました。また同じくスタンフォードで助教授をしていたGuido AppenzellerがBig Switchという会社を興しました。そして私が2009年にPica8を創業しました。

この3社は、Open Flow技術で協力しつつ、競争し合うという関係にありましたが、ニシラが2012年にヴイエムウェアに12億ドル強で買収されたことで、SDNという領域に注目が集まることになりました。

【問】Liaoさんが2009年にPica8を創業した経緯を教えて下さい。どのような事業構想を抱いていましたか?

私の事業のアイディアは、「ネットワーク機器の世界にコモディティ化の波を起こす」ということに集約できます。私が最初に関わった製品であるメインフレームは、パソコンの登場によって葬り去られました。その原因をつくったのは、CPUメーカー・インテルでした。インテルは、コンパック、日本メーカー、さらには台湾メーカーといった他者の力をうまく利用して、巨大なパソコン産業を創りだしたわけです。しかし、IBMよりもタンデムよりもずっと小さかったインテルという一部品メーカーが、メインフレーム市場を掘り崩していった過程では、一企業の力を越えた産業レベルの大きな力が働いていたと思うのです。私はそれがコモディティ化の力だったと思います。

その波はその後、ストレージの世界にも押し寄せました。IBMや日立が主力だったストレージの世界で、NetAppといったシリコンバレーの新興企業が勃興しています。パソコンで起きたのと同じことがストレージの世界でも起きているのです。

Wovenを離れた時、私は、コモディティ化の波が、今やネットワーク機器の世界に確実に押し寄せてきつつある、と感じました。歴史は繰り返すのです。

【問】ネットワーク機器の世界でのコモディティ化の原動力は何でしょうか?

汎用チップの出現です。シスコに代表されるネットワーク機器ベンダーの多くは、専用コアチップの開発が、製品競争力の源泉であり、製品差別化のために不可欠であると考えてきました。しかし私たちは2006年からBroadcomの汎用チップを使うなかで、これがパワフルで、年々、急速に技術進歩するものであることに注目しました。

パソコンの世界でインテルが果たした役割を、ネットワーク機器の世界で果たすのはBroadcomだろうと、私は考えています。ではBroadcomがインテルだとすると、問題は「誰がチップを制御するソフトウェアをつくり、誰がスイッチングシステムをつくるか」です。つまり誰が、この分野でのマイクロソフトとコンパックの役割を果たすのか、です。

私は、ソフトウェア開発チームを統率してきた経験をもとに、ネットワーク機器業界のマイクロソフトの役割を狙いたいと思ってPica8を創業しました。それでは誰がこの世界のコンパックになるのか?それは台湾企業でしょう。

そう考えて私は台湾に行き、クアンタ(世界最大のノートパソコン受託生産企業)、フォックスコン(世界最大の電子機器受託生産企業)、インベンテックといった会社に自分のアイディアを話し、ホワイトボックスの製造受注の可能性を討論しました。その中で、私のアイディアを支持してくれたのがクアンタでした。とはいっても、クアンタは当初、発注量が少なすぎるといって私の話に乗り気ではありませんでした。そこで私は「シスコの年商の1%の市場に食い込むだけでいくらになると思う?」と説得して、クアンタの協力を取り付けました。

私は2009年にPica8を設立するとともに、Pica8の戦略的なパートナーとなるクアンタに入社し、同社の北米でのクラウドビジネスにも参加しました。その後、2011年秋にPica8のCEOの職に集中するため、クアンタを退社しました。

【問】最初の製品出荷はいつでしたか?顧客はどのように見つけましたか?

2011年秋に私はクアンタを辞めてPica8の経営に集中するようになりましたが、2011年末には資金繰りもだいぶ苦しくなってきました。いよいよ商品を市場に出して挑戦すべき時期にきたと判断し、2012年2月から出荷を始めました。市場テストをする余裕もなく本番を迎えたわけですが、幸い、2カ月で収支トントンになりました。

最初のお客さんたちへのアクセスには、実は私のブログが大きな役割を果たしました。私は、これまでの仕事の経験を通じて得た知見やSDN技術を解説するブログをずっと書いていて、けっこうな数の読者を獲得していました。そのブログ読者の中から、初期のお客さんたちが現れました。最初の頃の顧客の多くは大学や研究機関の関係者でしたが、大企業も早い時期から当社の製品を試しに購入していました。最初のまとまった注文は、ある検索サービス会社からでした。

【問】立ち上げ当初の状況はどうでしたか?どのように成長軌道に乗せたのですか?

最初のうちの製品出荷は、私の自宅のガレージからやっていたんです。スティーブ・ジョブズみたいでしょう(笑)。

2カ月ほどたったある日、見知らぬ人から「あなたのビジネスに関心があるから、訪ねていっていいか」という電話がかかってきました。その人物は、やってきて当社の状況を見た後、「あなたには資金が必要だ。資金調達をすべきだ」と言いました。しかしその頃のPica8は、経営が軌道に乗るかどうかの瀬戸際で、私が資金調達に走り回るための時間を割く余裕はありませんでしたから、「そのつもりはない」と答えました。そうしたらその人物は、10万ドルをポンと出資してくれました。それが、今、当社の副社長を務めているDean Auさんです。

Deanは成功した連続起業家でしたが、自分の会社を売却したあと、隠居生活に入ったものの、すぐに飽きてしまったそうです。しかし、奥さんは、夫が再び起業して激務に戻ることに反対でした。そこで彼は「仕事をお金で買う」こと、つまり有望な会社を見つけて出資をし、自分もそこで働く、という道を選んだのです。彼が目をとめてくれたのが当社でした。

彼はさらにもう一人の出資者を紹介してくれ、その方からも同額の出資を受けました。Deanはそのうえ、当社の事業が軌道に乗ると、ベンチャーキャピタルからの出資を受けるべき時期だといい、私がその準備をしている間、社内の留守を引き受けてくれました。ベンチャーキャピタルからの出資が決まったのが2012年秋。その後、数週間で、オフィスを私の自宅から現在のオフィスに移し、採用を行って現在のチームを創り上げました。

【問】シリコンバレーには有望なSDN技術の会社がいくつもありますが、その中でLiaoさんは事業の重点をどう設定していますか?

SDN技術の世界ではいろいろなビジネスモデルがあります。汎用チップに自社開発の専用ソフトウェアと専用ハードウェアを組み合わせるという戦略を採っているところもあります。一方、当社のように、自社開発のソフトウェアを汎用チップ、コモディティ化したハードウェア(ホワイトボックス)と組み合わせるという戦略を採っているところもあります。現在、当社のホワイトボックスベンダーは5社に増えています。 当社の事業の中核はPicosというOSですが、顧客へのツールやソリューションの提供が重要だと考えています。例えばマイクロソフト製品のユーザーの多くが気にかけているのは、OSより、ワードやエクセルといったアプリケーションソフトのほうでしょう。ネットワーク技術の世界も同様で、継続的に豊富なツールやソリューションを出し続けることが重要です。

【問】最後に、Liaoさんの挑戦にとって、シリコンバレーという地が持つ意義をお聞かせください。

シリコンバレーには、金と人材と独特のカルチャーがそろっています。なかでも重要なのが、失敗を許容するカルチャーです。ここでは多くの起業家が、次々に会社を興し、成功もすれば失敗もしています。それが普通のことです。だからこそ、失敗から学ぶことが可能になります。しかし、日本にも台湾にも、失敗に対するこういう寛容度はありませんよね。

また、先にお話しした私のケースもそうですが、ここではカネが良いアイディアを探しています。資金のほうからアイディアのほうにやってくる、ということが起きるんです。そういう点で、シリコンバレーは極めて特異な場所でしょうね。

【問】留学生として渡米したLiaoさんがシリコンバレーの起業家となるまでの歩み、エレクトロニクス産業で次々と起きてきたコモディティ化のダイナミズムとその起点としてのシリコンバレー企業の役割がよく分かりました。本日はありがとうございました。

参考文献

川上桃子[2014]「連続起業家からエンジェル投資家へ Chun P. Ciu(邱俊邦)氏のシリコンバレー40年」インタビューシリーズ 「シリコンバレーのアジア人企業家」 2014年1月
http://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Column/ISQ000004/ISQ000004_001.html )。

脚注
  1. 『ネットIT用語事典』によれば、SDNとは「コンピュータネットワークを構成する通信機器を単一のソフトウェアによって集中的に制御し、ネットワークの構造や構成・設定などを柔軟に、動的に変更することを可能とする技術の総称」(http://e-words.jp/w/SDN.html)である。
  2. 従来のネットワーク機器業界では、Cisco、Juniperといったシリコンバレー系の大企業が専用IC、専用ハードウェアを開発・提供してきた。これに対してPica8は、自社開発のOSと汎用IC、汎用ハードウェアを組み合わせて顧客に提供する「コモディティ型」の事業モデルを採っている(同社ホームページ等)。
  3. 統合脅威管理の大手ベンダー。