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コラム

中東カタルシス

第1回 PKKの解散は順調に進むのか――2009年との比較を通して

Will the PKK's dissolution proceed smoothly? A comparison with 2009

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001530

2025年10月
(4,685字)

PKK解散の急展開

2025年5月12日、クルディスタン労働者党(PKK)が武装解除と解散を発表した。少なくとも双方合わせて4万人以上が亡くなるなど、1984年から約40年以上にわたりトルコ政府と熾烈な抗争を続けてきたPKKの武装解除と解散は、世界中で驚きをもって報じられた1。クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアという4カ国に跨って居住しており、さらに、ヨーロッパを中心に多くのクルド人がディアスポラとして暮らしている。その事実に鑑みれば、PKKの武装解除のインパクトは中東地域にとどまらない大きなものとなることが予想される。

PKKは、絶対的党首であるアブドゥッラー・オジャラン(Abdullah Öcalan)の下、トルコに対して武力闘争、そして1990年代半ばからは政治闘争も同時に展開するようになった2。駐日トルコ大使、駐米トルコ大使などを歴任し、その後、国会議員に転じてトルコ大国民議会議長になるシュクリュ・エレキダー(Şükrü Elekdağ)が「トルコは2と2分の1の戦争(シリア、ギリシャ、そして国内脅威としてのPKK)に直面している」3と表現したように、90年代、トルコ政府にとってPKKは安全保障上、最優先の課題のひとつであった。1999年にオジャランが逮捕された後も、兵士たちは北イラクのカンディル山に潜伏しながら、抵抗運動を続けてきた。

互いに多大な犠牲を払ってきた、この抗争に終止符を打つ好機は突然やってきた。2024年10月に、これまでPKKに厳しい対応で知られてきた、民族主義者行動党(MHP)のデヴレット・バフチェリ(Devlet Bahçeli)党首がオジャランをトルコ国会に招聘することを提案したのである。親クルド政党である人民の平等と民主主義党(DEM党)も、この機会を最大限に生かすべく、バフチェリの呼びかけに応じていった。2024年末からDEM党の代表団がオジャランとの面会を許され、2025年2月25日のオジャランとの3回目の面談の際、オジャランから、北イラクのカンディル山に潜伏するPKKに対し、武装解除と解散を促す談話が発表された。このオジャランの発言に、カンディル山の現場の幹部たちも理解を示した。そして、5月12日にカンディル山に潜伏しているPKKが正式に武装解除と解散を発表した。

写真1:オジャランをトルコ国会に招聘することを提案したバフチェリMHP党首(写真左)

写真1:オジャランをトルコ国会に招聘することを提案したバフチェリMHP党首(写真左)
武装解除のプロセス

7月9日、トルコの独立系メディアであるT24が、オジャランによる武装解除に関する声明をYouTubeと紙面の両方で発表した4。トルコメディアがオジャラン本人による声明を放送するのは、オジャランが1999年2月に逮捕されて以来、初めてであった。オジャランはここで改めてPKKの武装解除に言及すると共に、トルコ大国民議会で武装解除のための委員会が設置されることが重要だと主張した。  

武装解除のプロセスは、オジャランの声明が放送された2日後の7月11日から始まった5。30名のPKK兵士(男性兵士15名、女性兵士15名)が北イラクのスレイマニヤ(Sulaymaniyah)に集まり、武器を焼き、投降したのである6。スレイマニヤには、トルコのインテリジェンス機構である国家情報局(Milli İstihbarat Teşkilatı、以下MİT)関係者、DEM党議員、イラク政府関係者、クルディスタン地域政府(KRG7関係者、メディアなどが集まった。

写真2:デモなどで使用されるオジャランの顔写真入りの旗

写真2:デモなどで使用されるオジャランの顔写真入りの旗

また、DEM党の中心人物の1人であるペルヴィン・ブルダン(Pervin Buldan)は、レジェップ・タイイプ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)大統領に電話でトルコ政府の対応に関して感謝の意を伝えている。このこともエルドアン大統領、公正発展党、そしてMİTがこの工程に深く関わっていることを印象づけた。DEM党およびそれ以前の世俗的な親クルド政党は、2015年以降、第三政党として、トルコ大国民議会で存在感を有しているが、政治的な問題に関しては政権と対立する野党と近いスタンスをとることが多かった。しかし、PKKの武装解除の進展後、連立与党とDEM党の距離が急速に縮まっているように見える。4月10日にはエルドアン大統領とDEM党のブルダンとスル・スレヤ・オンデル(Sırrı Süreyya Önder)が会談を行ったが、エルドアンと親クルド政党の議員の対面での会談は2012年以来、じつに13年ぶりであった。  

PKKの武装解除から2週間後の7月25日、トルコ大国民議会において議長であるヌマン・クルトゥルムシュ(Numan Kurtulmuş)がPKK解散のための51人からなる特別委員会を立ち上げる提案を行った。51人の内訳は、公正発展党21、共和人民党10、DEM党4、MHP4、善良党3、その他の党3となっている8。そして、クルトゥルムシュは各政党に7月31日までに委員会に参加する議員を選出するように要請した。この中で、善良党が委員会への議員選出を拒否し、1議員が参加予定の民主党も決定を保留しているため、8月2日時点で、選出委員は47人となっている。委員会では全体の5分の3の票があれば、その決定が委員会を通過されることも確認された9

写真3:PKK党員が潜伏している北イラクのカンディル山

写真3:PKK党員が潜伏している北イラクのカンディル山
2009年のハブル事件との比較

ここまでのプロセスは順調であり、PKKの武装解除が一気に達成される可能性もあり得る。ただし、冒頭でも触れたように、約40年間続き、多くの犠牲者を出したトルコ政府とPKKの間の紛争は、一筋縄に解決に向かわない可能性も否定できない。今回の武装解除の実現を占ううえで参考となるのが、2009年に始まったクルド問題解決の試みであった「民主的開放(Demokratik açılım)」の際の失敗である。2009年から2015年にかけて、トルコ政府とPKKの間で2度、クルド問題解決が試みられた。1度目が2009年の「民主的開放」の試み、2度目が2013年から15年にかけての和平交渉であった10

民主的開放プロセスは、2009年7月29日に当時のベシル・アタライ(Beşir Atalay)内相が、「トルコ国民の民主主義的権利を強化し、市民が自由と平等を理解することでクルド問題を解決することができる」11と述べ、同年11月にはクルド問題解決に関する短期・中期・長期の計画を提示した。オジャランも民主的開放の時期にクルド問題解決のためのロードマップを発表した。その内容は、PKKによる恒久的な停戦の宣言、法的障害の除去とPKKの武装解除のための政府による真実と和解委員会の設置、民主的憲法の制定のあとに、PKKが武装解除するというものであった12。このオジャランのロードマップに対し、トルコ政府はまずPKKが武装解除すべきという立場であった。また、この時期、親クルド政党として民主社会党が大国民議会で議席を有していたが、トルコ政府とオジャランの間の懸け橋になることができず、2009年12月には解党処分を受けることとなる。要するに、この民主的開放において、トルコ政府はオジャランおよびPKK、そして親クルド政党と足並みが揃っていなかった。

民主的開放を機能不全にさせるきっかけが、2009年10月19日に起きたハブル事件であった。この日、オジャランのロードマップの呼びかけに応じ、北イラクのPKK党員34名がイラク・トルコの国境のハブル検問所に到着し、そこからトルコ領内に入った。その後、彼らは民主社会党の用意したバスでディヤルバクルに向かうが、熱烈な歓迎を受ける様子がテレビで放映されると13、トルコ国民から反発の声が上がった。さらに、同年12月7日にトカト県レシャディエ(Reşadiye)でPKKの攻撃により、トルコ兵士7名が死亡、3名が負傷した。ハブル事件、レシャディエのテロ、そしてその後の民主社会党の解党により、民主的開放はとん挫した。

ハブル事件が起こる以前の民主的開放に対する一般市民の評価は決して低くはなかった。2009年8月にトルコの政治・経済・社会調査基金(SETA)とPollmark社が実施した世論調査では、民主的開放を支持する割合が48.1%、支持しない割合が36.4%、わからないが15.5%という結果となっており、世論が割れていたものの、支持する人の割合が支持しない人の割合を約12ポイント上回っていた14。それでも、ハブル事件において、トルコ国民の反発の声はトルコ政府への圧力となった。

では2025年のPKK解散に関する国内世論はどうか。世論調査会社のメトロポール(Metropoll)社が2025年5月9日に公開した世論調査によると、「オジャランが進める最近のPKKの解散プロセスを支持するかしないか」という質問に関する答えは「支持する」という割合が23.8%、「支持しない」という割合が67.7%、「わからない」という割合が8.5%であった。「支持しない」と答えた人の割合が「支持する」と答えた人たちの3倍弱で、圧倒的に「支持する」と答えた人々の割合を上回った。政党別に見ても、DEM党の支持者の70%が「支持している」と答えた以外は、連立与党の公正発展党の支持者とMHPの支持者はそれぞれ、32.1%、36.1%にとどまっている。この世論調査の結果を見ても、トルコ国民のなかでは急展開したPKKの解散に向けた動きにまだ戸惑っている人々が多いことがわかる。

プロセスの潜在的阻害要因

連立与党とDEM党は、2025年内のPKKの武装解除完了を目指している。今のところ、順調に進むプロセスを阻害する要因としては、前述した世論の根強い反対、そしてオジャランの武装解除の呼びかけに応じなかった、北シリアのクルド民族主義組織の動向が挙げられる。北シリアのクルド民族主義組織は、トルコ政府からPKKの一部と見られてきたが、近年はシリアのクルド人というアイデンティティを強く打ち出すようになっている。北シリアのクルド民族主義組織である民主統一党(PYD)や、その武装組織でありシリア民主軍(SDF )の主力である人民防衛隊(YPG)は、北シリアのクルド民族主義組織はPKKとは異なるとして、武装解除に応じない構えを見せた。オジャランのPKK解散の呼びかけに対し、シリアのクルド人組織は、「オジャランの発言を尊重するものの、自分たちはPKKとは異なる組織だ」15とはっきり表明した。PKKとシリアのクルド民族主義組織の密接な関係を主張してきたトルコにとってはこの点が誤算であった。なぜなら、PKKPYDの間に密接な関係がないということは、米国などがシリアのクルド民族主義組織への支援の口実を得ることになるためである。さらにシリアのクルド民族主義は、トルコ政府が影響力を行使している新生シリア政府との関係強化を画策している。こうした動きはトルコにとっては予想外だと思われ、新生シリアの国家建設において、トルコ政府が想定していたクルド民族主義の排除が困難になってきている。  

クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアという4カ国に跨って居住しているため、PKKの武装解除は地域全体にインパクトを及ぼす。さらに、ヨーロッパを中心に多くのクルド人がディアスポラとして暮らしていることを考えると、今後、こうしたディアスポラにもどのような影響があるのか、考察していく必要があるだろう。まずはPKKの武装解除が年内に完了するのか、連立与党とDEM党の蜜月関係が築かれるのか、それらの点を中心に今後の展開を注視していきたい。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • 写真1:2023年5月1日、筆者撮影
  • 写真2:Jan Maximilian Gerlach(CC BY-SA 2.0
  • 写真3:Wary Abdullah(CC BY-SA 4.0
著者プロフィール

今井宏平(いまいこうへい) アジア経済研究所 地域研究センター 中東・南アジア研究グループ 副主任調査研究員。Ph.D. (International Relations). 博士(政治学)。著書に『トルコ100年の歴史を歩く: 首都アンカラでたどる近代国家への道』平凡社(単著、2023)、『戦略的ヘッジングと安全保障の追求:2010年代以降のトルコ外交』有信堂(単著、2023)、『エルドアン時代のトルコ:内政と外交の政治力学』(岩坂将充との共著、2023)、編著に『クルド問題』岩波書店(編著、2022)、『教養としての中東政治』ミネルヴァ書房(編著、2022)などがある。


  1. Council of Foreign Relations, “Conflict Between Turkey and Armed Kurdish Groups”, 27 May 2025. 国際危機グループ(International Crisis Group)の報告書によると、2015年以降だけでも7227人が亡くなっている。International Crisis Group, “Türkiye’s PKK Conflict: A Visual Explainer”, 4 June 2025.
  2. オジャランに関しては、今井宏平編『クルド問題』岩波書店(編著、2022)の第1章を参照。
  3. Sükrü Elekdağ, “2 1/2 War Strategy”, Perceptions, March-May 1996, pp.33-57.
  4. T24 Youtube channel, Öcalan'dan 26 yıl sonra PKK'ya videolu mesaj!”, 9 Temmuz 2025; “Öcalan'dan 26 yıl sonra tarihî video; PKK'ya ikinci kez çağrı yaptı: Silahın değil, siyasetin gücüne inanıyorum, sizi de bu ilkeyi hayata geçirmeye çağırıyorum”, T 24, 9 Temmuz 2025. 公開されたのは7月9日だが、オジャランの声明が撮影されたのは6月25日であった。
  5. 7月11日の武装解除開始はその3日前にオジャランから実施が発表された。
  6. 7月11日の武装解除の詳細に関しては以下を参照。 “30 PKK'lı silahlarını yaktı: Görüntüler paylaşıldı”, NTV, 11 Temmuz 2025.
  7. KRGはイラクのクルド人自治組織で、エルドアン政権と良好な関係にある。
  8. “Meclis komisyonu için siyasi partilerin temsilci sayısı belli oldu”, Birgün, 25 Temmuz2025.
  9. “Terörsüz Türkiye için görev başına... Komisyon tamam, ilk toplantı 5 Ağustos'ta”, Hurriyet, 1 Ağustos 2025.
  10. 2005年から11年まで、MİTPKKがノルウェーのオスロで秘密会談を実施し、解決に向けた糸口を探っていた。このオスロでの秘密会談の詳細は以下を参照。Ibrahim Ural, Oslo Görüşmeleri: Bir Emniyet Müdürünün Kaleminden, Ileri Yayınları, 2014.
  11. Cuma Çiçek, “Süreç": Kürt Çatışması ve Çözüm Arayışları, İletişim, 2018, p. 170.
  12. Musa Akgül and Çiğdem Görgün Akgül, “Beyond mutually hurting stalemate: why did the peace process in Turkey (2009–2015) fail?”, Turkish Studies, Vol. 24, No.1, p. 12.
  13. 例えば、以下の動画参照。
  14. SETA and Pollmark, Türkiye'nin Kürt Sorunu Algısı, SETA Yayınları, 2009, p. 79.
  15. Justin Salhani, “What does the PKK’s disarming mean for its regional allies?”, Aljazzera, 14 May 2025.