ライブラリアン・コラム
『アジアの動向』オンライン公開――インターネットがない時代の徹底した情報収集
小林 磨理恵
2022年6月
コロナ禍で推進された図書館の取り組みには、資料のオンライン化が挙げられる。アジア経済研究所(以下、アジ研)図書館では、機関リポジトリ(ARRIDE)に未登録のアジ研出版物のうち、機関誌『アジア経済』1と『アジアの動向』をARRIDEに新規登録する資料とし、公開準備を開始した。
2021年に、まず『アジアの動向』をARRIDEで公開した。『アジアの動向』を優先させた理由は、同誌の掲載記事が無記名であり、電子化公開に当たって、著作権利用許諾を得る必要が生じないためである。一方の『アジア経済』掲載記事は、当然ながら著者名を明記した著作物であることから、各著者に対し、著作権利用許諾をお願いすることから始めた。数百名の著者からご署名をいただき、現在も鋭意公開準備を進めている。
本コラムでは、公開準備の裏側も交えつつ、『アジアの動向』の特徴や、インターネットがない時代に同誌が果たした役割を考えてみたい。
『アジアの動向』とは何か
さて、『アジアの動向』をご存じだろうか。アジア諸国の政治・経済の動向と見通しを記録・分析した月刊誌で、『アジア動向年報』(1970年~現在)の前身に位置づけられる。1963年9月から1969年2月までに、72冊が刊行された。アジ研は特殊法人として1960年に創立した。したがって『アジアの動向』は、アジ研草創期の出版物と位置づけられる。
『アジアの動向』には、1964年以降に「年刊版」(国別シリーズと呼ばれる)もある。これは、月刊『アジアの動向』12カ月分を国別に1冊にまとめ、総目次、年表、諸統計索引等を追録したものだ。このほど10カ年分(2010~2019年)の『アジア動向年報』を国別にまとめ直した「バンドル版」が刊行されたが、「バンドル版」と『アジアの動向』の年刊版とは近い発想から生まれたものだといえる。ARRIDEでは、この年刊版(1964~1968年の各年)と1963年の別冊4点を公開している2。
『アジアの動向』で取り上げた国・地域は、韓国、中国、インドシナ(南ベトナム、北ベトナム、カンボジア、ラオス)、タイ、フィリピン、マレーシア・シンガポール、インドネシア、ビルマ、インド、パキスタン、シベリアである。これら諸国・地域は、1960年代に大きな政治変動を経験した。『アジアの動向』は、変動の渦中にあった日々の動向を丹念に調査した記録であり、アジアのニュースを簡単に得られない時代にとりわけ重要な意味をもった。
『アジアの動向』に深く関わった木村哲三郎氏は、『アジア経済研究所20年の歩み』(参考文献①)において、「動向分析の仕事は現実の歴史の進行によって、その価値を判定されるという強味(ママ)を持っている」と述べる。そのうえで、ベトナム戦争、インドネシアのスハルト政権登場、文化大革命といった1960年代の「事件」が、それぞれ『アジアの動向』で如何に分析されたか、そして、事件当時の分析・見通しとその後の実際の展開が、如何に食い違ったものになったかを批判的に検討している。とりわけ食い違いが生じた要因について、当時の分析手法に踏み込んで考察した点が興味深い。動向分析事業については、参考文献②、③も併せて参照されたい。
『アジアの動向』の中心は「日誌」
動向分析の情報源となったのは、各国から送られてくる現地の新聞であった。『アジアの動向』を担った動向分析部の研究員は、日々これらの新聞に目を通し、記事を切り抜きして国別、日付順にファイリングした(写真2)。1970年の『アジア動向年報』創刊までに蓄積した切り抜き枚数は、60万点を越えたという(参考文献④)。
こうして蓄積されたファイルをもとに執筆・作成されたものが、毎日の出来事を記録した「日誌」や、新聞社説や政治家の演説の訳出等からなる「資料」である。現在の『アジア動向年報』は、1年間の政治・経済の動向分析を中心とするが、『アジアの動向』では、「日誌」や「資料」の分量が動向分析をはるかに上回る。ほとんど毎日の出来事があまりに詳しく、淡々と綴られており、1日の日誌の分量が数ページにわたることもあった。筆者は公開準備の過程で、その凄まじい情報量に、終始圧倒されてしまった。
先述のように、現実の歴史が、分析当時の見通しとは別の経過をたどったこともあっただろう。しかし日々の詳録それ自体は、価値を失っていないのではないか。その後の世界に影響を残す政治事件を経験した1960年代当時、日ごとに何が起こっていたかを確認する資料として、『アジアの動向』は今なお有用である。
電子と紙を両方使ってほしい
ところで、ARRIDEでの公開にあたり、特に時間を割いたのは、検索性を高めるための工夫である。具体的には、PDFファイルにテキストデータ(透明テキスト)を埋め込む作業で、OCR機能を用いて、画像として認識されたテキストを文字として認識させる処理をした。機械によるテキスト化には、残念ながら、完全な精度を見込むことができない。そのため、PDFの1ページごと透明テキストを確認する際には、名詞(特に固有名詞)の誤りにとりわけ注意して、修正するようにした。検索ワードとして選ばれるのは、名詞だと考えたからである。
ARRIDEで公開した『アジアの動向』本文は、ARRIDEトップページの検索窓にキーワードを入力し、「全文検索」を選んで検索できる(写真3)。特定の年・国のPDFファイルをダウンロードすれば、文書内検索が、関心のある事項に当たる近道になるだろう。
PDFの確認作業を繰り返しながら、新聞の収集を徹底し、丹念に記事を拾った研究員の姿に想像をめぐらせた。インターネットがない時代の情報収集は、今とは比べ物にならない苦労があったことだろう。同時に、貴重な現地情報に対する社会の期待も大きかったはずだ。
動向分析部が作成したクリッピングファイルは公開していないが、アジ研図書館では、1960年代のアジア諸国で発行された新聞を、マイクロフィルムで保存している。『アジアの動向』で使用された新聞と同一のタイトルとは限らないが、同誌の記録に関心のある事実が見つかれば、ぜひ図書館で新聞を閲覧してほしい。原文を確認することの重要性は言うに及ばず、同じ紙面のなかに、別の興味深い事実が見つかるかもしれない。
写真の出典
- 筆者撮影
参考文献
- ① 木村哲三郎(1980)「動向分析」(『アジア経済研究所20年の歩み』アジア経済研究所所収)。
- ② 浜勝彦(1990)「動向分析」(『アジア経済研究所30年の歩み』アジア経済研究所所収)。
- ③ 木村哲三郎・竹下秀邦・浜勝彦・福島光丘(2010)「第7回 動向分析事業の歩み (特別連載 アジ研の50年と途上国研究)」『アジア経済』第51巻第10号。
- ④ 根岸富二郎(1970)「はしがき」(『アジア動向年報1970年版』アジア経済研究所所収)。
著者プロフィール
小林磨理恵(こばやしまりえ) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は東南アジア(2011年~現在)。2016~2018年海外派遣員(バンコク)。最近の著作に「タイの「読むこと」をめぐる世界」(『バンコク日本人商工会議所所報』694号、2020年)、「The Nation終刊――タイ社会と新聞の寛容さをめぐる一考察」(『IDEスクエア』2019年)など。
注
- ARRIDEにおいて、2001年4月号以降の『アジア経済』は全文公開されている。一方2001年3月号以前については、一部を除き未公開の状態にある。
- 年刊版として刊行されなかった1963年9~12月については、ARRIDEで公開していない。アジ研図書館で所蔵する冊子体を閲覧してほしい(請求記号:PJa/05/Aj1)。
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