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ウェブ資料展:途上国と感染症

身体と政治がつながるとき――タウィーサック・プワクソム著『病原菌、身体、そして医療化する国家――タイ社会における近代医療の歴史』を読む
 

小林 磨理恵

2020年7月

今回紹介する資料
末尾に「(※)」印が記載してある資料はアジア経済研究所図書館で所蔵しています。リンク先はそれぞれの図書の蔵書目録(OPAC)になります。
顕微鏡のレンズの先に
ユニークな表紙である。顕微鏡を精緻に描いた表紙から、一見すると科学に関する書籍にみえる。しかしレンズの先にセットされるのは、微生物ではなく、赤と白と青の三色で構成されたタイの国旗。顕微鏡で細部を観察しようとする対象は、病原菌よりも、タイ国家なのだろう。著者のタウィーサック・プアクソムは、東南アジア研究/歴史学を専門とする研究者で、現在はタイ・ナレースワン大学社会科学部に籍を置く。著者の専門分野からも、自然科学を連想する「病原菌、身体」を冠する本書が、実は自然科学系の研究ではないことが推察される。

写真:本書の表紙

本書の表紙

本書、タウィーサック・プワクソム著『病原菌、身体、そして医療化する国家——タイ社会における近代医療の歴史』は、タイ社会に近代医学の知識が流入して以来、医学がどのようにタイの国家権力の手段となったかを明らかにすることを目的としている。19世紀半ばからの約一世紀を射程とし、病原菌が国家を創り上げる過程、また、病原菌の制御が国民の規律化に及ぶ過程に関心の主眼を置く。前書きを寄せた歴史家のニティ・イアオシーウォンの言葉を借りれば、本書は「タイ国家の身体に及ぼす権力の歴史」で、ミシェル・フーコーの「生政治(Bio-politics)」論に影響を受けている。感染症を切り口に、国民の身体に及ぶタイの国家権力の在りようを検証しようとした書だ。

現在のタイは、2019年に民政復帰を果たしたものの、前軍事政権の流れをくむ政治体制を維持している。一つの転機は2020年2月に訪れた。軍を強く批判し、若者を中心に支持を集めた野党の新未来党が、憲法裁判所より解党を命じられたのである。全国各地で学生が集結し、政権への抗議行動を開始した。学生の政治運動は長らくみられなかった現象である。そこに「コロナ禍」が重なった。非常事態宣言が発令され、集まることが禁じられる。感染症と個人の行動と政治とが密接に絡みつく。その時想起したのが、本書であった。

本書の概要

最初に登場するのは、米国人宣教師のダン・ビーチ・ブラッドレーだ。ブラッドレーは、1835年にタイ(当時はシャム)に訪れて以来、医師として治療に当たりながら、Bangkok Recorderを通じて西洋医学をタイ社会に紹介した。Bangkok Recorderはタイで最初の新聞であり、ブラッドレーはその創刊者としても著名である。タイにおける西洋医学の流入と伝達は、印刷技術の浸透と共にあった。

1830年代のヨーロッパでは、コレラが大流行していた。ブラッドレーは、蒸気船や鉄道といった新たな輸送技術により、伝染病が広範に拡大していることをタイ社会に伝えた。そして、病気の種を意味する「チュアローク」の存在を初めて紹介した。書名の冒頭にもある「チュアローク」というタイ語は、今日ではパスツールの細菌や病原菌の意味において用いられる。一方19世紀半ばのタイ社会では、病気の原因は瘴気、つまり「悪い空気」なのだと固く信じられており、ブラッドレー自身が当初はその説の擁護者だった。そのため、ブラッドレーのいう「チュアローク」が、果たして病原菌を含意したかは定かでない。

瘴気が信じて疑われなかったことがもたらした最大の「貢献」は、1890年代以降に衛生管理が制度化されたことである。1893年に始まるバンコクの衛生対策は、トイレやごみ収集などを通じて都市の不衛生を改善しようとするものだった。1897年には市民を病気から守ることを目的に「衛生法」が制定され、バンコク行政省下に衛生局が設立された。

バンコクで病原菌の知識が広まったのは1901年5月。衛生局の医官であるH・キャンベル・ハイエットが、英・グラスゴーで目の当たりにした腺ペストの大流行を報告したことによる。ハイエットは「ペスト流行は必ずバンコクにも及ぶ」と主張し、数々の対策を提案した。それから3年半を経た1904年12月、ついにバンコクもペストに襲われる。ペストに感染した村の住民を隔離することが、即座にチュラーロンコーン国王に進言された。2カ月後には、衛生局がペスト流行警報を発した。曰く、「バンコクでペスト発生。ペストは汚物から出る微生物による非常に感染力が高い病気。不衛生な区域に生活する人々の命は危険にさらされている」。感染拡大と共に、細菌学がタイのエリートの間に広く浸透していった。ネズミやノミや蚊がタイ史上初めて注目を浴び、「大災害」を引き起こす原因だと考えられるようになった。そして重要な監視対象となる。「見えない敵」との闘いが始まった。

おのずと「人口」の概念が定着した。感染症流行を契機に、死亡率の抑制と公衆衛生維持を目的として、医学と国家が結びつく。公衆衛生は国家の繁栄にとって国防に次ぐ重要な位置を占めるに至り、人口が政府の重大な関心事となった。その結果、人口統計の収集が喫緊の課題となり、「Vital Statistics」が登場する。公衆衛生局の局長は、1924年の「公衆衛生とは何か」と題する演説において、「公衆衛生とは国民の『身体的幸福』を意味し、政府は大規模かつ健康な人口を創出するためにある」と発言した。

1938年末にピブーンソンクラームが首相に就任し、ナショナリズムに基づく国家建設が始動した。病気の制御に焦点を当てた公衆衛生政策が打ち出され、健康な身体を持つ人口を増やすための「国家栄養計画」が、最重要政策の一つとなった。さらには、国民の日常習慣を規律化することが目指された。公共の場へは適切な衣服を着ることを命じるなど、ピブーン政権は日常習慣や文化にも国家権力を行き渡らす政策を推進していった。

このようにして、感染症の流行と共に浸透した病原菌の知識は、国家が「見えない敵」と闘う際の知的基盤となり、また一方で、国民の身体を統制・管理することに正統性を与えたのである。

タイにおける新型コロナウイルス感染症

タイでは、1月13日に中国国外で最初となる新型コロナウイルス感染者が確認された。早い段階で危機意識が広まり、恐怖が蔓延したように思う。3月26日には非常事態宣言が発令され、夜間外出禁止や人が集まる施設の閉鎖などの措置がとられた。4月下旬以降、新規の感染者数は連日一桁台に落ち着いていた。しかし1カ月の期限つきだった非常事態宣言は3度延長され、7月末までとなった。行動制限を継続する政権には、批判の声も挙がっている。

タイの人々は感染症に恐怖心を抱きながら、同時に関心を向けていったようだ。関心の高まりに呼応するように、感染症関連の書籍が続々と登場した。『悪霊から病原菌へ――タイ社会における医療と感染症の歴史』(チャートチャーイ・ムクソン著、マティチョン出版、2020年4月刊)や、『Covit-19――世紀の感染症』(ナムチャイ・チーワウィワット著、マティチョン出版、2020年4月刊)などが、目下注目を集めている。本稿で紹介したタウィーサックの著作も注目された一冊である。感染症が、国家による国民と身体の制御を正当化するという本書の問題意識は、今日のタイの政治社会にも連なる。だからこそ、本書は読まれたのではないか。

タイ語に馴染みのない方には、著者が英語で執筆した論文「病原菌、公衆衛生、そして健康な身体――タイにおける医療化する国家の形成」1や、「欲望の約束――タイにおける健康管理の政治と道徳の言説、1950~2010年」2をお勧めしたい。なお、後者をタイ語に翻訳したものが、本書に補遺として収録されている。

写真の出典
  • Illuminations Editions社の許諾を得て、筆者撮影。
著者プロフィール

小林磨理恵(こばやしまりえ) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は東南アジア(2011年~現在)。2016~2018年海外派遣員(バンコク)。最近の著作に「タイの「読むこと」をめぐる世界」(『バンコク日本人商工会議所所報』694号、2020年)、「The Nation終刊――タイ社会と新聞の寛容さをめぐる一考察」(『IDEスクエア』2019年)など。

  1. Davisakd Puaksom [2007] "Of Germs, Public Hygiene, and the Healthy Body: The Making of the Medicalizing State in Thailand," The Journal of Asian Studies, Vol.66, No.2, pp.311–344.(P/908/Fa1)
  2. Davisakd Puaksom [2015] "A Promise of Desire: On the Politics of Healthcare and Moral Discourse in Thailand, 1950-2010," in Liping Bu and Ka-che Yip, eds., Public Health and National Reconstruction in Post-War Asia: International Influences, Local Transformations, Abingdon: Routledge, pp.175-196.(AA/361.1/P6)