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海外研究員レポート

第13回タイ研究国際会議に参加して

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049825

小林 磨理恵

2017年8月

1. はじめに

2017年7月15日から18日までの4日間、タイ北部のチェンマイ県にあるチェンマイ国際展示会議場(CMECC)において、第13回タイ研究国際会議(13th International Conference on Thai Studies、以下ICTS)が開催された。ICTSは、タイ研究に関係するタイ国内外の研究者や大学院生等が集い、多岐にわたるテーマを議論する大規模な研究集会であり、1981年にインドのデリー大学で開催されて以降、3年に1度の頻度で開催されている1。13回目を迎えた本年のICTSは、チェンマイ大学が主催し、チュラーロンコン大学社会調査研究所、マヒドン大学人口社会調査研究所、タマサート大学タイカディー研究所、コンケン大学人文社会学部が共催した。その他、タイ研究基金(TRF)、アジア財団、アメリカ大使館、オランダ大使館、インド大使館、国際協力機構(JICA)等が協賛している。

「国際化したタイ?――タイ研究のつながり、矛盾、そして難問――」を表題に掲げた第13回ICTSでは、3つの基調講演、206の分科会が設けられ、個別の研究報告数は598に上った。研究報告とは別に、9つのブックトーク(本の著者を囲んで行われる対話形式の講演会)や6本のタイに関する映画の上映、「多様性の中の接続」をテーマとする企画展示も行われた。登録参加者の総数は、約900名に上ったとされる。なお、報告者の内、日本人研究者は35名程度であった。 本稿では、4日間に報告された研究テーマを概観した後、主にタイ政治に関する分科会の要点を報告する。2014年のクーデタ以降、いまだに民主化を実現しないタイの国情を背景に、政治関連の分科会は他のテーマの分科会に比して圧倒的に多くの聴衆を集めていた。その他に、学者らから発表された学問の自由を求める声明など、研究報告以外の特筆すべき事項についても記したい。

2. 研究報告テーマの概観

表1は20のテーマ別に分科会数と研究報告数をまとめたもので、Chayan Vaddhanaphuti実行委員長による開会の辞で発表された。テーマの分類がやや曖昧だが、今回のICTSの全体像を把握する上で有用であるため、ここに掲載しておきたい。本表から、タイ社会の現在と過去とが多角的な視点で追究されていることが分かるだろう。なお、本表での分科会の総数が先述の数と一致していないのは、本表にラウンドテーブルが含まれていないことによる。

表1 研究報告テーマと分科会・研究報告数

テーマ 分科会数 研究報告数
1 文化、遺産、技能、職人 18 60
2 境界研究、経済特区 15 60
3 民主主義の危機、政治、統治 17 58
4 歴史と集合的記憶 23 48
5 タイ経済とグローバル市場 14 46
6 宗教と近代性 12 46
7 タイとASEANの関係 10 41
8 文学、メディア、言語 10 33
9 ラーンナー研究 8 30
10 教育 8 30
11 医療制度、高齢化 7 27
12 都市化、公共圏、空間政治 5 20
13 土地管理 5 19
14 移民、無国籍住民、難民 5 18
15 ジェンダー、セクシュアリティ 5 17
16 トランスナショナリティ 3 15
17 エスニシティ、アイデンティティ 4 14
18 サッカーと政治 2 7
19 タイ族の家屋と建築 2 6
20 霊魂、神聖、神々、占い 1 3
174 598

(出所)Chayan Vaddhanaphuti実行委員長による開会の辞でのスライド資料を元に筆者作成。

研究報告数が40を超えたテーマは、「文化、遺産、技能、職人」、「境界研究、経済特区」、「民主主義の危機、政治、統治」、「歴史と集合的記憶」、「タイ経済とグローバル市場」、「宗教と近代性」、「タイとASEANの関係」であった。以下では研究報告が多数あったテーマについて、その内容を概観する。詳しい題目と内容は、ICTSのウェブサイトで公開されている報告要旨集を参照されたい2

特に多くの研究報告を集めた文化、遺産、歴史、民族といった主題には、開催地がチェンマイであることも影響し、チェンマイを含むタイ北部を対象とする研究が数多く報告された。また、研究報告数が30に上った「ラーンナー研究」は、チェンマイを首都としたラーンナー王朝期に関する歴史研究、またその領域の社会・文化についての研究を含む。今回のICTSは、全体としてタイの地方ないしは周縁部に焦点を当てた研究報告が目立ち、チェンマイで開催することの意義を強く印象づけた。これは、全ての分科会に先立って行われた初日の基調講演が、タイ北部の高僧であるクルーバーシーウィチャイの生涯の分析を通じてタイ近代史をとらえ返す内容であったことにも表れている。

「文化、遺産、技能、職人」と並んで最も多くの研究報告を集めたテーマは、「境界研究、経済特区」であった。「境界研究」には、タイ・ミャンマー間やタイ・中国雲南省間といった「国境地域」や、東北部や深南部等、タイ国内の特定の地理的領域を対象とする研究の他に、民族間の「境界」に着目した研究が含まれた。ブックトーク(写真1)のテキストの一冊に「境界研究」を特集した大学紀要が選ばれていることからも、「境界」は、タイ研究において重視される分析概念のひとつであることがうかがえる。

次に、「民主主義の危機、政治、統治」をテーマとする研究報告数は58に上った。聴衆の規模から判断すると、注目度は最も高かったように思われる。聴衆の中には、英語からタイ語への同時通訳を介して熱心に耳を傾ける一般市民の姿も見受けられた。ここには、現軍事政権による内政を批判的に検討する内容が含まれたことから、録音や撮影を禁じるものがあったり、報告者から「内容を警察に告げないでほしい」との発言があったりし、言論の自由に大きな制約がある現状を改めて浮き彫りにした。それにも関わらず、民主主義や政治に関する研究が数多く報告され、聴衆を集めた事実は特筆に価しよう。これは、タイ政治の行方に対する関心の高さの表れである。

「タイ経済とグローバル市場」に関しては、中国、インド、日本等とタイとの二国間の経済関係に着目する分科会の他、コメを中心とする農業政策や農業構造の変化に焦点を当てた分科会があった。また、「宗教と近代性」には、仏教の他に、主に南タイのムスリムを取り上げたイスラーム教に関する研究報告があった。

写真1:「境界」を特集した、タマサート大学社会学人類学部紀要『社会学・人類学雑誌』(35巻1号、2016年1-6月)の執筆者を囲んだブックトーク

[写真1] 「境界」を特集した、タマサート大学社会学人類学部紀要『社会学・人類学雑誌』(35巻1号、2016年1-6月)の執筆者を囲んだブックトーク

3. 個別分科会の要点

今回は、ひとつの分科会につき90分が当てられ、同時間帯に15の分科会が平行して開催された。ここでは、筆者が聴講した政治、メディア、歴史と集合的記憶、ジェンダー、南タイのムスリムに関連する分科会のうち、3つの分科会を紹介する。

  1. デジタル・アクティビズムとサイバーセキュリティの政治(第124分科会、7月17日)

    都市別にみたフェイスブックの利用者数は、バンコクが世界最多だといわれている。本分科会では、タイにおけるデジタル・アクティビズム(ソーシャルメディアを通じた運動)とサイバーセキュリティに焦点が当てられ、情報通信技術の「革新」が、人々と他者・コミュニティ・政府とのつながり方をどのように変化させたのか議論された。

    Wimonsiri Hemtanon報告では、2014年のクーデタを支持しない市民が民主主義を議論するプラットフォームとして開設されたフェイスブックに着目し、人気のあった投稿やコメントを素材に、ネット市民によって生み出された権威主義的な秩序に抵抗するための手段や行動を検討した。同様にフェイスブックを分析対象としたAim Sinpeng報告では、2013年末に出現した当時のインラック政権に対する抗議行動に焦点を当て、街頭の運動家とオンライン上の運動家の来歴を抽出して比較した。民主党人民民主改革委員会(PDRC)支持者のうち、街頭の運動家はフェイスブック上の運動家よりも社会経済的な特権を有する点を明らかにして、フェイスブックは特権の少ない人々にとって政治参与の新たな手段となり、構造的不平等を縮小する可能性を持つと指摘した。

    Gennie Gebhart報告では、近年強化されているタイのインターネット検閲に光を当て、229のオンライン調査と12のインタビュー調査を通じて、インターネット利用者側の検閲に対する認識と行動の特徴を抽出した。Jittip Mongkolnchaiarunya報告では、本来政府機関の各部門の職務は分掌されており、ことに軍部と非軍部の職域は明確に分けられるが、サイバーセキュリティは軍部も非軍部も共に関与する性質を持つと指摘し、サイバーセキュリティ政策の策定および遂行をめぐって政軍関係がどのように変化してきたかをタイとシンガポールを事例に検討している。

  2. タイ国家と政治(第110分科会、7月17日)

    本分科会では、近年のタイ政治の特徴が様々な角度から議論された。現軍事政権のプラユット首相は、「国民に幸福を取り戻す」と名付けた毎週金曜日のテレビ番組で、軍政の政策やその遂行、政治的敵対者に向けた批判など幅広い内容の演説を行っている。Saowanee Alexander報告では、軍政期2年半の間に放送された約100の演説から無作為に50の演説を抽出し、その言語行為を様々な類型(脅し、弁解、賛辞、不満等)に分類して、軍政の言説における言語行為の機能を分析している。次に、Tittaphan Vachananda報告によれば、タクシン元首相の消費主導の経済政策に対して、政治エリート、特に軍事政権は、プミポン前国王の発案した「足るを知る経済」哲学を主な政治戦略の基盤としている。本報告は、王室の「正統性」を帯びた「足るを知る経済」を利用する政治的意味合いを考察した上で、「足るを知る経済」は、現在の経済状況に耐えうるものではなく、また農民の抑圧を国家が無視することをも示唆すると指摘した。他方で、Katja Rangsivek報告は、タイにおける権威主義の起源を探ることを趣旨として、大学教員に焦点を当てた調査を実施し、タイの大学教員は「権威主義的パーソナリティ」を備える傾向にあると分析した。その上で、タイの大学に抑圧的な文化があるとすれば、大学卒業者は民主的な価値や批判的思考を重視するようにはならず、こうした傾向は民主主義や高度な学問の実現に向けた障壁だと考えるべきだと主張した。

  3. 越境する親密性、移動、農村変容(2)(第72分科会、7月16日)

    今日のタイ社会において、タイ人女性と西洋人すなわち「ファラン」男性との結婚は一般的なものとなっている。本分科会では、結婚時の移動の「逆パターン」として、西洋人男性が妻またはパートナーの故郷であるタイ東北部に移住する事例から、彼らが新たに取り結ぶ社会経済的関係、また「ファラン」を迎え入れることによる農村社会の変容が議論された。

    まず、Eric C. Thompson報告は、グローバル化をめぐる議論では主に都市に注目が集まるが、国際労働移動や国際結婚等により、農村社会もグローバル化の影響を強く受けていると指摘した上で、タイ東北部の女性と西洋人男性との関係性が、同地域の伝統的な社会経済構造の変化と維持に及ぼした影響を分析した。Patcharin Lapanun報告も同様に、タイ東北部の女性と西洋人男性との結婚を取り上げたが、ここで注目したのは、同地域に生活する女性の元夫、父親、息子といった「男性」の存在である。彼らが「外」と結婚する女性の選択をいかに理解し、いかなる反応を示したかを分析することを通じて、国際結婚が農村コミュニティにおけるジェンダー関係に作用した点を指摘した。最後に、Buapun Promphakping報告は、欧米先進国は福祉費の抑制のために高齢者の海外移住を奨励し、一方のタイでは外国人の長期滞在を促進していると指摘した上で、タイ東北部の女性の国際結婚を、欧米先進国の福祉政策の文脈に位置付けて論じている。

    写真2:分科会の様子

    [写真2] 分科会の様子

  4. 終わりに

    今回のICTSでは、流動的なタイ政治を大局的に分析する研究報告が大きな注目を集めた一方で、グローバル化や国際関係の変動の中にあるコミュニティや個人といった「細部」に光を当てる研究報告も多数あり、4日間を通じて、現在のタイ研究が多角的かつ重層的な視点のもとに展開している様相を読み取れた。

    一方、特に政治に関する議論に制約があったことも事実である。最終日の休憩時間に、タイ研究に関係するタイ国内外の研究者176名の連名で、「タイ社会に知識の空間および市民の権利と自由の返還を求める」声明を発表する場面があった(写真3)。本声明では「現在のタイ社会における思考の自由の抑圧は憂慮すべき事態である。それは、国民が真実に近づいたり、前進するための情報を探索したりすることを不可能にし、知の退廃にも帰結する。さらに、異なる考えを持つ国民から権利と自由を奪うために国家権力を気まぐれに行使することは、タイ社会と国際社会における人権の低下を招く」と強調して、(1)国家は学問の自由を尊重せよ、(2)国家は国民の意見表明や表現の権利と自由を尊重せよ、(3)国家は民主主義の基本原理に則って主権を国民に早急に返還せよ、(4)タイ社会の重要な機関を改革せよ、の4点について、具体的な説明を付して要請した。声明発表の場には、出席者の他にメディアも集まり、この様子はタイの主要紙マティチョンなどに報じられた。研究者コミュニティが、現在のタイのアカデミズムは政治的に制約された状況にあると認め、それに対して明確に異を唱える場を持ったことは、今回のICTSの大きな成果のひとつであったように思われる。

    次回のICTSは3年後に予定されている。現時点で民主化に向けた具体的な行程は示されておらず、次回のICTSがいかなる政治・社会状況の中で開催されるのかは全く不透明である。しかし、政治体制の如何に関わらず、先述の声明のとおり学問や表現の自由は尊重されるべきであり、研究報告を希望する研究者には登壇が許され、あらゆる論題に闊達な議論の場が保障されなければならない。それらが完全には実現しなかった今回の反省が今後どのように活かされるのか、また、言論表現の自由を制限する政権の態度に変化はあるのかを注視していく必要がある。次回のICTSは、今後3年間のタイにおける政治とアカデミズムとの関係の変化(あるいは継続)を示唆するものになるだろう。

    写真3:学問の自由を求める声明の発表

    写真3:学問の自由を求める声明の発表

脚注


  1. これまでに、チュラーロンコン大学(1984年)、タマサート大学(2008年)、マヒドン大学(2011年)等といったタイ国内の大学の他、オーストラリア国立大学(1987年)、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(1993年)、ノーザンイリノイ大学(2005年)、シドニー大学(2014年)等、タイ国外でも開催されている。チェンマイ大学の主催は、前回1996年以降、今回で2回目となる。
  2. http://www.icts13.chiangmai.cmu.ac.th/downloadabstract.php
本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。