ライブラリアン・コラム

特集

ウェブ資料展:途上国と感染症

中東・北アフリカにおける保健医療の課題とCOVID-19

高橋 理枝

2020年8月

今回紹介する資料
末尾に「(※)」印が記載してある資料はアジア経済研究所図書館で所蔵しています。リンク先は図書の蔵書目録(OPAC)になります。
地域の感染状況
中東・北アフリカにおけるCOVID-19の感染は、1月29日にアラブ首長国連邦で4人の感染者が報告されたことに始まる。その後2月中旬にエジプト、イランと次々に感染者が見つかり、現在では地域全体に感染が広がっている(表参照)。7月に入って地域全体の新規感染者数は減少に転じたものの、累積感染者数は世界全体の約10%を占めるに至っている。

表 中東・北アフリカ地域のCOVID-19の感染者数等

(2020年7月19日現在、単位:人)

表 中東・北アフリカ地域のCOVID-19の感染者数等

(出所)WHO Coronavirus Disease (COVID-19) Dashboard(2020年7月20日アクセス)のデータを用いて筆者作成。

感染者数が集中しているのは広い意味での湾岸地域だが、目を引くのは感染者の死亡率の違いである。サウジアラビアなど湾岸諸国は、感染者は多いものの死亡率は1%以下なのに対し、28%というイエメンの死亡率は衝撃的である。イエメンでは、もともと保健衛生設備や医療体制が脆弱なところに紛争が続き、医療設備と医療従事者の深刻な不足に悩まされている。WHOによると18%の地域には医者が存在しておらず、大半の医療従事者は少なくとも2年間給与が支払われていない。しかも2016年からコレラが流行しており2020年1月には感染を疑われる事例が200万人に上り、その収束も見通せない状況のなかでのCOVID-19の発生である1。イエメン政府はCOVID-19に対応するための国家タスクフォースを設立したが、国境には感染者の出入国を監視する効果的なシステムもなく、また長い海岸線には対岸のアフリカの角から移民や難民が到着し続けていて、どんな対策がとりうるのかも不明だ。WHOはイエメンについて、紛争による国内避難民の衛生状態は悪く、また成人の多くが栄養不良で、感染症に対して脆弱な状態にあると警告している。

中東・北アフリカ地域における感染症と保健医療

現在のイエメンに見られる、感染症への脆弱性を増大させる課題とそれへの取り組みについては、edited by Samer Jabbour [et al.] ; associate editor, Rouham Yamout. Public health in the Arab worldでも指摘されている。本書はベイルート・アメリカン大学(レバノン)とビルゼイト大学(パレスチナ)の研究者を中心に編まれた、7部38章から成る大著で、この地域の保健医療の状況と課題について包括的に知ることのできる数少ない資料の一つである。感染症に関する章では、この地域に腸チフス、結核、デング熱など様々な感染症が存在し、それらがより貧しく社会的に恵まれない人々に偏った形で、大きな影響を与えていると指摘している。例えば社会経済的に劣位にあるイスラエルのアラブ住民の間では、腸チフスの感染者がユダヤ住民と比べて4倍に上ること、エジプトでの鳥インフルエンザが家禽に由来しており、都市部のスラムや農村の貧困層で人も家畜も過密状態で同居しているといった問題を指摘している。また2007年のイラクでの50年ぶりのコレラ発生は、紛争による建物の崩壊や大量の避難民の発生により感染症発生のリスクが高まった一つの例とされる。こうした状況の改善のために、感染症監視システムの強化、専門家の育成と保健省を含めた機関間の協力体制構築、貧困層等を対象とした政府のコミットメントの必要性、保健医療システムの強化とワクチンや医薬品購入のための地域パートナーシップの形成などを提案している。

本書は、この地域の疾病や医療について述べるだけでなく、国家建設における医療従事者の役割、人口の推移や環境汚染、グローバリゼーションや戦争、独裁など、保健医療に影響を与える政治的、社会的問題を幅広く扱っている。本書に通底しているのは、国家と市民の間の社会契約に刻み込まれた一つの権利として健康を捉えるという視点であり、健康促進は、平等と社会正義、より広い社会変革を目指す活動の文脈で捉えられている。「保健医療に関する活動は、政治的社会的改革を成しうるのか?」と題された最終章では、障碍者の権利やリプロダクティブヘルスに関して分野を超えて連携した社会運動を例に、保健医療の改革を通した幅広い社会改革の可能性に言及している。

本書の刊行から10年近くが経ち、アラブの政変も経て地域の政治状況は大きく変わった。他方、この地域の保健医療に関する社会科学的な研究はあまりにも少ない。今後、改めて地域におけるCOVID-19の影響と保健医療に関する分析・評価がなされる必要があるだろう。COVID-19を契機としたこの分野の研究の活性化が注視される。

COVID-19の社会的経済的影響――国際機関の調査報告

現在進行中のCOVID-19の社会的経済的影響に関する報告については、国際機関の対応が早い。国連西アジア経済社会委員会(Economic and Social Commission for Western Asia[ESCWA]))のウェブサイト"Socioeconomic Impact of COVID-19: Policy Briefs"には、ごく短い報告書だが、貧困と食料保障、ジェンダー平等、アラブ金融システム、若者などのトピック毎に、COVID-19の影響がまとめられている。またESCWAの報告書 Khalid Abu-Ismail. Impact of COVID-19 on Money Metric Poverty in Arab Countriesは、GCC諸国を除くアラブ14カ国において、2021年までに1日1.9ドル(国際貧困ライン)未満で暮らす人は、COVID-19が発生しなかった場合の試算と比べて約900万人増加するとしている。

最も資料が充実しているのは、国連開発計画(UNDP)アラブ事務所のウェブサイト"COVID19 Socio- economic impact assessments"で、COVID-19の影響に関する調査報告書を公開している。そのなかのTewodros Aragie Kebede, Svein Erik Stave & Maha Kattaa. Facing Multiple Crises. Facing Multiple Crises : Rapid assessment of the impact of COVID-19 on vulnerable workers and small-scale enterprises in Lebanonは、ILOをはじめ国際機関の援助を受けたレバノン在住のレバノン人とシリア人、および事業者を対象にした2020年4月の調査結果をまとめたものである。1987人の個人と、363の小規模事業者の回答を分析し、ロックダウン以前から働いていた労働者の84%が一時的もしくは完全に解雇されたとする。またレバノン人の49%、シリア人の77%が1カ月以内に貯金が底をつくとし、レバノン人の9%が職場で予防措置がとられていないと答えたのに対し、シリア人は37%が予防措置がないと回答している。事業者については3カ月変わらぬ状況が続くと、約6割は事業継続が困難、約8割の事業者は給与の支払いが不能となるだろうと回答している。本調査の結果はレバノン全体の状況を反映するものではないが、COVID-19がレバノン社会の周縁部にもたらした深刻な状況と格差の拡大を窺い知ることが出来る。

本報告書は、ILOが主導し、Fafo Institute for Labour and Social Researchをはじめとする開発援助機関との協力の下で進められている"The Initiative on: Assessing the impact of COVID-19 on labour markets in Arab States"の一環で出版された資料で、この調査を踏まえたフォローアップ調査を今後実施していくとのことである。ILOアラブ事務所ウェブサイトでは、他にも関連する大小の報告書が公開されており、上記資料と同じ著者がシリア難民に特化して執筆した"Impact of COVID-19 on Syrian refugees and host communitiesin Jordan and Lebanon"なども掲載されている。

シリア国内については、A. Abbara et al., "Coronavirus 2019 and health systems affected by protracted conflict: The case of Syria"が報告している。シリアは、政府支配下(保健省とWHO管轄)、事実上のクルド人支配地域である北西部、反体制各派が支配する北東部などに国家が分断され、統一的な国境対策や予防対策もとれていない。政治犯や反体制派など多くの人が収監されている刑務所も、過密で非衛生的な環境で栄養状態も悪く、COVID-19が一気に広まり重篤化する可能性があると危惧されている。また紛争により医療設備は50%以下しか稼働しておらず、70%近い熟練の医療従事者が国外に流出してしまったなかで、国内に留まり最前線にいる医療従事者への支援の必要性を訴えている。

これらの報告はCOVID-19がもたらした状況のごく一部を切り取っているに過ぎない。しかし今後の政策・支援策の策定において、重要な情報源となっていくだろう。

おわりに

最初に紹介したPublic health in the Arab worldは、2010年末から始まった政変がまだ「アラブの春」と呼ばれていた時期に、変革のうねりと期待のなかで刊行された。しかし多くの国で政変は、内戦や権威主義体制のさらなる強化に終わり、変革への希望は潰えたかに思える状況が続いている。Public health in the Arab worldは、権威主義体制が議論を抑圧してきたこと、医師たちが保健医療を公的アジェンダにできなかったこと、雇用や戦争、政治改革に比して保健に関する問題は女性的なトピックと見なされたことが原因で、アラブ諸国では保健医療に関する議論が希薄であったと指摘している。だが、今こそ保健医療について論じるべき時ではないだろうか。COVID-19は、社会格差や、保健医療制度に関する問題を政治化させることになるだろう。今後、保健医療改革を目指す活動が活発化し、Public health in the Arab worldが述べたように、そこから社会変革への新たな道が開かれることに希望をつなぎたい。

写真:カイロのレストランの貼り紙

カイロのレストランの貼り紙。
参考文献
写真の出典
  • Nessma Elaassar, Corona virus Covid 19's Poster, Cairo Opera House, 2020(CC BY-SA 4.0).
著者プロフィール

高橋理枝(たかはしりえ) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は中東・北アフリカ、アフリカ。最近の著作は「中東・イスラーム諸国関係資料紹介」『中東レビュー』Vol.7, 2020.3.

  1. イエメンのコレラ流行状況については、WHO東地中海地域事務所(Regional Office for the Eastern Mediterranean:EMRO)のウェブサイト参照のこと。