ライブラリアン・コラム

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ウェブ資料展:途上国と感染症

2003年SARSを教訓にした中国の公的医療保険改革

池上 健慈

2020年7月

今回紹介する資料
末尾に「(※)」印が記載してある資料はアジア経済研究所図書館で所蔵しています。リンク先はそれぞれの図書の蔵書目録(OPAC)になります。


2019年末、中国の武漢市に端を発した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は世界中で猛威をふるい、2020年6月時点で220の国・地域にわたり計900万人の感染者と約47万人の死者を出した[ロイター 2020]。無症状の感染者から他人にうつってしまうという厄介なその特徴から、同ウイルスは先進国でも脅威となっている。

一方、発生源となった中国ではすでに収束ムードが漂う。6月時点で1日の新規感染者数は多くて数十人、感染者の総数でみても世界第19位にとどまっている。現在も散発的なクラスターが発生しているとはいえ、中国は今回のCOVID-19禍をうまく切り抜けたといってよいのではないだろうか。少なくとも、あのときよりは。

あのとき、というのは2003年のSARSである。中国はこのときも新型コロナウイルス(SARS-CoV)の発生源となっていた。本土から香港、台湾、シンガポールへの感染拡大を止められず、中国政府は国際社会の猛烈なバッシングを浴びたものだ。

ところが今回のCOVID-19では、中国はそれなりに事態を収束させている。中国はウイルス抑制で世界に貢献した――。2020年6月、COVID-19に関して中国当局はこう誇ってみせたが、これはあながち虚勢ではないかもしれない。指定感染症への早期指定、医療費の減免・免除などの初動対応が今回は功を奏したし、何より前回のSARSからCOVID-19にいたる間に取り組んできた下地づくりが効いているようだ。

ここでは、そのなかでも効果を上げたと思われる近年の公的医療保険改革について、当館の蔵書を中心にご紹介したい。

2003年SARSとは何だったのか

前回の新型コロナウイルス感染症であるSARSの際、日本は1人の感染者も出していない。良くも悪くも対岸の火事で済んでしまっていたので、まずは2003年SARSを振りかえることから始めてみよう。

グリーンフェルド『史上最悪のウイルス』は、SARSの始まりから収束までを克明にレポートしたドキュメンタリーで、当時の医療従事者や研究者、当局関係者から貴重な証言を引き出している力作だ。戦中日記のような書きぶりは、パンデミックにいたる時々刻々の過程を恐ろしくも臨場感たっぷりに伝えてくれる。そして読み始めてすぐ、読者はSARSと今回のCOVID-19の様相がそっくりだということに気づくだろう。急激に人を死に至らしめる劇症性、治療にあたる医療従事者に次々と襲い掛かる感染力、「肺が粘液でいっぱいになる」特徴的な所見などは、まさしく今回のCOVID-19のそれだ。

本書は、深圳の野味料理店(中国版ジビエ)で働く出稼ぎ農民工の回想から始まる。彼はのちに最初のSARS(疑似症)患者となるわけだが、農民工である彼に都市の先進医療を受ける選択肢はない。なぜなら当時の農民工の多くは日本のような健康保険に入っておらず、月の収入の半分にもあたる治療費を全額自己負担する余裕がなかったのだ。彼らに許されたのは、場末の薬局で手に入る怪しげな漢方薬くらいのものだったという。

農民工の多くが「病気で寝こむよりも病院にいくほうを怖がった」という話は身につまされるが、これこそが2003年SARSで浮き彫りになった公的医療保険制度のほころびである。当時、農民向けの医療保険は激しい制度疲労に見舞われており、多くの「無保険農民」が生まれていた。そして無保険のまま都市部に出稼ぎにやってくる彼らは、感染拡大の大きなリスクとなっていたのだ。

2019年時点で中国全土に約2億9000万人いたとされる農民工のうち、半数以上の約1億7000万人は他都市への出稼ぎ労働者であった[SankeiBiz 2020]。当時、武漢にも200万人を超す農民工がいたが、もしも彼らや故郷の親族が無保険状態のまま放置されていたら、COVID-19の状況はもっと酷くなっていたかもしれない。

「無保険者」の解消に向けた動き

そもそも中国の公的医療制度は、1970年代後半の計画経済期まではうまく機能していた。農村部では、正規の医師に代わって「はだしの医者」とよばれる農村医が初期医療を担い、医療費については互助組織のような合作医療というしくみが支えることで、全体としては「低負担」「高普及」の医療体制を築いていたのである。

ところがSARSの頃には、中国の医療は「負担増」「受診難」と揶揄される状況にまで陥ってしまっていた。とりわけ農村では、1985 年以降に合作医療への参加率が5%にまで低下し、医療崩壊を起こしかけていたのだ。この理由は一体何だったのか。

飯島・澤田『高まる生活リスク』は、その理由を1980年代の改革開放政策に見出している。特に農村部では、医療保険を支えてきた人民公社の解体が決定的だったと指摘する。その結果、多くの農民は無保険状態におかれ、病気になっても治療費をすべて自己負担しなければならなくなった。「予防接種の費用さえ捻出できない」農民は、新型ウイルスどころか既知の指定感染症に対しても丸腰となっていく。

万が一SARSが多くの無保険者を抱える農村部へ蔓延すれば、事態は制御不可能な状態に発展しかねない。これを深刻視した中国政府は、感染症対策の一環としてまず農村住民を対象とした合作医療制度の再構築に乗り出す。2003年、互助方式の合作医療に初めて国庫を支出して「新型農村合作医療(新農合)」を開始し、北京オリンピック開催後の2008年末には加入率を90%にまで回復させた。その後の2011年には97.5%にまで引き上げている[澤田 2013]。

2010年以降の動きは、金貝『現代中国の医療行政』に詳しい。本書は改革開放政策が公的医療市場に「放任」を引き起こしたと指摘するとともに、予期せぬSARSの発生が新農合の再構築につながったと論じる。

中国の公的医療保険制度は長らく、都市戸籍者と農村戸籍者の2本柱で運用されてきた。SARS後もしばらくは、都市就労者向けの「都市職工基本医療保険」と農村住民向けの「新農合」の2つの柱で運用されたが、今度はそのいずれからもこぼれ落ちた存在が問題視された。都市に住みながら「働いていない人(非就労者)」と、都市に住みながら都市戸籍のない「農民工」である。

この問題に対応するため、中国当局は2007年に非就労者(高齢者や学生など)が加入できる「都市住民基本医療保険」を発足させる。これで中国の公的医療保険制度はいったん3本柱となった。その後2016年に「都市住民基本医療保険」は「新農合」と統合されて「都市・農村住民基本医療保険」となり、再び2本柱となって今に至る。またその間、2006~2009年にかけて「農民工」を医療保険の対象とする方針が発表され、こちらは都市ごとに独自の運用のもとですくい上げがなされている。

これらの方策により、中国における公的医療保険のほころびはひとまず解消された。一連の改革がCOVID-19抑制にどれほど寄与したか、現時点ではまだはっきりとはわからないものの、新規感染症に対する耐性がSARSのときに比べてかなり向上していたことは確かなのだろう。

写真:春節の帰省客で混み合う北京西駅

春節の帰省客で混み合う北京西駅
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参考文献
著者プロフィール
池上健慈(いけがみけんじ) アジア経済研究所学術情報センター成果出版課。